最終更新日 2010.11.28

1. 碓氷線開通
2. 電化
3. ED42の登場、アプト式全盛期
4. 碓氷白書、アプト式終焉へ
5. 新線の開通、アプト式廃止
6. 輸送力の飛躍、協調運転の開始
7. モータリゼーションの波
8. 国鉄の終焉・JRの発足・整備新幹線計画
9. 碓氷線廃止 しかし鉄路は残る
10. 付記

●甲斐より北武蔵から上野をめぐって西碓日坂にいたる。時に日本武尊つねに弟橘姫を顧みる情あり。故に碓日嶺に登り東南を望み三嘆して曰く『吾嬬者耶』・・・・・・ (日本書紀。群馬県の吾妻という地名の由来とされる箇所)
●日の暮に碓氷の山を越ゆる日は 背のが袖もさやにふらしつ  (万葉集)
※上記2件の舞台が現在の碓氷峠ルート(旧中山道に該当)であったかどうかは定かでない。

この文章は碓氷峠CLUB66.7が作成し、碓氷峠鉄道文化むらファンクラブ会報「とうげ」の長期連載「66.7の軌跡」として原稿提供させていただいたものを、碓氷峠鉄道文化むらのご諒承を得て全文転載したものです。なお、本文中、一部加筆修正した箇所があります。
※本文章の無断引用・転載・複写・配布ならびに商業利用を禁止します。


1.碓氷線開通

 官営鉄道直江津線高崎ー直江津間は東西直通の中仙道鉄道の一部として1884(明治17)年高崎ー横川間が開通した。その後、東西幹線鉄道は東海道ルートに変更されたが、直江津線は日本海側から順次開通し、1888(明治21)年暮れに直江津軽井沢間が開通した。最後に残った横川ー軽井沢間は、1884年に開通した碓氷新道(現在の国道18号線旧道)上を使って、碓氷馬車鉄道が1888年に開業していた。

 横川ー軽井沢間の路線決定までは紆余曲折があった。1884(明治17)年より本格的測量が始まり、ケーブルやループ、スイッチバック等、複数のルートが候補選定された。その後の現地踏査の結果、和美峠・入山峠・中尾線の3ルート案に絞られたが、急勾配のため技術的予算的に困難であり、政府は決定に苦労していた。1890(明治23)年、欧州留学中の技師からドイツのハルト山鉄道のアプト式を碓氷峠に採用してはどいうかという報告が入った。アプト式を前提に3ルート案を比較研究した結果、1891(明治24)年2月、最短ルートとなる中尾線ルートをアプト式で建設することが決定された。
 1891(明治24)年3月19日に着工。パウナルをはじめとする欧州から来た鉄道技師達が設計を行い、本間英一郎らの日本人技師と一丸となって建設にあたった。途中に熊ノ平信号場を設け、随道26ヶ所、橋梁18ヶ所、最大勾配66.7パーミル。全線距離11.2q、このうち約8qの最大66.7パーミル急勾配区間にラックレールを敷設、途中4箇所の普通軌道との接合点にはエントランス(枕木とラックレールとの間にバネを設置し、機関車のピニオンとラックレールがスムーズに噛み合うようにした区間)が設けられた。横川から丸山信号場までの約2qは25パーミル、熊ノ平信号場内は平坦線とし給水・給炭設備(全列車が熊ノ平に停車し蒸気機関車に給水を行った)が設けられた。当時は軌道資材の製造技術がまだ無かったため、アプト区間の鋼鉄製枕木などドイツ製が多用されている。1892(明治25)年7月には横川機関庫が新設された。
 1892(明治25)年12月22日、着工よりわずか1年9ヶ月で500人余りの犠牲者を出しながら工事は完了した。この工期は、当時の技術水準としては驚くべき短さであるが人的犠牲も莫大であった。橋梁などに使用された煉瓦は埼玉県川口や軽井沢塩沢などで製造されたが、その数は約1000万個と言われている。当時の技術を結集して作られた建築物の遺構は100年以上の風雪を耐えて今なおしっかりと残っている。なお、この工事の資材運搬には碓氷馬車鉄道が活用されたが、馬車鉄道は碓氷線開業とともに廃業することとなる。

 1892(明治25)年末、輸入されたドイツ・エスリンゲン社製C形軸配置の3900形蒸気機関車4両が横浜に荷上げ、翌年早々より新橋工場で組み立てられた。3900形は整備重量38.45トン、最大軸重14.55トン。シリンダーは蒸気用2個、ピニオン用2個の計4個あった。ブレーキ装置として、手用・真空の他に、ピニオンにかける帯制動機(ハンドブレーキ)、反圧制動機を備えていた。反圧制動機は、下り勾配を絶気運転中、逆転機を中立としシリンダーに空気を取り入れることで車輪の回転に応じた反圧力が生じて一定のブレーキがかかるという装置である。この時発生する高熱は水蒸気として煙突の周りに取り付けられたマフラーから排出される。この装置は単純ではあるが、下り勾配での抑速運転に有効であった。(この後20年間近く、勾配線用蒸気機関車制動装置として鉄道局で制式とされた)
 鉄道技術のほとんどを輸入に頼らざるを得なかった時代のことでもあり、図面と間違った組立てをしてしまうというエピソードもあったが、1893(明治26)年1月23日には碓氷線で試運転をすることになった。貨車2両を連結し推進運転を行い横川−熊ノ平間40分、熊ノ平−軽井沢間30分を要したが、故障のため試運転は中止された。翌日以降、故障箇所を修理の上で試運転を続行したが、牽引40トンを超えて連続運転すると缶圧が下がって途中停止してしまった。これは試運転を指導したイギリス人にアプト式蒸気機関車の経験がなく運転操作方法を誤ってしまったことにもよる。このような失敗を繰り返しながら日々工夫と練習運転を積み重ねた結果、3月末になってようやく営業運転開始のめどがたったのである。
 一方、試運転での苦労が世間に伝わり、1893(明治26)年2月の衆議院において碓氷線が鉄道輸送の任に堪えられるか否か等について議会質問が提出されるに至った。これに対して井上鉄道局長官は、「アプト式は近年の発明であるため雇外国人にも経験者がおらず、1月より日々試運転を行っている。現時点では当初の目的に達していないが鉄道としての効能を失うことは絶対に無い」という主旨の答弁を行っている。

 1893(明治26)年4月1日、碓氷線は開業した。そもそもアプト式はこの7年前にローマン・アプトによって特許が取られたばかりで馴染みもなく、欧州からの鉄道技術の輸入途上にあった当時の技術水準も相俟ってトラブル続きで多難の開業であった。
 開業当時の碓氷線にはエスリンゲン社製の3900形4両が配置され、牽引定数は70トン、片道75分を要し、1日4〜5往復の列車運転だった。アプト区間の最大運転速度は9km/hであった。所要時間と速度については蒸気時代を通じて大した進歩はなかった。その3年後1895(明治28)年にはイギリスのベイヤーピーコック社からボイラーを大形にした3920形が導入され、牽引定数は90トンに引き上げられた。さらに1898(明治31)年には1C1軸配置の3950形、1906(明治39)からは国産初のアプト式機関車3980形が登場し、牽引定数は100トンに増加した。1902年から列車の中間にも機関車を入れて2両で推進することになって牽引定数は140トンになった。機関車を列車の中間にはさんだのは、当時の連結器の強度が不足していたためで、このため横川駅と軽井沢駅では到着した列車の分割・再連結といっためんどうな作業が必要となった。1896(明治29)丸山付近に逸走した列車の脱線側線=避線(下記参照)が設けられたり、歯車緩急車「ピフ」の連結が開始されるなど、安全設備が充実していった。この歯車緩急車「ピフ」は機関車の次位に連結され、制動用のピニオンを装備し、機関車故障時の補助制動車の役割を果した。ちなみに「ピフ」の自重は16トンで、当時の客車2両分の重量があったため、その分、客車や貨車の定数が減ってしまった。

 アプト式蒸気機関車による登坂では凄まじい煤煙と熱に乗務員も乗客も苦しめられ、乗務員の窒息失神事故も発生した。熊ノ平駅で列車から降りてしまって乗車を拒んだり、煤煙で苦しめられるよりは歩いた方がましと熊ノ平から軽井沢まで敢えて徒歩を選んだ乗客もいたという。この苦痛を少しでも緩和するため、 20箇所のトンネルの横川側口に排煙幕が設置された。下り列車最後部の機関車がトンネルに入ると同時に幕を引き、空気の流れを遮断して煤煙が列車と一緒に流れるのを防いだ。この工夫により、乗務員や乗客の苦痛をかなり軽減したと伝えられている。排煙幕の引き役は「隧道番」と呼ばれ、トンネル口傍に作られた番舎に家族と共に住み、一日交代の24時間勤務を行っていた。幕引き作業では、突風などにより危険が大きく殉職者がかなり出たと言う。電化初期の蒸気併用時代には第三軌条に触れる感電事故もあった。排煙幕は1894(明治27)年頃から、全面電化完了の1921(大正10)年頃まで設置されていた。 

 1896(明治29)年5月1日、丸山付近に延長350m・200パーミルの避線が設置された。この避線は、列車が退行して停止不能になった時に誘導して列車の暴走を停止させるためのものである。1936(昭和11)年頃に廃止されたと伝えられる。この避線の有効性について実証された記録はないが、1906(明治39)頃に上り列車のブレーキ故障が発生、避線へのポイント切換指示の連絡が間に合わず、列車は横川駅まで暴走し車止を突破して機関車が崖下に転落したという事故が伝えられている(幸いにして乗務員は無事で、機関車も復旧した)。

 1901(明治34)年7月には、機関車故障により列車が退行(峠登坂中に停車して勾配を逆行)事故が発生し、当時の日鉄副社長毛利男爵が令息とともに列車から飛び降りて死亡した。毛利男爵は技師として碓氷線の勾配の怖さを知っていたので逆行をはじめた列車に危機を感じて飛び降りた。列車は柴機関士の決死の操作により、2キロほど逆走して停止した。碓氷線の104年の歴史は、このような鉄道員の命をかけた責任感によって支えられてきたとも言えよう。

 新潟・長野からの出荷繁忙期になると、軽井沢駅は碓氷線の輸送力の小ささがネックになり滞貨を極めた。また、急勾配区間の石油タンク車の通過には大きな危険が伴った。そのため、新潟からの石油タンク車分を国内初のパイプラインを設けて勾配を利用して横川駅まで自然流下させることになり、碓氷線に沿って油送管が埋設され、両駅には貯蔵タンクが建設された。1906(明治39)年5月より使用開始され、最盛期には年間17,000トンを運んだが、その後、迂回ルートが充実したため8年後の1914(大正3)年に廃止された。
 なお、1906(明治38)年10月1日には熊ノ平信号場が停車場に昇格している。

(注釈:アプト式蒸気機関車の形式番号は、機関車番号改正で数回変遷している。3900形・3920形・3950形・3980形はいずれも1909年の番号改正によって付けられた形式番号である。番号変遷については、本ページ下の付記を参照
(注釈:丸山の避線は、旧丸山変電所前から横川方向へ碓氷線の北側の杉林内へ延びていた。敷地は避線廃止後に民間に売却されている)


2.電化

 明治30年代末、1日の列車運転数は18往復程度が限度であり、1列車あたりの牽引も140トン(うち「ピフ」1両含む)には増強されていたが、最大速度が9.8km/h、片道75分を要する状態には変りなかった。輸送力を強化するため、軽井沢−矢ヶ崎信号間、横川−丸山信号場間の複線化、パイプラインによる石油輸送等、開業間もなくより各種の施策が行われてきたが、根本的な解決にはならなかった。また、列車本数の増加により、トンネル内での乗務員窒息事故も急増した。 1894(明治27)年頃より、トンネル内での煤煙の苦痛を和らげるためにトンネルの幕引きが行われたが、窒息事故を皆無とすることはできず、列車中間に入る機関車の乗務員や乗客にとっては効果は薄かった。
 碓氷線の輸送力の限界は明治30年代末の段階で顕著になっており、横川駅・軽井沢駅では慢性的に滞貨していた。おりしも1905(明治38)年に鉄道国有法が公布されたこともあり、1909(明治42)年、統一された国有鉄道網を統轄することになった鉄道院は碓氷線の電化を決定した。国有鉄道による最初の山岳幹線電化である。当時の国有鉄道は、東京の中央線と山手線を電化して電車運転を開始していたが、全く異なる条件での電化であり、多くの技術的課題を解決していかなければならなかった。碓氷線は急勾配を克服するというだけでなく、電化運転という意味でも、日本の鉄道技術史に輝かしい地位を占めている。
 電化は第三軌条方式とし、自営の火力発電所(出力3,000kw、3相交流6,600Vで変電所へ送電。電力の買電化により1927(昭和2)年に予備発電所化、1929(昭和4)年に廃止)を横川に、丸山と矢ケ崎に変電所を建設して電力を供給した。第三軌条方式を採用したのは、トンネルの断面が小さく、営業運転を継続しながら工事を行わなければならなかったという理由による。第三軌条方式による電化は国内初であった。なお、横川駅構内・同機関区と軽井沢駅構内は架線が張られ、機関車はポール(のちにパンタグラフ)で集電した。 なお、輸送量の増加に伴い1937(昭和12)年に熊ノ平変電区が新たに設置された。この変電区は粘着式新線になってからも使われ、1997年の碓氷線廃止とともに廃止されている。(丸山と矢ケ崎の変電所はアプト式とともに廃止された)

