★聖衣大好き(子羊編 その2)
執務の手を休め、机に幼いムウを座らせるたシオンは、子供らしい福与かな頬に舌を這わせていた。感触が気持ちいのだろう、キャー、キャーと子供じみた甲高い声を上げ、薄紫色の髪の毛を振り乱してムウが喜んでいる。
そうしてその頬から顔をあげ、窓の外に視線を送った。もう少しムウと乳繰り合っててもよさそうだ。サガとアイオロスとの約束までには、まだ数分あった。
そこに突然神官の一人が駆け込んで来ると、シオンは常人では捕らえられない速さで仮面を被った。
「お取り込み中のところ大変申し訳ございません」
息を弾ませて神官が頭を下げる。
いきなり飛び込んでくるとは尋常ではない。シオンは仮面の下で無い眉を潜めた。そして神官から話を聞くと、シオンは立ち上がった。別の神官を呼びムウを預けたシオンは急ぎ足で、だが、たおやかで雄大に焦りなど微塵も見せずに執務室を後にしたのであった。
衛兵が教皇の間の扉を開けると、シオンが薔薇棚に囲まれた階段をそこに段差など存在しないかのようにすべり下りていく。その後を、先程の神官があたふたと続いていった。
シオンは双児宮で立ち止まった。はるか階上にその姿を確認した数人の神官達は跪き頭を下げシオンを迎え入れた。
そうして宮内から聞こえる騒ぎ声に、シオンは仮面の下で片方の眉根を吊り上げた。声は2つ。しかも子供の声であった。
「表を上げる無礼を許すぞ。一体何事じゃ? 詳しく説明せよ」
そうシオンが告げると、神官の一人がおずおずと立ち上がり、一歩前へと出た。
彼は双魚宮付きの神官で、その仕事は主が不在の双魚宮と薔薇園を管理をする雑兵と神官を束ねることだ。
数分前、定刻どおりに部下の者を連れ双魚宮を訪れた彼は、肥料やポンプを持って薔薇園へと足を踏み入れた。途端、目に飛び込んできた光景に全員がその場に硬直した。
手入れが行き届いた薔薇園の一角は見事に花が落ち、その中央で黄金に輝く光がギャーギャーと騒いでいたからである。
目を凝らしてみれば、それは幼い黄金聖闘士ではないか。
黄金聖闘士といえば、たとえ幼い少年であろうと自分達神官などより遥かに上の存在である。
しかも鍛え上げられた肉体に、聖衣を着ているとあっては、神官がどんなに集まっても適うはずが無い。そんな2人が目を血走らせ、お互いを罵りあっているのだ。
彼が、部下の一人に教皇を呼びに行かせたのは、賢い判断であった。神官に促され、双魚宮の薔薇園に出たシオンは、真っ赤な花びらの雨に出迎えられた。
更に歩を進めれば、神官の言うとおり輝く黄金の光がシオンを出迎えた。目を凝らさずともそれがなんであるのか、シオンはすぐに分かった。いや、双魚宮に足を踏み入れたときから、既に分かっていたのかもしれない。ボケ老人とはいえシオンは、かつては黄金聖闘士として名を馳せた一人である。
しかし、目の前の二人はシオンが来たことすら気がつかないで、ギャーギャーと騒いでいる。
サガの頬をつねり、
「バケツ!」
とアイオロスが罵れば、サガもまたアイオロスの耳を引っ張り、
「にわとり!」
と罵倒し、つねられた頬の端から、だらりと涎が垂れる。
羽ばたく翼は薔薇をなぎ倒し、花びらが宙を舞う。「あっ、バケツから涎がもれたっ!」
サガの涎で濡れた手を放し、今度は青銀の髪の束をグイッっと引っ張りながらニワトリがバケツを馬鹿にした。そしてやはり羽がばたく。
「これ以上、バケツというな!」
「うがっ!」
鼻の両穴にサガに指を突っ込まれたアイオロスであったが、フガフガしながらも空いている手でサガの鼻を摘んで捻る。もちろん翼の羽ばたきつきである。
「何をしておるのじゃ、お前達」
●輪明弘のような穏やかなシオンの声はバケツと鶏の耳には届かず、お互いを罵倒する声は止まないどころか益々激しくなっていく。シオンは小さなため息を一つついて、一人に焦点を絞ることにした。
「アイオロスッ!」
「邪魔をするなっ!」
「いい加減にせぬかっ!」
「うるさい、麻呂まっ………っ!!」
アイオロスは鼻に指を突っ込まれ、耳を引っ張られたまま向きを変え、思わず口走しり硬直した。同時に髪を掴まれ、鼻を捻られたままのサガもまた連鎖的に首だけを捻り固まった。
真っ白いケープを纏い、豪華な冠の下には仮面を被った巨大な存在に、それが何であろう教皇本人だと知り、二人はその場に凍りついてしまったのだ。小さな背中に背筋に冷たいものが通り抜けた。「うろたえるな、小僧ぉーーーーーーーーーーーーっ!!」