 電化工事は1910(明治43)年に開始し、1911(明治44)年に完了、1911(明治45)年より一部列車の電気機関車牽引を開始した。主として貨物列車では依然として蒸気機関車運転が継続され、電気機関車の故障も多かったため、全ての列車が電気機関車運転に変るのは1921(大正10)年のことであった。
 電化時に導入されたのが10000形(のちのEC40形)でスイスのエスリンゲンアルゲマイネ社製で12両が輸入された。これにより、アプト区間の速度は18km/hに向上し、片道47分程度での運転が一挙に可能となった。また牽引も1両で80トン2両で140トンの運転が可能にとなった。1915(大正4)年より、横川寄りに2両重連、列車の中間に1両の合計3両で牽引する運転が行われ、230トンの運転が可能となり輸送力は大きく改善された。
 10000形の導入により電化運転が開始された碓氷線だが、複数の機関車が運転のタイミングを合わせないと運転が困難で常に大事故と隣り合わせという状況は変わらなかった。初期の故障の多さもあって、運転には熟練と細心の注意が必要だったという。

 1918(大正7)年3月9日、電化運転後の最大事故が発生している。熊ノ平駅を発車し軽井沢に向けて登坂中の貨物列車が勾配途中で停止。再発車しようとしたが、列車が退行を開始し暴走。熊ノ平駅構内で待避線に突入し、列車は脱線転覆し破砕した。この事故で、乗務員ならびに駅員の3名が即死、機関士が重傷後死亡、4名が負傷した。旅客列車でなかったのが不幸中の幸いであったが、碓氷線の勾配の厳しさとアプト式運転の困難さを関係者に再認識させた大事故であった。

 1913(大正3)年には北陸線米原−直江津間が全通し、京浜地区から北陸方面への重要ルートとなり、上野から新潟、福井、金沢さらには神戸への長距離直通列車が運転されるようになり、碓氷線への輸送力増強の要求は増大し続けた。輸送力の増強のため1列車に機関車3両を充当する運転方式が普及すると、電気機関車増備が必要になった。1919(大正8)年からは10020形(のちのED40形)の製造が開始され、1923(大正12)年までに14両が作られた。この10020は大宮工場製で国産電気機関車第2号である。機関車重量は10000形より増大し軸配置もC形からD形になったが、性能的には10000形と大差は無かった。なお、国産電気機関車第1号は、大阪高野鉄道(現南海電気鉄道高野線)堺東工場で1916(大正5)年に製造された木造凸形電気機関車であるとされている。
 10020の増備により1921(大正10)年それまで一部に残っていた蒸気運転は完全に電気機関車運転に切り換えられ、碓氷線から蒸気機関車が引退した。長い間の煤煙の苦しみからようやく解放された訳である。10000形と10020形が揃ったことにより全列車での電気機関車3両運転が可能になり、蒸気機関車時代と比べて輸送力は大きく向上した。
  アプト式での事故防止のため、1921(大正10)年から翌年にかけて碓氷線の大改良が行われている。それまで碓氷線の保線の労力、特にラックレールの保守に多大な手間がかかっており、また軌道強度の不足等による事故が多かったこともあり、軌道およびラックレールを全面的に改修した。


3.ED42の登場、アプト式全盛期

 第一次世界大戦以後の日本の経済成長とともに、鉄道の輸送需要も大きく増大し、碓氷線の輸送力増強がまたしても大きな課題になり、より強力で新しい機関車の開発が求められるようになった。
 1926(大正15)年には、新形アプト式電気機関車の技術導入のため、スイスのブラウンボベリ社より2両の10040形(のちのED41形)が輸入された。10040形はこのあと登場するED42形の母体となる機関車である。ED41形は、スイス特有の部品が使われていたために整備ならびに部品補充が困難で2両の増備にとどまった。ED41形は、碓氷線のこれまでの電気機関車とは異なり、ボギー式台車を採用した。粘着台車を2個とラック台車1個を持ち、1台車あたり1個の電動機を装備。それぞれの粘着台車は動輪2軸を1段減速歯車とスコッチヨーク併用で駆動、ラック台車はピニオン2個を2段減速歯車で駆動した。また、機械式の過速度検知装置を装備していた。これは一定の速度に達すると自動的にブレーキがかかる仕組みである。運転室は横川寄りのみの片運転台であった。集電は従来通り直流600Vで第三軌条方式、横川駅構内・同機関区と軽井沢駅構内ではパンタグラフを使用した。なお、碓氷線で使用されたアプト式電気機関車は全て発電ブレーキを装備しており急勾配を下る時(上り列車)に使用した。また、制御回路用の蓄電池を搭載し、停電時でも発電ブレーキによる下り勾配運転の継続および停止が可能である仕様も歴代の電気機関車で踏襲されていた。
 1929(昭和4)年に電気機関車が横川寄り2両、中間2両の合計4両で280トンを牽引する列車も実現。横川寄り3両、中間2両の合計5両で360トンを牽引する試験に成功した。しかし、10000形、10020形(1928年に、それぞれEC40形、ED40形に、10040形はED41形に改称)は老朽化し性能も低いため、ED41形をモデルにしたED42形の開発が急がれることとなった。このED42形こそが、我が国アプト式電気機関車の決定版とされアプト式碓氷線の全盛期を担った機関車である。
 ED42形は、ED41形をモデルにし、鉄道省の基本設計の下に日立製作所、東京芝浦電気、汽車製造、三菱重工業、川崎車両、川崎造船所、東洋電気が製造にあたった。最初の4両が1934(昭和9)年に完成し、大戦後の1947(昭和22)年まで、28両が製造された。ED42形は、基本設計においてED41形の改良版であった。運転整備重量は63.4トン、B−B形軸配置、MT27形式180kw電動機3個を装備し、2個で粘着用動輪を、1個でピニオン2軸を駆動した。列車の横川寄りに3両、軽井沢寄りに1両を連結し、360トン牽引、速度は18km/h、片道45分程度で運行できた。
 電気機関車運転の初期には10000形(のちのEC40形)による統括制御運転(1両の機関車が他の機関車を遠隔制御する。そのためのケーブルを列車の各車両側面下に吊るしたようである)が行われたが故障が多く、1915(大正4)年に中止されている。その後は、1列車に複数充当された機関車にはそれぞれ機関士が乗務しており、汽笛の合図により各機関車が共通の操作をするという高度な熟練を要する運転が為された。これはその後のアプト式運転時代を通じて変らず、ED42形の時代でも同様だった。運転のタイミングが合わないと、ラックレールやピニオン、モータを痛めてしまい、最悪の場合は列車退行という重大事故を引き起こす危険があったため、機関士の苦労は並大抵ではなかったと言う。EC40形は1936(昭和11)年、ED40形とED41形は1951(昭和26)年までに全機廃車され、その後、アプト式が廃止された1963(昭和38)年9月30日まで28両のED42形が孤軍奮闘でアプト式碓氷線を守ることになる。
 1946(昭和21)年に、アプト区間での粘着運転試験が実施された。ED42形電気機関車のピニオンをはずしラック電動機も開放した状態での試験であったが、試験の手応えは十分であり以後の研究の展望となった。また、第二次世界大戦後の電力供給逼迫による電力料金の高騰により、昭和初期より研究されていた電力回生ブレーキがED42形で実現されることとなった。これは下り勾配運転時、発電ブレーキにより発生した電力を架線を通じて変電所に返して利用するもので、機関車を発電所として使うものである。1953(昭和28)年より全列車で電力回生ブレーキ使用が開始され、電力料金の節減に大いに貢献した。

 戦後まもなく、碓氷線史上最大の災害が発生した。1950(昭和25)年6月8日、熊ノ平駅構内の第10号トンネル出口で約3,000立方mにおよぶ土砂崩れが発生し線路が埋没。夜を徹しての復旧作業が直ちに開始された。しかし、翌9日早朝、さらに約7,000立法mにおよぶ大規模な土砂崩壊が発生し、復旧作業中の職員と駅前にあった職員用宿舎5棟を直撃。作業中の職員38名と宿舎にいた家族12名の合計50名が死亡、24名が重軽傷を負うという大惨事となった。降り止まぬ雨の中、生き埋めになった方々の捜索作業と復旧作業が必死で続けられた。最後の遺体が発見されたのは22日、貨物列車の開通は20日、旅客列車の開通は22日であった。一周忌の1951(昭和26)年6月9日、国鉄当局と職員の浄財により殉難現場に「熊の平殉難碑」が建立されている。(建立当時は線路の山側にあったが、参拝者の安全確保のため1968(昭和43)年12月に現在の場所に移設された)

 1954(昭和29)年10月、上野−金沢間に急行「白山」が新設された。碓氷線を通過する戦後初めての急行列車である。乗車率が100%を超えるのも珍しくない人気列車であったが碓氷線の牽引定数が抑えられているため編成増ができなかった。そのため、10系軽量客車に置き換えられ長編成化された。(私事になるが、記者の碓氷線初体験は10系客車時代の急行「白山」であった。その時の思い出は今も鮮烈である)
 1961(昭和36)年5月には、アプト区間通過可能なようにキハ58系気動車から設計変更されたキハ57系を使った急行「志賀」が登場した。これは上野と長野間を結ぶもので、急行形気動車とED42形との異色の取り合せが碓氷線を彩った。また、同年10月にはキハ80系特急形気動車を使った特急「白鳥」が登場。碓氷線を通過する初めての特急となった。「白鳥」は、大阪−青森間と同上野間の編成が併結された列車であった。これら気動車優等列車の場合、4両のED42形が横川側に連結されることが多かった。アプト時代末期、1962年の碓氷線電化50周年の前年である。
 ED42の奮闘により1列車あたり360トン牽引まで向上した。しかし、1日の列車本数は48本(24往復)程度が限度とされ増発列車に対応できないなど、輸送力のネックが戦後の復興と高度経済成長開始の中で再び問題となった。また、長年の酷使で施設や車両の老朽化も著しく進み、更新の必要に迫られた。そして、明治初期の碓氷線計画時と同じテーマが再び大きくクローズアップされることとなる。


4.碓氷白書、アプト式終焉へ

 1956(昭和31)年8月、高崎鉄道管理局が「碓氷白書」を作成し、国鉄関東支社へ提出した。その要旨は、「近年急速に輸送量が増大してきたが、碓氷区間が隘路となり輸送需要に応じられず、一部貨物は上越線迂回をせざるを得ない状況にある。一方、施設と車両はアプトという特殊性に加え、その大部分が老朽・不良化しており、その保守は年々困難の度を増しており、このまま推移すれば数年にして莫大な経費を投じて根本的改修を行う必要が生じる。以上の状況にかんがみ、これを打開して国鉄の健全な経営に役立たせるには、直ちにその対策に着手すべきであり、碓氷線の現状を記し特段の注意を喚起する」というものであった。これを受けた関東支社は翌1957(昭和32)年5月、25パーミル勾配の新線を建設し補機なしで通し運転する案を最善と結論して国鉄本社へ上申した。国鉄本社では技師長室を中心に検討を進めた結果、当時の車両性能とくに粘着性に関して格段の進歩をとげた事実に注目し、25パーミル新線建設案のほかに66.7パーミル線増案を併せて審議することとして本社理事会に提案した。

 なお、当時の技師長は、D51形蒸気機関車から東海道新幹線まで数多くのプロジェクトを主導したエンジニアであり、世界鉄道史上にも燦然と輝く業績を残した島秀雄氏(1998(平成10)年3月18日没)であった。ちなみに、島秀雄氏の父、島安次郎氏も明治から大正の鉄道黎明期・発達期を支えた指導的エンジニアであった。碓氷線においては、父・島安次郎氏がアプト式での電化で指導的役割を果し、子・島秀雄氏がアプト式廃止・粘着運転化を指揮するという、親子二代による密接な関わりがあった。この親子が日本の鉄道史で果たした役割は傑出したものであり、鉄道近代化ならびに広軌による高速鉄道実現の歴史はこの親子の存在なくしては語り得ないものである。

 さて、25パーミル新線案は次のようなものであった。(1)現在の横川−軽井沢間11.2qの代わりに迂回ルート25.2qによる単線または複線を建設する。(2)最急勾配を25パーミル、電化運転を前提とし、本務機または電車のみによる上野からの直通運転を可能にする。(3)貨物列車では単機500トン、重連で900トンの牽引を可能とする。(4)ただし線路延長が2倍以上になるため、運転時分は現在より延長ぎみになる。(5)工事費は相当多額になる(当時の試算で単線41.8億円、複線70億円)。工期は単線で約3年。この案によるルートは、横川駅を出発後、大きく左にカーブして入山集落を経てループ線とトンネルで登坂し、入山峠付近から軽井沢駅に至るものである。これは、明治時代に碓氷線を計画する際に入山ルートとして検討されたものに近い。
 一方、66.7パーミル線増案は次のようなものであった。(1)現在線の山側に1線を増設し、当面は新線のみを使用して新性能補機による粘着運転を行う。電圧は現在の600Vから1500Vに昇圧する。(2)工事費は20億円、工期は約1年半。(3)高崎−横川間の電化工事が完成すれば上野よりの本務機による直通運転も可能になる。(4)旅客列車には本務機1両と補機1両で320トン、貨物列車には補機2両を使用して500トン牽引を可能とする。(5)機関車の性能向上により約20分の運転時分短縮を実現し、線路容量も増強する。(6)現在線を改修すれば容易に複線化を実現でき、輸送上の難点は完全に除去できる。(7)下り勾配運転時の安全確保については、補機に各種装備を備えることにより、現在方式ならびに他線区と比較して同等以上の保安度を保てる見込みである。(8)ただし、専用電車を除いては、横川・軽井沢両駅における一般列車に対する補機の解結作業は将来も残存する。(9)本案による工事を行う場合は、現行の建設規定を超過するため特認が必要である。
 66.7パーミル線増案は、工費42億円に対して20億円と安く、工期3年に対し1年半、運転時分20分短縮可能、心配された下り勾配運転時の安全確保も見込みがついているということで有利だったが、貨物列車牽引力の少なさ、碓氷線専用の特殊な補機の製造、補機解結作業を必須とする、輸送力に比した維持経費が大きいなどの決定的な悪条件もあった。
 1959(昭和34)年8月25日、国鉄本社理事会において、工費・工期・輸送量の将来性・安全性などを総合的に判断した結果、現在線に沿って1線(新線複線化時の上り線)を線増し同時にアプト式を廃止して粘着運転に切り換え、二期工事として現在線を改良(新線複線化時の下り線)して最終的に複線化する66.7パーミル線増案に決定した。工費ならび工期面で有利だが急勾配で強力な専用補機が必要なルートを選択するか、工費と工期で不利だが緩勾配で補機無しでの通し運転が可能なルートを選択するか。これは明治時代の碓氷線計画時にも大きな問題となったが、進歩した鉄道技術の裏付けもあって再び66.7パーミル急勾配ルートが選択されたわけである。この問題は、後の北陸新幹線のルート選定で三度浮上することになる。
 この決定を受けて直ちに関係部局に設計等作業開始が指示され、新技術による重軌道設計、新型電気機関車の設計・試作などが着手された。1960(昭和35)年秋に機関車の設計が開始され、翌1961(昭和36)年4月5日に碓氷新線の工事が着工された。1962(昭和37)年6月には新しい機関車の性能試験を行う試験線(新線の丸山信号場から第1号トンネル手前までの66.7パーミル区間含む約2qを使用)が完成した。試験線の完成と歩調を合わせる形で同年5月には、本務機EF62形および補機EF63形の試作機(1号機)が1両ずつ完成し、6月から試験線上での第一次性能試験が実施された。この試験は比較的順調で、心配されていたブレーキでは大きな問題がなかったが登坂時の空転では予想以上に苦労した。これら試験の結果、妥当な牽引定数や、下り勾配運転時での制限速度(旅客列車で37km/h以下、貨物列車で22km/h以下。この速度を数km/h上回るといかなる非常ブレーキでも停止不能になる)などが検証された。
 第一次試験で発生した問題点には各種対策が施され、1963(昭和38)年1月からは第二次性能試験が開始された。同年5月には新線全線の工事が完了し、5月13日から入線試験も開始された。あらゆる過酷な条件を想定しての試験・訓練が続けられたが、5月頃より列車の連結器が切断する事故が多発し始めた。EF63が1両で試験をしていた時には発生しなかったが、EF63を2両連結して試験を開始してから発生し始めた事故である。台車に空気バネを使った165系電車の脱線ならびに台車破損事故も発生した。これらの事故により、非常ブレーキなどで急激なブレーキ作用があった時に連結器にかかる荷重が予想外に大きくて連結器などの強度を上回っていたことや、台車の浮き上がりや破損の現象が確認された。66.7パーミル勾配の厳しさを関係者は改めて思い知らされるとともに、新線開業予定の7月15日を目前にして対策が急がれた。


5.新線の開通、アプト式廃止

 一期工事は着工以来約2ヵ年で、工期、工事費ともに当初計画に若干の余裕を残して竣工した。この間の工事犠牲者は5名に留まり、明治の碓氷線建設時の500名以上にもおよぶとされる犠牲者数と比べると感慨深いものがある。なお1961(昭和36)年4月5日に行われた一期工事の起工式には、国鉄常務理事などの国鉄幹部や関係自治体の首長らが参席し盛大に行われた。着工の翌年4月には、十河国鉄総裁が工事現場を視察している。これは、碓氷新線建設についての国鉄の意気込みと関係者の期待の大きさを示すものである。碓氷新線建設については、国会予算委員会で安全性についての野党質問が出るなど短距離区間にしては異例の注目を集めたが、答弁にたった国鉄側は「国鉄の技術の粋を集めているので危険は全くない」とした。実際、碓氷新線に関係した国鉄技術陣ならびに建設会社などの民間技術陣は当時最高の陣容であった。

 なお1962(昭和37)年7月15日には高崎−横川間の電化が完成、上野−軽井沢間に80系電車による臨時準急「軽井沢」2往復の運転が開始された。ただし、横川−軽井沢間は線路容量の不足からバス連絡となった。翌1963(昭和38)年7月15日の新線開業前までには、軽井沢−長野間の電化工事も完成している。また、新線開通後の1966(昭和41)年8月24日に長野−直江津間電化が完成し、安中−横川間の複線化も完了するなど、信越本線の近代化が行われた。

 新線建設と並行して試作機を使用した性能試験により最終設計が行われ、1963(昭和38)年3月から7月にかけて第一次量産車としてEF62形が23両、EF63形が12両完成した。登場時、第一次量産車の外板は茶色塗装であり、後に直流電気機関車の新標準色である青色に変更された。EF63形は第二次量産車8両、第三次量産車4両、試作車(1号機)と合わせて1976(昭和51)年までに合計25両が製造された(うち2両は事故廃車、碓氷線廃止時には21両が配備。詳細は後述)。EF62形は第二次量産車30両、試作車(1号機)と合わせて1968(昭和43)年までに合計54両が製造された。
 EF63形は、横川−軽井沢間の66.7パーミル勾配を粘着運転するために当時の技術力を結集して開発された碓氷峠専用の電気機関車である。通常の空気ブレーキのほか強力な発電ブレーキ、急勾配停車中の非常用転動防止装置として電滋吸着ブレーキ・転動防止用ロックシリンダ・電機子短絡スイッチを備え、さらに過速度検知装置(OSR)、電機子分路再粘着装置等、急勾配の安全対策装置を備えていた。また大容量の蓄電池を搭載し、停電時でも空気圧縮器や保安装置を動作させ、発電ブレーキの予備励磁電源として用いるなど、勾配途中での長時間停車ならびに下り勾配運転再開を可能とした。過速度検知装置(OSR)は下り勾配運転中に設定した制限速度に近づくと警報を出し、制限速度を超えた場合は自動的に非常ブレーキを作動させる仕組みであった。設定速度は「高」(旅客列車)で警報動作が35q/h、非常ブレーキが38q/h、「低」(貨物列車)で警報が22q/h、非常ブレーキが25q/hとなっていた。なおこの装置の作動のため、空転や滑走に影響されない正確な速度を検知するために中間台車に速度検知用の遊輪が設けられた。ED42形で実績のあった回生ブレーキが採用されなかったのは、列車荷重の変動と架線電圧の変動の組合せによる速度変動防止ならびに架線電圧の急変や停電時などでの安全性維持などの点で発電ブレーキの方が有利と判断されたからであった。なお運転整備重量108トン軸重18トン、旧国鉄時代の電気機関車として最大軸重であったが、この軸重も急勾配での粘着性能維持のためであった。この軸重を支えるため、碓氷線には新設計での重軌道構造が採用されている。また架線にダブルシンプルカテナリが採用された。
 碓氷峠を通過する列車には電車列車も含め全てEF63が連結されることになったため、EF63の軽井沢方の連結器には電車とも連結可能な双頭連結器及び電気ジャンパー連結器を備えていた。計画段階では列車重量に応じてEF63の連結両数が1両から3両まで変動する案もあったが、過酷な実地試験の結果、列車重量の制限の上でEF63形は2両ペアーで重連運用されることになった。EF63は上り列車下り列車ともに横川寄りに連結された。従って、横川から軽井沢に向かう下り列車(峠を登る)では列車の最後尾に連結されることとなり、アプト時代と同じ運転形態となった。アプト時代の電気機関車とは異なり、EF63には両エンドともに運転台があったが、機関車のみでの回送運転時を除き通常の列車牽引では横川寄りの運転台が使用された。ただし、碓氷峠での列車牽引で必要な運転装置は横川寄り運転台に集中的に設置されていたため、両エンドの運転台の様子は相当異なっていた。このようなEF63特有の運転形態ならびに運転台の構造は、66.7パーミル勾配がほぼ全区間で一方的に続くという碓氷峠の特異な線形において下り勾配逸走防止対策が最優先されたことからきていた。これは碓氷峠で使用された歴代専用機関車共通の特色でもあった。
 EF62形は、信越本線の長野までの電化に備え、上野−長野間牽引用高性能機関車として開発された。EF62形は、碓氷線通過中にEF63形との協調を図るため、引張力や速度性能等を一致させてある。一方で線路路盤の弱い信越本線で使用するための軽量化に主眼において設計された結果、C-C型という新性能機関車唯一の独特な構造の台車、屋根上の一部がFRP(強化プラスチック)で構成されるなどの特徴を持っていた。運転整備重量96トン軸重16トン。抵抗制御器では電動カム軸式制御器を開発し以後の新性能機関車の基礎を確立した。直並列制御での牽引力の変動を防ぐため橋絡渡り方式を初めて採用した。またEF63と同様に強力な発電ブレーキを装備するなど、碓氷峠通過のために数々の特殊装備を持っていた。
 EF62形とEF63形は、国鉄新性能機関車の標準設計に準拠しながらも、碓氷峠通過のために他機関車にはみられない特殊な重装備をもち、また外形デザインも類をみない独特のものとなった。EF62形は急勾配線区用機関車共通のいかつい部分も持ちながら女性的な優美なデザイン、EF63形は後に「峠のシェルパ」と綽名されるような男性的で厳しいデザインと、国鉄電気機関車の歴史の中でも、ひときわ印象深いものであった。なお、EF62形第一次量産車を除き、EF62形EF63形の試作車(1号機)と量産車全タイプが碓氷峠鉄道文化むらで保存展示されている。

 さて、新線の開業予定は1963(昭和38)年7月15日であった。しかし、直前の試験運転で発生した問題(前号で記述)の解決が間に合わず、全面的に新線に切り換えることが困難となった。そこで慎重を期すために新線への全面切り換えを10月まで延期し、それまでの間、アプト式旧線との併用運転を継続することになった。問題の空気バネを使っていない80系電車を新線経由とし、他の列車は当分の間旧線経由としたのである。その結果、82系DC特急「白鳥」も57系DC急行「志賀」も旧線経由となり、新線経由の80系準急よりも10分以上遅くなることになってしまった。
 1963(昭和38)年7月15日09:00より、碓氷新線開通および軽井沢−長野間の電化開通の記念行事が約1000名の参列で横川駅で盛大に行われた。初列車は横川10:18発の80系電車準急「軽井沢1号」であった。
 とりあえず新線開業はしたものの、10月までには問題を解決しなければならない。検討の結果、非常ブレーキをやや遅延して働かせるために車掌弁に絞り弁を入れ、機関車の緩衝器を改造する、この区間だけ空気バネの空気を抜く、客車と貨車の連結両数を予定より減らす、台枠や連結器を強化する、列車重量の制限の上でEF63は2両連結までとするなどの対策が決定された。なお、横軽対策を施された車両には車体側面の車番標記の前に直径40mmの ●印が記され、この対策が施されない車両の碓氷線通過は禁止された(この印は碓氷線廃止後の今でも一部車両に残されている)。このような対策を実地検証するため8月5日から22日までの間に試験を重ね、ようやく10月の全面移行のめどが立った。
 いよいよアプト式を廃止し全面的に粘着運転の新線に切替える日が来た。1963(昭和38)年9月29日より約500名の作業員が各担当部署に待機し、30日01:00より準備作業開始、下り横川発3:55の第611旅客列車をアプト式最終列車として列車の熊ノ平駅通過後直ちに本切替作業に取り組み、07:55に線路切換工事は無事完了した。9月30日からは全列車が粘着運転での新線経由になった。ここに明治より70年間続いたアプト式の歴史が終焉したのである。
 なおアプト式廃止を記念して1963(昭和38)年11月30日に横川機関区敷地内に建立された「刻苦70年」記念碑は、現在、碓氷峠鉄道文化むらメインゲート付近に移築されている。