サガとアイオロスは高い天井まである重厚な扉の前でたたずんでいた。
二人の頭のサーティーワ○アイスクリームのポスターの如きたんこぶは、シオンの怒りを見事に物語っている。
真っ青で、やや膨れ面の下には、あるべき聖衣の変わりにプロテクターを纏っていた。それもそのはず、聖衣はかたく閉じられた扉の向こうにあるのだ。
閉じられたばかりのその扉を開く勇気は、今の二人にはなかった。サガとアイオロスは横目でチラリとお互いを確認すると、青い顔を大袈裟にプイッとそむける。お互いに口を利かぬどころか目を合わせないところを見ると、まったく反省していないようだ。
こうして二人はお互いに背を向け、別の方向へと廊下を進み執務室を離れていった。
数分前。
双魚宮から執務室に連行した二人から喧嘩の理由を聞いたシオンは、仮面の下で青筋を数本も走らせ、バケツだ、鶏だ!とわめく二人に、本日二度目の必殺技「うろたえるな小僧!」をお見舞いしてやった。執務室の天井に叩きつけられ、床に落ちた二人の聖衣を脱がせ、今度は光速でげんこつを食らわせた。
喧嘩の理由のあまりのくだらなさに、これが黄金聖闘士かと溜息をつかざるを得ず、シオンは一時預かるつもりで幼い二人から聖衣を剥ぎ取ったのだった。「何がいかんのかのぅ・・・。」
仮面を執務机に置き、その向こうにある二つの聖衣・ニワトリとバケツを見比べたシオンの声は珍しく沈んでいた。
この2つの聖衣は、200数十年前にシオンが修復したままから何らデザインは変っていない。その前の形をシオンが覚えているかどうかは定かではなかった。シオンはゆっくりと立ち上がり、窓辺の豪奢な椅子にまるで人形のように無表情で座っているムウを抱えあげた。額にかかる薄紫色の前髪を優しくかきあげ、その白い額に軽く口付けをすると、スイッチが入ったかのようにムウがキャッキャッと喜び動き出した。
「これのどこが鶏に見えるかのぅ・・・」
2つの聖衣を前にシオンが呟くと、腕の中のムウが大きな瞳を瞬かせ不思議そうにシオンの顔を見上た。
「コケコッコォーーーッ!!」
見上げたままムウが鳴く。
「ムウや。お前にもこれが鶏に見えるのか?」
「にわとりさん?」
「これじゃ。射手座の聖衣じゃ」
大きな澄んだ瞳に射手座の聖衣が輝く。人馬の形を形成し弓を引く射手座の聖衣は、装着前の状態を保ちつつ黄金の輝きを放っている。
それを捕らえたムウの瞳にも黄金の輝きが宿った。「ムウや。これは鶏か?」
「おうまさん。ヒヒーーーーン」
両脇をシオンに支えられ宙に浮いた状態のまま、ムウは両手を折り曲げ馬のように持ち上げると、これまた馬のごとく鳴いた。
シオンは穏やかな笑みを浮かべて、ムウを胸元に戻すと小さな頭を優しくなでた。「そうじゃろう。これは馬じゃ。正確には人馬じゃが、鶏には見えぬのぅ」
「ヒヒーーーーン。ヒヒーーーーン!」
鳴き声の返事が返ってくる。
ムウの脳内では、聖域の青い空を翼の生えた黄金の人馬が駆け回っていた。「ではのぅ、ムウや。これはバケツかのぅ?」
「バケツ?」
シオンは先程と同じようにムウに双子座の聖衣を見せた。小さく馬の鳴き真似をしながら、足をバタバタとさせムウは首を捻った。
「バケツかのぅ・・・?」
ムウは更に首を捻ると、今度は腰を捻りシオンの顔を横目で見ながら手をばたつかせた。
「おてていっぱい!」
「そうじゃのう」
「おかおいっぱい!」
「そうじゃのう」
「おにんぎょうさんみたい!」
「そうじゃのぅ」
一層深く微笑んだシオンはムウを執務机の端に座らせると、今度はその目の前に双子座のヘッドパーツだけを差し出した。
途端、
「バケツ!」
とムウが瞳を輝かせ、楽しそうに笑った。
「バケツ!バケツ!!」
「ムウや、これはバケツではい。双子座の聖衣のヘッドじゃ」
「バケツ!バケツ!バケツゥーーーーーーーッ!」
「バケツではないのじゃ・・・・」
手を差し伸べて足をバタバタとさせながらムウは、バケツこと双子座のヘッドをねだった。シオンはため息混じりに大きく首をふりながらヘッドを元の位置に戻し、バケツと騒ぐムウを窓辺の椅子に戻す。
「ムウ。余はこれから礼拝に行かねばならん。大人しくここで留守番しておるのじゃぞ」
「はーーーいっ。」
福与かな頬に手をあてがい、視線をムウと同じくらいまでに落としたシオンは、何度もムウの唇にキスをし執務室を出て行った。
「バケツかのぅ……」
ケープを揺らし廊下を歩きながら、シオンは呟いた。