6.輸送力の飛躍、協調運転の開始

 新線全面切替後、引き続き1964(昭和39)年よりアプト式旧線を撤去し改良工事が開始された。第二期工事である。丸山−熊ノ平間は旧線ルートからはずれ開通済の新線にほぼ並行して新設され、熊ノ平−軽井沢間は一部を除いて旧線を改築した。この結果、旧線の26箇所のトンネルは新設区間のトンネルも含めて18箇所となった。1966(昭和41)年7月2日、工事は無事完了し、横川−軽井沢間は全区間複線化された。これに伴い、丸山と矢ケ崎の両信号場は廃止された。第一期工事で先に開通していた部分が上り線(トンネル数は11)、この第二期工事で開通した部分が下り線となる。EF62+列車+EF63重連で、旅客360トン、貨物400トン。旅客列車で所要時間下り17分、上り24分とアプト時代からは大幅に短縮。これによって、碓氷線の輸送力は飛躍的に増大した。なお、複線化完成に先立ち1966(昭和41)年2月1日には熊ノ平駅が廃止されている。

 長野までの電化完成に伴う1963(昭和38)年10月1日のダイヤ改正により、急行「志賀」等のキハ57系気動車急行が電車化、増発された。165系電車による急行「信州」「とがくし」「志賀」である。上野−長野間の急行列車所要時間は30分近く短縮され最速の列車で3時間55分となった。1966(昭和41)年10月には181系電車を使った特急「あさま」が上野−長野間に2往復登場した。
 しかし、これら電車列車の編成は、碓氷線通過時の安全対策上から空気バネパンク装置などの横軽対策が施された上で8輌編成に制限されていた。EF63形開発時点では、動力をカットした電車12輌編成をEF63形3重連で牽引・推進することを目標としていたが、前号までで記述した通りEF63形重連での7輌ないし8輌編成に保安上制限されたのである。当事、他線区の電車特急が10〜12輌編成であったことと比較して輸送力が小さく、また短編成を強いられて食堂車の連結を断念したためサービス面でも見劣りした。一方、客車列車の場合は軽量客車でも最大11輌に制限されていた。高度経済成長期、主要幹線での輸送力増強が急激に進められる中で、碓氷線を抱える信越本線は輸送上のネックとなったのである。
 なお、1965(昭和40)年10月、従来の特急「白鳥」の金沢−上野間が独立し特急「はくたか」となった。キハ80形気動車7輌での運転である。当然のことながら碓氷線区間ではEF63形重連に牽引・推進されていた。1969(昭和44)年10月、北陸本線・信越本線の全線電化の完成により、「はくたか」は485系電車により電車化され、同時に勾配の緩い上越線経由に変更された。これにより、アプト時代末期から8年間続いた碓氷線の気動車特急通過は終了した。またキハ57形による気動車急行は1966(昭和41)年10月ダイヤ改正で165系化されていち早く消滅している。

 高度経済成長により、避暑地軽井沢の観光客が急増、一方で長野県内のスキー・リゾート施設の開発がすすむに従い、首都圏から長野県へ向かう旅客も急増した。北陸方面から首都圏への旅客も増大していた。いずれも、年末年始や観光シーズンを中心としたピーク輸送量の急増である。それに対して、碓氷線の線路容量は早くも限界に近づき、再度輸送力増強が急務となった。優等列車が8輌編成では輸送力不足が明らかであったため、EF63形電気機関車と協調運転して12輌編成で碓氷線通過可能な電車が開発されることになった。
 1967(昭和42)年6月より協調運転方式の検討が本格的に開始された。実は1963(昭和38)年7月、当事登場したばかりの165系とEF63形との協調運転の机上検討がされており、若干の改造により実用可能であるとの結論を得ていたのである。電車編成を12輌化するにあたって各種の案が検討された。勾配線用に歯車比を大きくした上で全車両を電動車とする「全電動車方式」にすれば理論上はEF63形を連結せず自力で碓氷線を通過できるが、重装備となり平坦線での効率的運用が難しい。非常時の過大な衝撃を吸収するための特殊な緩衝車を開発しEF63形3重連と電車の間に連結する「緩衝車方式」では、特殊車両の開発試験が間に合わない。結果、EF63形重連で機関車から電車を統括制御し電車4輌分程度のパワーを電車側が分担する「協調運転方式」が、現実的な解決策として採用されることとなった。ちなみに「全電動車方式」による電車のみの自力運転は後に再び検討された(187系など)が、結局実現することはなかった。

 協調用電車は165系電車をベースに開発が開始された。1967(昭和42)年12月には、165系に協調運転用の装置を追加した試作車両165系900番台(後に169系900番台に改称)12輌が製造され、EF63形にも協調改造がなされた。電車側には、EF63形と連結する制御先頭車クハに協調運転用のジャンパ連結器が増設され、協調制御用の回路や機器が装備された。協調運転時には電車運転台の「横軽協調スイッチ」を投入するだけで協調用機器がスタンバイし、協調運転が可能となる。協調運転時には力行・抑速ブレーキともにEF63形から全て制御されるため、非常時扱いを除き一切の運転操作をせず前方の信号監視・安全確認のみを行い、EF63形機関士には連絡回線で連絡を取りあう。一方、EF63形側にも協調用ジャンパ栓受けを増設し、協調運転用の回路や表示灯などの機器が設けられた。力行登坂時に電車側で故障が発生した場合、2ユニット以上が故障すると自動的に非常ブレーキが作動し停止。抑速降坂時には、2ユニット以上が故障した場合でも安全に降坂を継続もしくは停止できるように周到な安全回路が装備された。
 考えられる悪条件を再現しての大掛かりな試験の結果、一部の改良で十分実用に耐えうることが立証された。これにより、1968(昭和43)年1月には量産決定がなされた。量産車は基本的には165系と同一(基本性能は同一、混結も可能)ながら、協調運転用の特殊装備を追加したため別形式とされ169系となった(一部車両は165系から改造された)。これ以降、形式番号末尾「9」は横軽協調車両にあてられることとなり、最終的に169系、489系、189系の3形式が協調可能車両として製造されることとなる。(後に、これら3形式以外でも末尾「9」番台の形式が登場しているが、協調可能車両ではない)かくて、12輌編成の電車が他線区と支障なく直通運転できることとなり、他線区とほぼ同等の輸送力を確保できることとなったのである。
 1968(昭和43)年10月のダイヤ白紙大改正・通称「よん・さん・とお」で、初の協調運転可能電車として直流専用の169系が急行「妙高」「信州」に投入された。12輌編成でビュフェ車が組み込まれるなど、181系の特急「あさま」を輸送力とサービスにおいて上回った。一方、特急「あさま」は増発されて3往復になり、最高速度120q/h運転により上野−長野間の所要時間は27分短縮され3時間3分となったが、8輌編成に制限されたままで慢性的な混雑状態が続き、特急形での協調可能形式の登場が待望された。
 169系での協調運転の成功をうけて、特急形電車での協調運転可能形式として交直両用485系をもとに489系が開発された。開発にあたっては169系と同様の協調運転用装置が増設された。1971(昭和46)年11月に、489系12輌編成での協調運転が行われ、1972(昭和47)年3月15日のダイヤ改正で特急化された「白山」に充当された。「白山」は10系軽量客車による急行時代から2時間20分ものスピードアップを行い所要時間6時間28分、12輌化が実現したため食堂車も連結され、首都圏−北陸間の輸送力ならびにサービスは飛躍的に向上することとなったのである。485系は国鉄の全電源方式に対応したため全国どの電化路線でも運用できるオールマイティな車両であったが、それをベースとした489系もその特色を発揮し、以後大活躍することとなる。碓氷線廃止後も、485系に混じって相当数の車両が残存し現役である。
 一方、寒冷地での酷使が祟り老朽化が目立ってきた181系電車による特急「あさま」についても、いよいよ更新・輸送力増強が必要となってきた。まず、1975(昭和50)年3月に一部の列車が489系により12輌化された。また、直流専用の特急形183系1000番台に169系・489系と同様の協調運転用装置を増設した189系が開発され、1975(昭和50)年7月1日までに順次「あさま」に充当され10輌化が実現し、同時に181系は「あさま」運用から引退することとなった。1978(昭和53)年10月には「あさま」は増発され10往復となり大部分が12輌編成化された。
 普通列車でも輸送力増強が図られた。1972(昭和47)年3月ダイヤ改正により大部分の普通列車が80系電車になり、1978(昭和53)年1月からは115系1000番台電車が登場した。同年3月には80系電車列車の115系1000番台への置換が完了している。碓氷線での普通列車需要がそれほどではなかったため、普通列車用電車で協調運転可能形式が開発されることはなかった。信越本線に投入された新形式電車である115系1000番台も非協調運転であり最大8輌に制限されたままであった。
 協調運転可能な3形式の登場により、66.7パーミルという極めて特殊な急勾配区間を持つ一大幹線という世界でも類例を見ない条件下で、優等列車中心での輸送力増強が実現したのである。


7.モータリゼーションの波

 1975(昭和50)年10月28日早朝6時16分、新線での最大の事故が発生した。上りの機関車回送列車(EF62形12号機・35号機、EF63形5号機・9号機の4重連)が降坂中に暴走し、上り線1号トンネル横川寄り出口を出たカーブで脱線転覆。機関車4輌ともが約10m下の突堤斜面に転落し大破したのである。この事故で、乗務員3名全員が脊椎骨折などの重傷を負った。暴走の原因は一般には公表されていない部分があるが、熊ノ平通過前後に何らかの原因で過速度検知装置(OSR)ないしブレーキ系統が正常動作しなくなり、66.7パーミル区間で暴走。あらゆる非常ブレーキでも停止できなくなり1号トンネル内部で脱線しトンネル内壁に接触しながら暴走を続け、トンネルを出たところでカーブ外側へ飛び出し脱線転落したものとされている。この事故により大破した4両の機関車は廃車となり現地で解体撤去された。今でも事故現場では事故の痕跡を認めることができる。66.7パーミルという勾配の危険性を関係者はあらためて認識するとともに、過速度検知装置(OSR)などでさらに厳重な安全対策が実施された。
 この事故で廃車されたEF63形5号機・9号機の補充用として24号機・25号機が1976(昭和51)年7月に新製配置され、EF63形の製造は終了した。EF63形はこの後、1984(昭和59)年7月に14号機が、同年8月に1号機が余剰・老朽化などのために保留車となり現役を引退した(廃車は1号機が1986年、14号機が1987年。なお、1号機は1987年にJRの保存車両としてブドウ色に戻された)。両機ともに高崎機関区構内で長年留置されていたが、1号機はEF62形1号機とともに碓氷峠鉄道文化むら屋外展示スペースで保存展示されている。残念ながら、14号機は2006(平成18)年3月に解体されてしまった。

 莫大な資金と技術力を投入して輸送力増強を行ってきた信越本線・碓氷線であるが、上越新幹線が開通すると東京−スキー・リゾート地連絡の役割は弱まった。1985(昭和60)年3月14日の新幹線上野開通に伴い特急「白山」が3往復から2往復に減便し編成も9輌編成に短縮されてしまった。同時に上野発の信越本線昼行急行列車は全廃となり、特急「あさま」は増便されたが9輌編成が主体となってしまった。一方、貨物輸送でも、上信道の開通により、1984(昭和59)年2月に信越本線・長野以南での貨物列車が全廃された。
 碓氷線では、協調運転の実現と複線化により輸送力も安定して推移したが、経営状態が悪化の一途をたどっていた国鉄にあって信越本線とりわけ碓氷線の経営改善が求められる事態となった。粘着運転によって輸送力は増強されたが、必要な要員はアプト時代よりかえって増大し、EF63形重連運転による莫大な電気使用量や、特殊線区ゆえの保線費用などにより、区間の累積赤字も大きなものになりつつあった。根本的な解決としては、明治の碓氷線計画時、新線計画時に再々検討されてきた25パーミル程度の緩勾配で特殊機関車なしの通し運転しかなかったが、新線開通後まもないことであり実現の英断が為されることは結局なかった。66.7パーミルの現行線使用のままでの経費圧縮案としては、EF63形を必要としない自力運転を可能とする電車を開発する、貨物の牽引定数を600トンにアップして貨物列車の分割併合を不要とする、碓氷線での貨物輸送を廃止するなどが検討された。このうち、信越本線・安中−小諸間での貨物列車廃止のみが1984(昭和59)年2月に実施されたわけである。

 粘着運転になってからの貨物列車はEF63重連とEF62との組合せで碓氷線での牽引トン数は500トンになり速度も25q/hと、アプト時代からは大幅に増強された。しかし、雑多な形式で積載量もまちまちの貨車による貨物列車では、非常ブレーキ作用時などでの脱線や連結器破壊などの危険も大きい。そのため、碓氷線を通過する貨物列車にはヨ3500形式に横軽通過用の装備が追加された専用の車掌車が貨物列車と機関車との間に必ず連結されることとなった。このヨ3500形式碓氷線専用充当車両は他の車掌車と区別するために手すり部分が白色に塗られていた。一方で牽引トン数が厳密に制限されて横川・軽井沢両駅での貨物列車の分割併合作業に手間がかかり、輸送上のネックは解消されないままであった。首都圏と日本海・甲州方面間の鉄道貨物輸送は、緩勾配の上越線・中央線経由の方が圧倒的に能率がよかったのである。
 一方、モータリゼーションの進展により、首都圏−信州地方間の貨物輸送の主力が鉄道からトラックに決定的に移動しつつあった。国道18号線の碓氷峠(現在の旧道)は184箇所もの急カーブと急勾配で、戦後急増しつつあったトラック輸送の難所となった。日本道路公団は、碓氷峠にバイパスを建設することにし調査を開始した。その結果、緩勾配の入山峠越えのルートで決定し、1966(昭和41)年7月に着工された。奇しくもこのルートは、古代の東山道と推測されるルートならびに、碓氷線計画時に検討された緩勾配ルートとも重なっていた(現在、旧丸山変電所付近に東山道入口公園なる私的公園が存在するが、同地域を古代の東山道が通過していたという確定的証拠は無く、同公園を松井田町役場(当時)は公認していない)。総工費約35億円、5年の工期を費やして1971(昭和46)年11月に碓氷バイパスが完成し、峠越えの所要時間は従来の半分に短縮された。しかし、全国屈指の難所であることには変わりなく、要所要所に砂を敷き詰めた退避線が設けられ、大型トラックなどの大事故が今も多発している。碓氷バイパスの開通により、おりからのモータリゼーションの波もあって同区間の自動車交通量は大きく増大した。さらに、内山峠越えの国道254号線の改良工事が1989(平成元)年8月に全線で完了し、群馬県下仁田地域から長野県佐久地域を結ぶもうひとつの碓氷バイパスとしての役割を発揮しはじめた。これらにより、関東方面と長野県佐久地域を結ぶ貨物輸送の主力は完全に自動車に移行してしまったのである。

 以上のような事情により信越本線とりわけ碓氷線での貨物需要は低迷していたため、1984(昭和59)年2月の信越本線・安中−小諸間貨物列車全廃は大きな混乱もなく実施された。この貨物列車全廃と客車列車削減によりEF62形電気機関車が大量に余剰となった。現役車両の半数以上に及ぶ26両(4、13〜34、36〜38号機)が、老朽化したEF58形電気機関車の代替として東海道・山陽本線の荷物列車牽引用に移籍した。しかし、急勾配線用に設計されていたEF62形は平坦線での高速運用酷使により故障が多発(財政難の国鉄で、目前に控えた荷物列車全廃の短期リリーフとして充当されたという見方もある)。さらに、1986(昭和61)の荷物列車全廃によりこれら26両はほどなく廃車となってしまった。信越本線に残っていたEF62形も、EF64形の進出により廃車が相次ぎ、1987(昭和62)年には6両(41、43、46、49、53、54号機)のみとなった。1993(平成5)年に急行「能登」が489系で電車化されるとEF62形牽引の定期列車は消滅してしまい、碓氷線末期には3両(43、46、54号機)が臨時列車用として残るのみとなった。

 なお、上信越自動車道については1972(昭和47)年6月に建設計画が決定されていたが、着工は大幅に遅れていた。1982(昭和57)年2月になってようやくルートが決定公表された。松井田から佐久までの区間は、国道18号線碓氷バイパスを高架橋でまたぎ、数多くの橋梁とトンネルで碓氷を越えるルートである。碓氷越え区間では工事区間の6割を橋梁とトンネルが占め、標高差約600mを平均勾配3%(30パーミル)、最大勾配5%(50パーミル)で登るという、自動車道では他にあまり例のない難工事となった。上信越自動車道の藤岡−佐久間の区間は1993(平成5)年3月に開通した。これにより、碓氷峠越えの光景は一変し、首都圏から長野・佐久方面への交通の主体は貨物・旅客ともに決定的に自動車に移行したのである。


8.国鉄の終焉・JRの発足・整備新幹線計画

 1986(昭和61)年11月、国鉄最後のダイヤ改正が行われた。特急「白山」は2往復のまま、一方で特急「あさま」は2往復増発され17往復体制となったが9輌編成に短編成化された。そして、1987(昭和62)年3月31日をもって国鉄は分割民営化され、翌4月1日にJR各社が発足した。国鉄分割民営化の経緯については本稿のテーマではないので記述は省略するが、碓氷線の歴史と重なる部分が多いということは指摘できよう。国策としての幹線輸送力増強、問題解決での技術最優先的手法とその結果による重装備化、トータルコストの上昇(アプト時代を上回る要員数、10億円を超える損金)、労使紛争、モータリゼーションの波と交通体系整備混乱の中での衰退、新幹線整備との関連など、碓氷線の歴史は国鉄の歴史そのものであったと言えるかも知れない。一方、自己犠牲を厭わない責任感、旺盛なプロ意識とプライド、高度な技量など、国鉄の最良最高の部分の象徴が碓氷線であったのも事実である。碓氷線は、良い意味で一番国鉄らしい線区であったのではないだろうか。

 1988(昭和63)年3月、青函トンネル開通に伴うJR各社最初のダイヤ改正が行われた。特急「あさま」は増発されて18往復体制となり、うち8往復が11輌編成に増強された。1990(平成2)年3月のダイヤ改正では、特急「あさま」「白山」ともに所要時間が短縮された。「あさま」の上野−長野間は2時間39分、「白山」の上野−金沢間は5時間57分となった。「白山」はこの所要時間が最速となった。同年7月には「あさま」にグレードアップ車が登場している。1992(平成4)年3月の改正で、特急「白山」は1往復に減便され、所要時間も6時間6分になってしまった。一方「あさま」は「白山」のスジを流用する形で19往復に増便された。1993(平成5)年3月18日、急行「能登」が14系客車から489系電車に代わり、これによりEF62形は定期運用を離脱してしまった。

 1987(昭和62)年、碓氷線電化75周年を記念して、横川機関区構内で保存されていた準鉄道記念物のED42形1号機が3ヶ月あまりをかけて動態復元された。動態復元工事は横川運転区検修庫で行われた。引退から既に24年がたち、ED42形の修繕経験をもつ社員もおらず復元工事には相当の苦労があったと言う。ED42形は600V用主電動機であるが、1500Vでの運転を可能とするためヨ3500形緩急車ヨ3961に抵抗器を搭載しペアで運転するようにした。10月5日、運転区内で起動試験に無事成功。10月17日、電化75周年記念イベント初日、横川運転区構内での記念運転が公開されたのである。現在、ED42形1号機は碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている。なお、抵抗器を搭載していたヨ3961も、貴重な碓氷線専用緩急車として同地で保存中である。

 1969(昭和44)年5月30日、「新全国総合開発計画」が政府決定され、これに基づいて1970(昭和45)年5月に「全国新幹線鉄道整備法」が公布された。1972(昭和47)年には、東北(盛岡−青森)・北海道(青森−札幌)・北陸(東京−大阪)・九州(福岡−鹿児島)・九州長崎ルート(福岡−長崎)の5線が整備計画線として決定された。これ以後、この5線は「整備新幹線」と呼称されることとなる。1973(昭和48)年11月13日には整備計画が決定され着工間近の段階までこぎつけた。北陸新幹線については、東京−高崎間を上越新幹線と共用、高崎−上越−金沢−大阪方面へ新線を建設する計画となった。この際、史上3度目の碓氷峠超えルート検討がなされた。結果、在来線ルートから大きく北方に迂回し、最大30パーミルで新幹線電車による自力高速登坂を行うこととなったのである。
 しかし、その直後にオイルショックによる着工凍結、1977(昭和52)年の「第3次全国総合開発計画」による整備新幹線着工凍結解除と状況は変転を繰り返した。さらに国鉄経営危機問題がクローズアップされ、1980(昭和55)年には「国鉄再建法」が成立し、国鉄主体での整備新幹線計画推進は事実上不可能となってしまう。そこで政府は、建設費での地元負担を導入するための法改正「全国新幹線整備法の一部を改正する法律」を1981(昭和56)年に成立させ、北陸と東北の優先着工を決定した。しかし、1982(昭和57)年7月、行政改革を検討していた臨時行政調査会は整備新幹線計画凍結の答申を行い、再び北陸新幹線着工は中止となった。
 その後政府は、整備新幹線計画凍結解除のため種々の努力を強力に行い、1984(昭和59)年12月に北陸・東北の両新幹線について翌年度より建設計画を再開すると発表した。その一方、並行在来線廃止のための立法措置や建設費の地元負担、国鉄再建監理委員会との調整などに関して調査を行うという着手条件も事実上定めざるを得なかった。1985(昭和60)年7月、国鉄再建監理委員会は、国鉄の分割民営化の最終答申を行った。同年8月、東北・北陸両新幹線については環境アセスメント終了時での工事実施計画認可申請、認可は着工凍結の閣議決定廃止後と定められた。これを受け、同年12月に工事認可申請が行われた。1987(昭和62)年1月、政府は凍結閣議決定の廃止を正式に決定、整備新幹線計画は再び凍結解除となったのである。
 1987(昭和62年)4月1日JRが発足した。膨大な国鉄債務は国鉄清算事業団が処理することとなったが、整備新幹線計画をどう進めていくかが大きな問題となっていた。JR各社は、整備新幹線建設費の全額を公費負担とする公共事業方式を要望していたが、大蔵省(現:財務省)の強い反対にあった。1987(昭和62)年12月17日、JR東日本は「新幹線建設の場合、横川−軽井沢間は廃止する」と運輸省(現:国土交通省)に報告。整備新幹線着工をめぐり、政府・沿線自治体・JRそれぞれの主張が入り混じって複雑な様相を呈することとなる。
 1988(昭和63)年8月、政府の検討委員会に運輸省案が提出された。この案は、整備新幹線に着工優先順位をつけるとともに、フル規格・ミニ新幹線・スーパー特急と3種類の方式を適用するというものである。北陸新幹線は、高崎−軽井沢間をフル規格、軽井沢−長野間をミニ、糸魚川−魚津間ならびに高岡−金沢間はスーパー特急と、2区間分断・3つの方式混在とされた。運輸省案の主眼は、政府財政危機の中、建設費を抑制することにあった。全線フル規格と比較して建設費を半分以下に抑えることが運輸省案の目的であった。当然のことながら、運輸省案は沿線自治体財界の極めて強い批判を受けた。結局、政府与党の調整で、北陸新幹線は高崎−軽井沢間をフル規格(軽井沢−長野間は3年以内に結論)、金沢−高岡間はスーパー特急で、段階的着工を行うこととなった。ちなみに、この時期、第3セクター「北越北線」が建設中であったが、運輸省はこれを高速化改良し事実上のスーパー特急(厳密には該当せず)を実現させることを決定している。

(注釈:ミニ新幹線(新幹線直通線)=在来線の線路を標準軌に改軌、又はレールをもう1本敷くことにより、在来線と新幹線との直通運転を可能とする方式。スーパー特急(新幹線鉄道規格新線)=トンネルや路盤は将来的にフル規格新幹線車両の走行が可能な規格で建設するが、当面軌間は狭軌で敷設し、在来線直通の高速車両を走らせるもの。)

 優先着工順位は決定したが、財源問題などについては未決定の部分が残っていた。1989(平成元)年1月、整備新幹線について新区間着工時には並行在来線の取扱いについての結論を前提とすることが決定された。建設費はJRが50%、国と地方自治体で残りを負担することで決定。1990(平成2)年12月には、新幹線開業時に並行在来線をJRから経営分離することを着工認可の前提条件とするという方針が決定されたのである。

 2002(平成14)年現在、北陸新幹線は富山までのフル規格化が決定、スーパー特急方式が建前となっている富山以西についてもフル規格化前提で建設が急ピッチで進んでいるが、並行する北陸本線と信越本線についてはJRから経営分離・第3セクター化されることが決定済である。なおJR西日本は、北陸地区の他在来線の大部分についても経営分離を強く希望している。


9.碓氷線廃止 しかし鉄路は残る

 JR東日本による横川−軽井沢間廃止報告を受け、1988(昭和63)年1月より地元での廃止反対運動が本格化した。2月12日には「在来線廃止反対対策協議会」が発足。しかし、1988(昭和63)年11月29日、JR東日本は北陸新幹線軽井沢開業時での横川−軽井沢間廃止を政府与党の整備新幹線建設促進検討委員会に申請。12月24日には運輸省が、JR東日本の横川−軽井沢間代替輸送バス案を群馬県に提示。1989(平成元)年1月17日、整備新幹線建設促進検討委員会は、高崎−軽井沢間の平成元年度着工と、横川−軽井沢間の廃止で合意。この時点で、横川−軽井沢間廃止が正式に政府決定された。地元松井田町は再考を求める陳情を行ったが、決定を覆すことはできなかった。
 1989(平成元)年9月4日、横川−軽井沢間の代替輸送機関を検討する「代替輸送協議会」(当時の運輸省、JR東日本、群馬県、長野県の四者協議会)の第一回協議会で、群馬県と松井田町は鉄路存続の要請を行った。協議会は鉄路を残した代替輸送機関も検討課題に含まれることを確認。松井田町では1990(平成2)年6月から、碓氷線存続に有効な機関車と利用者数について独自調査を実施。1992(平成4)年7月、代替輸送機関と乗客確保のための横川−軽井沢間沿線地域開発整備を協議する「並行在来線対策協議会」が組織された。翌年5月、この協議会は「うすいネイチャーランド21構想」を発表。これにより、碓氷峠地域の開発構想が策定されることとなった。その後、松井田町では箱根登山鉄道、わたらせ渓谷鉄道、大井川鉄道などを精力的に視察し、鉄路存続の検討と群馬県などへの陳情を継続した。1993(平成5)年、群馬県は代替鉄道事業の成立可能性について調査検討を行い、1995(平成7)年2月に調査結果を県議会で発表した。その発表によると、鉄道事業継続のためには、初期資金110億円、登山電車方式で運賃500円(当時230円)、乗客数一日平均350人として(四者協議会の試算では、代替輸送需要は一日平均184人)も年間4億円以上の赤字というものであった。その結果、同年10月、群馬県は鉄路存続困難を表明、12月には存続断念を正式表明。松井田町は、鉄路存続の可能性がある限り存続を要請すると決議を行い、陳情活動を行った。しかし、同年12月17日、群馬県は地方自治体での鉄路存続は困難と決定。翌1996(平成8)年1月11日、代替輸送をJRバスとすることが最終決定されてしまった。翌月、「在来線廃止反対対策協議会」が解散し、十年間に及ぶ鉄路存続運動は終息した。
 地元での苦渋に満ちた動きの一方、1993(平成5)年8月2日に北陸新幹線・碓氷峠トンネル(全長6,110m)が開通。1996(平成8)年5月1日、信越本線・軽井沢−篠ノ井間を引き継ぐ「しなの鉄道梶vが発足。1996(平成8)年11月14日、北陸新幹線・高崎−軽井沢間で、E2系新幹線電車の入線試験が開始。1997(平成9)年4月14日、JR東日本が北陸新幹線・高崎−長野間の開業を同年10月1日と発表。1997(平成9)年6月19日、信越本線・横川−篠ノ井間について同年9月30日をもって廃止することで最終認可が下り、碓氷線の歴史は終焉を迎えた。

 碓氷線最後の年・1997(平成9)年2月から6月にかけ、EF63形の18号機、19号機、24号機、25号機がブドウ色塗装で全検出場した。碓氷線廃止を記念してEF63形登場時の塗装に戻されたものであるが、この4両については青色で新製されており現役最後の年に初めてブドウ色になったわけである。この頃になると、碓氷線廃止がマスコミなどで取り上げられる回数も増え、全国から多くの鉄道ファンが現地に集まってきた。集まってきた鉄道ファンの一部には社会人としての常識に欠けるマナー違反も少なからず見られ、廃止後には「碓氷峠鉄道文化むら」などで展示車輌の部品盗難が相次ぎ、挙句が鉄道ファンの逮捕者(有罪判決)まで出してしまった。このことは、碓氷線の歴史を汚す出来事として深い怒りと悲しみをもって記憶しておかねばならない。

 1997(平成9)年9月30日、いよいよ碓氷線最後の日となった。最後の日を惜しんで鉄道ファンなど1万数千人の人が碓氷峠に集まり、複数のテレビ番組が生中継をするなど、現地は大変な喧騒となった。下り列車の最終は横川22:45発の「あさま37号」・3037M(EF63形19号機+3号機牽引)、上り列車の最終は横川21:35着の普通列車・362M(EF63形19号機+3号機牽引)。上り列車の営業運転はこれが最終となったが、その後、上り回送列車が5本あり、軽井沢駅で保存される2号機を残し、全てのEF63形が峠を下りて横川に戻った。23:55、機関車回送列車・単9176(EF63形19号機+3号機)が横川駅に到着し、碓氷線の列車運転は全て終了したのである。ここに、碓氷線104年の歴史が閉じた。アプト式旧線時代が70年、粘着新線時代が34年と、新線はアプト式時代の半分にも満たない年月で廃止されてしまったことになる。長期的に見れば斜陽化を避けられない地方幹線で、しかも特殊な急勾配線区で維持経費が大であったとは言え、こんなにも早く終焉の時を迎えると新線建設当時に予測していた関係者はいなかったのではないだろうか。

 碓氷線廃止について地元松井田町の危機感は強く、廃止正式決定・第3セクターなどによる鉄路存続を断念せざるを得なくなった後も、碓氷峠周辺の整備構想を強力に推進した。横川−軽井沢間周辺整備構想と呼ばれる計画では、(1)碓氷峠地域全体での魅力アップをはかる、(2)拠点となる中核施設の整備を行う、(3)地域と来訪者との交流環境を育てる、ことが課題とされた。この構想では、(1)横川駅周辺、(2)旧丸山変電所周辺、(3)坂本地域、(4)横川サービスエリア周辺を、周辺整備の四大拠点と位置付け、それら拠点の整備と拠点間のネットワーク作りが構想の基本とされた。この構想の下で建設、整備されたのが、「碓氷峠鉄道文化むら」「くつろぎの郷」「峠の湯」「アプトの道」「旧丸山変電所の復元整備」などである。中でも最大の施設である「碓氷峠鉄道文化むら」は、廃止直後の1997(平成9)年11月に整備プランが公表され(当時は「横川鉄道文化むら」と仮称)、翌1998(平成10)年3月には町議会で整備計画を承認。「碓氷峠鉄道文化むら」建設に約20億円、「くつろぎの郷」建設に約19億円の予算が決定された。1998(平成10)年7月18日に着工式、企画設計や展示車輌などでJR東日本の全面的協力を得て、1999(平成11)年4月18日に「碓氷峠鉄道文化むら」はオープンした。同施設では、EF63形24号機25号機が動態保存された。EF63形の運転体験も可能とするなど、国内だけでなく海外でも先例を見ない企画も実現した。なお、オープンに先立ち、同年2月26日には「碓氷峠鉄道文化むら」や「くつろぎの郷」などを管理運営する「財団法人碓氷峠交流記念財団」が設立されている。オープン後の「碓氷峠鉄道文化むら」の経営は順調で、7月には来場者累計10万人、9月には20万人、翌年4月には開園一周年を前に30万人を記録するなど、当初の予測を大きく上回る人気を博している。ちなみに2010(平成22)年11月末時点で来場者累計は229万人を突破している。

 一方、碓氷線の鉄路復活を望む動きもあった。1998(平成10)年9月18日、信越本線廃止一周年を記念する地元民間有志主催のシンポジウムが松井田町文化会館で開催された。ここで、碓氷線を観光鉄道ないし保存鉄道として復活させる構想が提案されている。同年10月には横川−軽井沢間の代替バス輸送実績が公表された。廃止後1年間の実績は、一日平均297人で当初予測の180人を大きく上回る好調であった(以後もバス輸送は堅調で推移している)。これを受けてJRバス関東は増便を実施。代替バス輸送の好調ぶりも手伝って、鉄路復活の声は小さいながらも絶えることはなかったのである。
 行政も鉄路復活の希望を捨ててはいなかった。松井田町の内田町長(当時)は、新聞での談話や議会答弁などで観光列車方式などでの鉄路復活の希望を再三にわたり表明。松井田町はJR東日本から碓氷線敷地の管理委託を受け、アプトの道で遊歩道化した上り線の坂本付近−横川を除き、線路敷地を廃止時のままの姿で現状保存(ただし、電力・信号関係設備は全て撤去されている)。さらに、鉄路復活方法について研究を進めていた。
 2001(平成13)年10月14日「鉄道の日」イベントの一環として、一般客を乗せたモーターカー推進列車が、「碓氷峠鉄道文化むら」−旧丸山変電所前を往復した。廃線後も定期的に財団職員がモーターカーで軽井沢まで往復し、線路敷地の除草作業や線路状態の点検を行っていた。しかし、丸山までの25パーミル区間限定とはいえ、一般客を乗せた「列車」が走ったのは廃線後初めてのことである。
 このイベント列車の成功を受ける形で、松井田町では「碓氷峠鉄道文化むら」と「峠の湯」間を結ぶ園内交通手段としてトロッコ列車の計画を承認した。2004(平成16)年4月開通を目指し、プラットホーム3箇所(「碓氷峠鉄道文化むら」、旧丸山変電所前、「峠の湯」)の調査設計費として約1700万円、トロッコ列車準備費用として3億円の予算が計上された。園内交通手段としての区間限定運転で、しかも小規模なディーゼル列車ではあるが、廃線後6年半を経て鉄路が復活する意味は大きい。当初計画より遅れたが、2005(平成17)年3月22日、トロッコ列車「シェルパくん」の発車式が行われた。以後、現在に至るまで冬期を除く季節運行(春休み・夏休み以外は原則として土日祝日運行)ではあるが、大変な人気を得ている。
なお、「シェルパくん」のディーゼル機関車は、碓氷線廃止前まで保線用モーターカーとして活躍していたもので、66.7パーミル運転可能な強力機ではあるが老朽化が問題となっている。2008(平成20)年7月、安中市は機関車新造のための調査を開始すると公表した。

 2006(平成18)年3月、市町村合併により松井田町は安中市と合併、安中市となった。2006年秋には碓氷峠交流記念財団が、観光に特化した「特定目的鉄道」として横川−軽井沢間の全線で事業化を図ることを決めた。同年内に国土交通省関東運輸局へ許可申請し、翌年10月の運行開始を目指すと公表するところまで復活構想は進展した。
しかし、安中市長(合併後の選挙で現職を破り当選)からストップがかかり、復活に関しては慎重姿勢(事実上の白紙撤回、世界遺産登録実現まで凍結?)に転換してしまった。当時の財団理事長と市長との間の、復活構想や財団運営を巡る意見対立は深刻で、理事長が解任される結果になってしまった。その後も安中市長の方針に変わりはなく、残念ながら復活構想に進展はないようだ。一方、軽井沢駅構内跡地の再開発計画がもちあがり、矢ケ崎から先の線路敷地撤去問題など不安要素が出てきている。しかし、財団による線路施設の維持管理は続いており、復活の夢はまだ消えてはいない。また、前理事長解任後、安中市長の復活事業への姿勢が柔軟化したことを伺わせる新聞報道もあった。いずれにせよ、軽井沢までの全区間復活の夢が実現するよう、今後も応援を続けたい。

 最後に一言。碓氷峠鉄道文化むらの貴重な展示車輌の維持には多大な費用と労力がかかる。民間ボランティアによる支援が必要かつ有効である。碓氷峠鉄道文化むらファンクラブでは車輌洗浄作業などボランティア作業を月一回ペースで実施、準備段階も含めれば1999(平成11)年11月から現在まで長年に渡り地道に活動を継続してきている。ファンクラブの皆さんには、さらなるご理解とご協力を期待したい。

 碓氷線は廃止されたが、碓氷峠は残る、鉄路も残っている、碓氷峠鉄道文化むらもある。碓氷線の偉大な歴史の記憶も残っている。その幸せを大事にしたい。そして、いつの日か再び碓氷峠に列車のホイッスルが響くことを夢見て。



10.付記

【碓氷線関連の記念物について】


鉄道記念物など
 1964(昭和39)年10月14日アプト式鉄道とEC40形が鉄道記念物に指定され、譲渡先の京福電鉄より返還されたEC40形1号機が導入時の10000形の姿に復元の上で軽井沢駅前に保存された。現在は綺麗に再塗装されて軽井沢駅旧1番線に移動し、「旧軽井沢駅舎記念館」の展示物としてEF63形2号機とともに保存されている。
 1965(昭和40)年1月6日にはED42形2号機が軽井沢東部小学校の校庭に保存された。現在も同地で展示されているが、塗装の褪色や一部部品の欠損が認められる。
 1967(昭和42)年10月14日、ED42形1号機を準鉄道記念物として横川駅構内に保存。1987(昭和62)年、碓氷線電化75周年を記念して3ヶ月あまりをかけて動態復元され、10月17日の電化75周年記念イベント初日に横川運転区構内での記念運転が行われた。現在、ED42形1号機は碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている。(実質的には静態保存であり、動態運転は行われていない)
 1968(昭和43)年10月14日譲渡先の東武鉄道より返還されたED40形10号機が車体など一部復元の上で大宮工場内に保存され、同年に準鉄道記念物に指定された。
 これらの貴重な保存車輌は今も健在である。ただしED42形2号機に関しては車体の腐食などがすすんでおり早期の整備が望まれる。碓氷峠鉄道文化むら内に保存されているED42形1号機についても一部腐食や破損が認められ、より徹底した整備による美しい姿での展示を期待したい。

国指定重要文化財(近代化遺産)
 1993(平成5)年から翌年にかけて、アプト式旧線の現存する煉瓦造構造物を含む線路跡敷地が、日本の近代化に貢献した貴重な産業遺産「近代化遺産」の指定第一号として国の重要文化財に指定された。1893(明治26)年の碓氷線開通より100年目の指定であった(指定を受けたのは横川−熊ノ平間の線路跡と遺構全て。トンネル10箇所、橋梁5箇所、カルバート6箇所、旧丸山変電所建物など)。今は、「アプトの道」として横川−旧線第3橋梁間が整備され一般に公開されている。なお、熊ノ平−軽井沢間は国文化財指定からもれたが(トンネル2箇所、橋梁2箇所、カルバート1箇所が現存)、第13橋梁(中尾川橋梁。第3橋梁に次いで有名)などが残っており、今後の修復保存が望まれる。国文化財指定からもれた遺構としては、火力発電所冷却水貯水池跡、横川機関区給水槽などもある。
 また、荒廃がすすみ倒壊も懸念されていた旧丸山変電所建物であるが、2002(平成14)年7月に復元補強工事が完了。抜け落ちていた屋根や窓が再建されて竣工時の姿に復元された。なお、旧丸山変電所建物内部は公開されていない(イベントで特別公開されることはある)。ちなみに、同型の旧矢ケ崎変電所建物は解体撤去されており現存しない。

「アプトの道」
 2001(平成13)年4月1日、アプト式旧線跡地を遊歩道化した「アプトの道」の横川−第3橋梁間約4.7qが完成した。これは旧松井田町がウォーキングトレイル事業の一環として総工費4億5千万円をかけて整備していたもので、1999(平成11)年9月に一部区間が完成。以後、横川・坂本地区の拠点整備事業と並行して整備が続けられていたものである。横川−坂本付近までは新線上り線をレールの頭を出す形で舗装し遊歩道化、坂本付近で新線下り線の下をくぐりアプト式旧線区間へ接続し、第3橋梁まで至っている。アプト式旧線区間のトンネル内は一部補強工事の上で照明設置、橋梁上には金属製の手すりが設置されている。第3橋梁から熊ノ平までの「アプトの道」延伸構想もあるようだが、この区間には長大トンネルが存在しており、安全性(調査の結果、トンネル内に崩落危険箇所があることが判明している)などの面から実現には困難があるようだ。
2007年(平成19)年、安中市は熊ノ平までの「アプトの道」延伸のための調査費用を計上している。

記念碑
「招魂碑」
 この碑の建立は、碓氷線開通の前年の1892(明治25)年3月2日である。「鹿島組、招魂碑、竜集明治25年春3月2日、兵庫県加古郡草谷村魚住八十松他500名、明業舎、願魚住政吉」の刻字が為されており、県道アンダーパス横(旧中山道踏切脇、移転前の郵便局前)に建っている。500名もの犠牲者が出た難工事(1000名に迫る犠牲者が出たという説もある。ここまで犠牲者が増えた理由は、強制労働による過労、コレラの流行、土砂崩落災害や工事事故の多発によるものと伝えられている)を今に伝える貴重な碑である。この招魂碑は、移転前の郵便局裏手に碓氷線を見守るように南向きに建てられていたが、1996(平成8)年4月に碓氷路交通殉職者鎮魂碑が現在の場所に建立されたのを機に招魂碑も隣に移築され、現在に至っている。なお、1996年以降毎年9月30日には招魂碑・鎮魂碑前で「碓氷峠アプト式鉄道建設殉難者・碓氷路交通殉難者、慰霊祭」が地元有力者(旧松井田町時代は町長等)、JR、鹿島建設をはじめとする関係者らによって行われている。

「碓日嶺鉄道碑」
 この碑は1893(明治26)年4月に軽井沢駅構内に建立されたが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊してしまった。1940(昭和15)年3月、縮小レプリカが軽井沢駅前に再建されたが、オリジナルのものは倒壊破損したまま放置されていた。1954(昭和29)年11月、当時の横川保線区長・小山五郎氏がオリジナルを熊ノ平駅上りホームに移設再建した。その際、再建の趣を副碑として添えている(小山五郎氏は、1955(昭和30)年12月9日に碓氷線バーチカルカーブ改良に伴う線路切換工事中に殉職された)。碑文は国内鉄道碑の中で最古にして最も優れたものと評価されており、撰文(文章作成)が明治の大学者・重野安繹、篆額(題字)が山県有朋。碓氷線建設決定に至る経緯などが刻まれた名文流麗なものだが、専門家でないと解読は困難である。なお、レプリカの方は「旧軽井沢駅舎記念館」横に移設されている。
※熊ノ平構内は立入禁止のため、一般の見学は不可。(軽井沢駅前のレプリカは見学可)


「碓氷峠修路碑」
 この碑は1933(昭和8)年10月、碓氷新道(国道)改修工事※1完了を記念して建立されたもので、国道18号線旧道の碓氷峠を登りきった箇所(C184※2)の碓氷峠を見渡す位置に建っている。碓氷新道の建設・馬車鉄道・アプト式鉄道・碓氷新道改良まで、明治以降の碓氷峠の交通変遷を記したもので、撰文が内務省東京土木出張所所長だった真田秀吉、篆額が内務大臣・山本達雄。
※1:碓氷新道では梅雨から夏にかけての多雨期に道路崩壊が頻発し、全国の国道のうちでも悪路として有名だった。1930(昭和5)年には突然の道路崩壊で運悪く現場を通行中だった車が百数十メートルの谷底に転落し、運転手が即死する事故が発生している。当時の内務省は自動車による輸送力増強のために碓氷新道の全面改良に踏み切った。
アプト式廃止後にも、大幅な改修工事が実施されている(例えば、旧線第13橋梁付近の嵩上げ)。しかし数度に渡る改修にも関わらず、多雨期に道路崩壊がたびたび発生。2001年にも大規模な道路崩壊が発生し、長期に渡り全面通行止めになった。
※2:国道18号線旧道碓氷峠区間のカーブ番号。横川寄から付番されており、各カーブには番号が看板掲示されている。アプト式旧線遺構を見学する際に、このカーブ番号と遺構との対応を把握しておくと便利。


「熊の平殉難碑・母子像」
 1950(昭和25)年6月8日から9日にかけて熊ノ平駅構内の第10号トンネル出口で発生した大規模な土砂崩壊により復旧作業中の職員38名と宿舎にいた家族12名の合計50名が死亡、24名が重軽傷を負うという大惨事が発生した。この殉難碑は、犠牲者を追悼するため1951(昭和26)年6月9日に建立されたものである。建立当時は線路の山側にあったが、参拝者の安全確保のため1968(昭和43)年12月に現在の場所に移設された。犠牲者の中には生後間もない赤ん坊を抱いたまま子供とともに亡くなられた若い母親もいた。母子像はその親子をイメージして作られたもので、分部順治氏の作である。今も毎年6月9日には、関係者による慰霊祭が行われている(50回忌にはJR高崎支社長、松井田町長(当時)が参列。当時の小渕総理より電報も届けられた)。
※熊ノ平構内は立入禁止のため、一般の見学は不可。


「刻苦70年記念碑」
 1963年(昭和38)年11月30日、碓氷線開業から約70年間続いたアプト時代の苦労をねぎらう意味で横川機関区内に立てられた。アプト式機関車の歯車とラックレールがデザインされている。現在は、碓氷峠鉄道文化むらのメインゲート付近に移築されている。

「横川駅旧こ線橋柱」
 横川駅ホーム跨線橋用の鋳鉄製橋脚。1907(明治40)年に当時の鉄道作業局新橋工場で製造。1911(明治44)年に横川駅跨線橋として建設され、1985(昭和60)年3月に跨線橋改築のため撤去されるまで74年間使用されたもの。跨線橋改築後は横川駅1番ホームの軽井沢寄りに保存されていた。
碓氷線廃止後、碓氷峠鉄道文化むらに移築。2本ずつに分けられ、一組は鉄道資料館前、もう一組は鉄道展示館裏で展示されている。本来は4本組であったものを分割してしまっており、また園内掲示板の吊り下げ柱としても使われているなど、保存展示方法については異論の出るところであろう。

「軽井沢駅構内煉瓦サイロの碑」
 2000(平成12)年4月1日にオープンした「(旧)軽井沢駅舎記念館」前に建てられた。横川運転区軽井沢派出所付近にあった煉瓦造りの倉庫壁の一部をモニュメントとしたもの。この建物はアプト式蒸気機関車用の給水塔だったもので、1907(明治40)年築。1921年に蒸気機関車運転が廃止された後は倉庫として長年使われ、新幹線建設によって惜しくも解体された。

「(旧)軽井沢駅舎記念館」
 長野新幹線の建設に伴って取り壊された旧軽井沢駅舎を復元したもので、2000(平成12)年3月24日竣工、同4月1日にオープン。駅舎は解体時の姿ではなく、1910(明治43)年の大改築時のイメージで現軽井沢駅の隣に再築※1された。同館には、 鉄道記念物のアプト式電気機関車10000形(EC40形)1号機、EF63形電気機関車2号機、草軽電気鉄道のL型電気機関車デキ12形13号機※2が保存展示されている。 いずれも同館での展示にあたって綺麗に塗装補修された。また、同館前には「軽井沢駅構内煉瓦サイロの碑」がある(上記参照)。
主な展示内容:
1F展示室 旧軽井沢駅・草軽電気鉄道・碓氷線の資料・模型展示
碓氷線関連車両のHO模型展示・改札口モニュメント
2F歴史記念室(旧貴賓室) 貴賓室の様子を再現
旧1番線ホーム(記念車両屋外展示) アプト式電気機関車10000形(EC40形1号機、鉄道記念物)
EF63形電気機関車2号機 
モータカー89PS
記念館正面(屋外展示物) 草軽電気鉄道・L型電気機関車デキ12形13号機
軽井沢駅構内煉瓦サイロの碑
※1:旧駅舎の部材は2F歴史記念室内の一部のみで使用され、他は当時の設計図に基づいた新築である。
※2:アメリカ・ジェフリー社1920年製造。「カブトムシ」の愛称で親しまれた。同鉄道廃止後は軽井沢中央公民館に保存展示されていたが、「(旧)軽井沢駅舎記念館」に移動。なお、草軽電気鉄道は軽井沢と草津温泉間55.5キロを結ぶ軽便鉄道で、1915年開業、1926年全線開通、1962年に廃止されたものである。

※2Fの歴史記念室内を除き、館内(室内)は撮影禁止。




【世界遺産登録について】


 2008年現在、富岡市(安中市の南方に隣接)を中心に、富岡市の富岡製糸場とそれに関連する絹業文化遺産を世界遺産に登録しようとする運動が行われている。2007年1月、文化庁の文化審議会文化財分科会で「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産暫定リストに加えられた。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の対象には中心となる富岡製糸場以外に、群馬県内の養蚕関係の各史跡、旧甘楽社小幡組倉庫、流通関連史跡が含まれている。この流通関連史跡に、旧上野鉄道関連施設と碓氷峠鉄道施設が上げられている。
 安中市長は、碓氷線の全線復活事業よりも世界遺産登録を優先させる(世界遺産登録実現を待ってから復活事業を検討する)としている。しかし、世界遺産登録の可否が決まるまでに順調にいっても5年はかかるとされており、世界遺産登録の可能性が非常に厳しい状況と相俟って、復活構想に与える影響には深刻なものがあると指摘せざるを得ない。世界遺産登録運動については応援したいと思うが、復活構想との関連付けには現実的で柔軟な検討を期待したい。

富岡製糸場(群馬県・くらし)
世界遺産暫定一覧表・記載資産候補に係る提案書(群馬県)
富岡製糸場・世界遺産登録推進ホームページ(富岡市)
富岡市公式ホームページ
富岡製糸場を愛する会
絹の道ぐんま連絡協議会

世界遺産暫定リスト
 世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出するリスト。各国はこのリストから10年以内をめどに世界遺産委員会へ登録推薦を行う。国がユネスコ世界遺産センターへ登録推薦を行った後、文化遺産候補については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が現地調査を行い評価報告。それを基にユネスコ世界遺産センターが登録推薦を判定し、推薦物件について世界遺産委員会が審査を行い登録可否を決定。
 ただし、「石見銀山遺跡」が登録されるまでの紆余曲折(ICOMOSが一度、登録延期勧告)、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」の登録延期(4段階評価の下から2番目で事実上の落選。登録されなかったのは日本では初)等に見られるよう、新規登録の見通しは明るくないようだ。登録可否以前に、「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコ世界遺産センターへ登録推薦されるかどうかについても、平泉の落選により推薦対象選定がより慎重になることが予想され、客観的に見て状況は厳しいものと思われる。
 日本からの推薦が相次いで厳しい経緯・結果となった背景として、世界遺産が830に達して管理が大変になりユネスコ・ICOMOSが登録抑制に方針転換していること、産業・文化遺跡についての評価基準が西欧中心になっていること、日本からの情報発信が不足していること、日本の推薦対象の保存・整備が不十分なこと、文化庁が全国自治体に推薦リストを応募させた結果として一種のブーム状態となってしまったこと等々が指摘されている。




【碓氷線で活躍した機関車の変遷】

形式 1892年 1895年 1898年 1900年 1906年 1908年 1909年 廃車年
3900 194号 126号 500号


3900号 1922
196号 128号 501号


3901号 1922
198号 130号 502号


3902号 1922
200号 132号 503号


3903号 1922





518号 3904号 1922





519号 3905号 1922





520号 3906号 1922
3920
168号 504号


3920号 1917

169号 505号


3921号 1917
3950

506号


3950号 1921


507号


3951号 1921


508号


3952号 1921


509号


3953号 1921



510号

3954号 1921



511号

3955号 1921





496号 3956号 1921





497号 3957号 1921





498号 3958号 1921





499号 3959号 1921
3980



512号
3980号 1917




513号
3981号 1917





514号 3982号 1917





515号 3983号 1919





516号 3984号 1917





517号 3985号 1917
形式 1911年 1912年 1919年 1920年 1921年 1922年 1923年 1926年 1927年 1928年 廃車年 私鉄譲渡 私鉄廃車
EC40
10000






EC40-1 1936 1941・京福電鉄デキ511 1964
10001







EC40-2 1936 1941・京福電鉄デキ512 1970
10002







EC40-3 1936
10003







EC40-4 1936
10004







EC40-5 1936

10005






EC40-6 1936

10006






EC40-7 1936

10007






EC40-8 1936
10008







EC40-9 1936

10009






EC40-10 1936

10010






EC40-11 1936

10011






EC40-12 1931
ED40

10020





ED40-1 1951


10021





ED40-2 1951


10022





ED40-3 1943 南海電鉄 1952


10023





ED40-4 1943 南海電鉄→秋田中央交通 1954



10024




ED40-5 1951



10025




ED40-6 1947 東武鉄道 1956



10026




ED40-7 1940



10027




ED40-8 1940




10028



ED40-9 1948




10029



ED40-10 1947 東武鉄道 1968




10030



ED40-11 1947 駿豆鉄道→岳南鉄道 1972





10031


ED40-12 1951 駿豆鉄道→岳南鉄道 1952





10032


ED40-13 1952






10033

ED40-14 1948 駿豆鉄道→岳南鉄道 1952
ED41







10040 ED41-1 1951







10041
ED41-2 1951
=国鉄に返還、復元工事の上で大宮工場で静態保存。その後、鉄道博物館(2007年10月14日開館)へ移動。
形式 番号 製造年 廃車年 現存 備考
ED42 1号 1934 1963 1987年に動態復元
2号 1934 1963
3号 1934 1963 ×
4号 1934 1963 ×
5号 1936 1963 ×
6号 1936 1963 ×
7号 1936 1963 ×
8号 1936 1963 ×
9号 1936 1963 ×
10号 1937 1963 ×
11号 1937 1963 ×
12号 1937 1963 ×
13号 1937 1963 ×
14号 1937 1963 ×
15号 1938 1963 ×
16号 1938 1963 ×
17号 1940 1963 ×
18号 1940 1963 ×
19号 1942 1963 ×
20号 1942 1963 ×
21号 1944 1963 ×
22号 1944 1963 ×
23号 1947 1963 ×
24号 1947 1963 ×
25号 1944 1963 ×
26号 1945 1963 ×
27号 1945 1963 ×
28号 1946 1963 ×

形式 番号 製造年 廃車年 現存 備考
EF63 試作機 1号 1962 1986 余剰廃車
1次形 2号 1963 1998

3号 1963 1998 ×

4号 1963 1998 ×

5号 1963 1975 × 事故廃車

6号 1963 1998 ×

7号 1963 1998 ×

8号 1963 1998 ×

9号 1963 1975 × 事故廃車

10号 1963 1998

11号 1963 1998 動態保存

12号 1963 1998 動態保存

13号 1963 1998 前頭部のみ保存
2次形 14号 1966 1987 × 2006年3月解体

15号 1966 1998

16号 1966 1998 ×

17号 1966 1998 ×

18号 1967 1998

19号 1967 1998

20号 1969 1998 ×

21号 1969 1997 ×
3次形 22号 1974 1998

23号 1974 1997 ×

24号 1976 1998 動態保存

25号 1976 1998 動態保存

※現存記号
動態保存(実質静態含む)
静態保存
部分保存
保存計画未定で留置中
× 解体済
※廃車年は帳簿上のもの。実際の解体時期とは一致しないものもある。

【碓氷線で活躍した機関車の現状】

機関車以外の碓氷関連車輌(横軽対策車輌、協調運転可能電車)の現状については、鉄道専門誌などを参照されたい。
※形式名は最終的なもの。
※残存機については所有管理者が公表しているもののみを記載。
 保存場所については防犯上の配慮から曖昧にしているものもあり。
形式 残存機 保存場所 備考
3900 無し

3920 無し

3950 無し

3980 無し

EC40 1号 静態保存・屋外展示:旧軽井沢駅舎記念館 展示屋根付、10000形の姿に復元。
ED40 10号 静態保存・屋内展示:鉄道博物館
ED41 無し

ED42 1号 動態保存・屋内展示:碓氷峠鉄道文化むら 実質的には静態保存。屋外展示することもあり。
2号 静態保存・屋外展示:軽井沢東部小学校 展示屋根付、校庭内への無許可立入り禁止。
EF62 1号 静態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら
3号 屋外留置:JR東日本長野総合車輌所 状態はあまりよくない。
18号 部分保存:JR東日本大宮工場 前頭部のみカットされて保存。
54号 静態保存・屋内展示:碓氷峠鉄道文化むら
EF63 1号 静態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら
2号 静態保存・屋外展示:旧軽井沢駅舎記念館
10号 静態保存・屋内展示:碓氷峠鉄道文化むら
11号 動態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら 横川駅旧4番線より移動。2007年動態復元。
12号 動態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら 同上。
13号 部分保存:JR東日本大宮工場 2エンド前頭部のみカットされて保存。
15号 屋外留置:JR東日本長野総合車輌所
18号 静態保存・屋内展示:碓氷峠鉄道文化むら 1エンド側運転室がシミュレータとして改造利用。
19号 屋外留置:JR東日本長野総合車輌所
22号 静態保存・屋外:私有地、個人所有物 非公開。状態はあまりよくない。
24号 動態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら 運転体験機として利用。
25号 動態保存・屋外展示:碓氷峠鉄道文化むら 運転体験機として利用。
現状注記:
1: SL(3951号機)に関しては戦前に保存計画もあったようだが、戦況の悪化とともに残念ながら解体されている。
2: JRで保存されている車輌は、通常は一般公開されていない。(上記各形式とも。工場イベントなどで公開されることあり)
3: EF63形22号機は個人所有物であり、一般公開されていない。(敷地外から見ることはできる)
4: EF63形3号機の動輪が横川駅前で展示されている。荻野屋所有。
荻野屋ではEF63形1輌の展示を検討していたが諸般の事情により断念したとのこと。
5: 長野総合車輌所で留置されているEF62とEF63(1輌)は、当初、トレインギャラリーナガノで展示される構想であったが、道路輸送の問題で実現していない。
6: EF63形11号機と12号機は、旧丸山変電所前で189系「あさま」9両編成とともに保存展示されていた時に大規模な窃盗被害にあった(189系も運転台装置や床下機器の一部が盗まれるなど大きな被害)。11号機は1エンド側前面貫通扉が盗難にあったが、その後、復旧。この事件(他にも碓氷峠鉄道文化むらをはじめ、全国の鉄道博物館などで数百点におよぶ鉄道部品窃盗ならびに鉄道ファンへの盗品売買を行っていた)の主犯格2名(いずれも鉄道ファン)は逮捕されて有罪判決を受けた(執行猶予)。窃盗ならびに悪戯被害拡大の懸念があったため旧丸山変電所前から横川駅旧4番線ホームへ退避。その後、同所で189系「あさま」9両編成とともに保存されていたが、保存状態が年々悪化(投石や落書きなどもあり)。2005年12月末に碓氷峠鉄道文化むら内に移動、2006年に順次動態復元のための修復整備が行われ、2007年に両機とも動態化完了。
7: EF63形14号機は余剰廃車後、長年に渡り高崎機関区留置線に留置され、近年に倉賀野貨物ターミナルに回送。EF60形16号機など貴重な廃車機関車と共に留置されていたが、残念ながら2006年3月に解体されてしまった。
8: ED40形10号機は東武鉄道より国鉄へ返還後、走行装置を除く車体部分のみ復元され大宮工場(JR化以後はJR東日本大宮工場=後に大宮総合車両センターに改称)で屋外展示(工場公開日以外は非公開だったが工場敷地外から目視は可能)されていた。その後、2007年10月14日に開館した鉄道博物館へ移動し屋内展示されている。


【参考文献(順不同)
「広報まついだ」465、495 他 松井田町
「信越本線横川駅周辺鉄道文化財調査報告書」松井田町
「碓氷線煉瓦造構造物を訪ねて 重要文化財 碓氷峠ガイドブック」松井田町教育委員会
「鉄路が峠を越えた」碓氷峠交流記念財団
「阿武止氏機関車」横川機関区
「急勾配とのたたかい 碓氷線物語」八木富男著 あさを社刊
「碓氷峠の歴史物語」小林收著 櫟刊
「さよなら碓氷線」碓氷線を記録する会編著 あかぎ出版刊
「碓氷線アプトの道」浦野護編著 あかぎ出版刊
「碓氷線・EF63の道」浦野護編著 あかぎ出版刊
「鉄道員物語」橋本克彦他著 宝島社刊
「関所のまち・よこかわ(改訂版)」うすいの歴史を残す会著 あさを社刊
「日本鉄道史」原田勝正著 刀水書房刊
「新幹線がなかったら」山之内秀一郎著 東京新聞出版局刊
「新幹線をつくった男 島秀雄物語」高橋団吉著 小学館刊
「新幹線 軌跡と展望」角本良平著 交通新聞社刊
「新幹線開発物語」角本良平著 中公文庫
「東海道新幹線30年」須田寛著 大正出版刊
「機関車EF63」SHIN企画刊
「資料EF63のメカニズム」SHIN企画刊
「電気機関車のディテール」SHIN企画刊
「詳説新性能直流機関車」SHIN企画刊
「電気機関車展望2」交友社刊
「RM POCKET17 碓氷峠」 ネコ・パブリッシング刊
「Rail Magazine」9、140、153、161、168、171 ネコ・パブリッシング刊
「鉄道ファン」132、273、279、284、321、428、437、438、439、440 交友社刊
「鉄道ピクトリアル」311、363、570、646、697 鉄道図書刊行会刊
「鉄道ジャーナル」58、73、274、358  鉄道ジャーナル社刊
「名列車列伝シリーズ1 あさま」 イカロス出版刊
「CD-RAIL 碓氷峠 峠の鉄道史」IMAGICA製作
「日録20世紀 1918」講談社刊


碓氷峠CLUB66.7 より皆さんへ
弊ホームページに本記事掲載するにあたって、老婆心ながら・・・。

アプト式旧線区間の第3橋梁−熊ノ平間は立入禁止です。トンネル内に危険箇所もあるので、絶対に立入らないでください。
新線についても、「アプトの道」として公開されている上り線・横川−坂本付近以外は、立入禁止となっています。特に熊ノ平構内ならびに各トンネル内と橋梁上は立入厳禁です。現状保存ならびに事故防止(橋梁上からの転落死亡事故、トンネル内での行路死亡も発生している)の観点からも立入は控えるべきです。
なお、立入禁止区間画像を大量に公開している個人ホームページも少なくありませんが、これらホームページの管理者には画像掲載での慎重な配慮をお願いします。
残存施設・遺構や展示車両への落書き・破損・盗難などが散見されます。また、ゴミ(釜飯容器・空缶・吸殻の類)や産業廃棄物の不法投棄も依然として見られます。犯人は必ずしも鉄道ファンばかりではないでしょうが、モラル低下に深刻な危惧を覚えます。
碓氷峠は貴重な自然の宝庫でもあります。自然保護への留意は当然ですが、現地に生息するニホンザルへ餌を与えることも控えるべきです。農作物被害や人身危害の原因となります。



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