★はじめてのチュウ
「それじゃ。そろそろ帰らないと……」
サガは幼い後輩達を寝かしつけると、リビングでシュラ達の勉強をみているアイオロスの背中に声をかけた。
「もう帰るのか?」
「うん。もう遅いし」
サガは申し訳なさそうに眉尻を下げて笑った。
シュラやデスマスク達の、「え?帰っちゃうのぉぉ」という視線にいた堪れず、思わず泊まってしまおうかという誘惑にかられた。
だが、一度帰ってカノンの顔を見ないと、また何か悪さをしてはいないかと心配でたまらなかった。
サガはテキスト越しに「帰らないで」という視線を送るアフロディーテの額にキスを落とし、続いてデスマスク、シュラへと繰り返した。
「おやすみ、皆。明日は早く来るよ……そうだ。市場で焼きたてのパンを買ってきてあげようね」
そう言ってサガが笑顔を見せると、三人の顔がパァと明るくなった。それを見て安心したサガは、「それじゃ、おやすみ」ともう一度挨拶をした。
「サガを送ってくるからお前たち自習してろ」
サガがリビングから姿を消すと、アイオロスは慌てて立ち上がってその後を追いかけた。
残された三人はいつものことなので、互いに顔を見合わせて肩をすくめただけで、アイオロスが消えたと同時にテキストをほうりだして遊び始めたのであった。
「ふぅ〜〜、アイオロス、教え方へったくそなんだよなぁ〜」
「もう眠い……」
デスマスクがそう言ってペンを投げ出し椅子の上で伸びをすると、アフロディーテは小さなあくびをした。
「俺、なんか飲み物持ってくる。どうせアイオロスはしばらくもどてこないしな!」
嬉しそうにキッチンに向かったシュラは、そこでサガが朝来るときに羽織っていたローブをみつけた。
この日、朝はとても冷え込んでいたのだが、午後から日が差してきて暖かくなり、サガは脱いだローブをそのままにしてしまったのだ。
今なら追いかければまだ間に合うだろうと、シュラはローブを掴むと
「サガが忘れ物したから、俺、今からおっかけてくる」
デスマスク達に告げて走り出した。
普段アイオロス達と生活している小屋を出ると、シュラは走った。この頃には、物音をたてずに走ることが身についており、人間的な速さで走ることはシュラにとって歩くと等しいくらい容易いものであった。
5分くらい走っただろうか、シュラは月明かりの下に見慣れた姿を見とめて小さな瞳を輝かせた。
「サッ……!」
口を開きかけたとき、視界に入ってきた二人の姿に、シュラは立ち止まり声を飲み込んだ。
「おやすみサガ」
アイオロスとサガは小屋を出ると、まるで夜の散歩を楽しむかのように歩いた。だが、二人ともあと10分も歩けば別れなければいけないことを知っていた。
そしてしばらく歩るきながら、別れを切り出したのサガのほうだった。
「アイオロス、もうここら辺でいいよ。見送りなんて、子供じゃないんだから」
「ああ、分かってるけど」
「それじゃ、また明日。おやすみ、アイオロス」
「おやすみ、サガ」
アイオロスはサガの額にかかる髪をかき上げ、顕になった額に口付けを落とした。サガは月明かりの下でわずかに頬を染めて、小さく頷く。
「おやすみ……アイオロス」
「おやすみ、サガ」
再び小さくつぶやくサガの頬に、アイオロスは口付けを落とし、
「おやすみ、サガ」
今度は反対の頬に口付ける。
そしてもう一度、
「おやすみ」
つぶやくと、今度はサガの唇に軽く触れた。
サガの頬はアイオロスの唇が触れるたびに赤みを増し、サガはそのたびに小さく「おやすみ」と応えた。
その唇にアイオロスは二回目のお休みのキスをすると、三度唇を近づけた。
唇に近づくに連れ、サガをまっすぐ見つめていたアイオロスの瞳が閉じられる。サガはその行動の意味を知ると、アイオロスに真似るようにサガもまたゆっくりと瞳を閉じたのであった。
シュラは「あっ!」と声を出しそうになって、慌てて持っていたローブに顔を埋め、木陰に身を隠した。鼻腔いっぱいにサガの香りがひろがる。
そしてゆっくりと顔を上げると、恐る恐る目の前の光景を伺い見る。
どうしたらいいのか、シュラには分からなかった。
なんだか見てはいけない気がしてとっさに隠れてしまったのだが。
シュラの目の前で、サガとアイオロスは抱き合ったまま、唇を重ねあっている。
いつもサガをからかってアイオロスがサガの唇にキスをすることはあったので、最初はそのいつものおふざけなのかと思っていた。
だがどうも様子が違うことにシュラは気が付いていた。
唇を合わせている時間が長いし、まったく普段のそれとは違うのだ。
それもサガがまったく怒っていない。
アイオロスはサガの背中と腰に手を回しているし、サガも力なくではあるがアイオロスの腰に手をまわしていた。
夜の静寂のなか、唾液が絡まりあう音と、サガの苦しそうな荒い息だけが響いている。
シュラはちょうど性に興味を抱きはじめる年頃である。だから、今目の前で行われているそれが、大人同士でするキスだということを知っていた。
だがそれを見るのは初めてだったので、それが大人同士のキスであることを思い出すのに時間がかかった。
それは少年のシュラには想像していたよりも衝撃的で、遥かに淫らであった。
サガとアイオロスが離れた後の今まで見たこともないサガの放心した表情は官能的で、それを意味するところは半分は理解していないシュラの幼い男心はくすぐられ胸の鼓動が早まった。
そしてまた、親兄弟と同然のアイオロスとサガがそれを行っていることも、まだ少年のシュラには衝撃的だったのだ。
アイオロスの手がサガの襟元にのび、唇がそこに触れた。
それをサガの手がやんわりと押しのけた。
「アイオロス。だめだ……帰らないと」
「……」
「おやすみ……」
今度はサガがアイオロスの額に口付けた。
「明日は泊まれるから……そんな顔をしないで、アイオロス」
アイオロスは切なさと不満を混ぜた表情でサガを見ながら、しぶしぶと小さく頷いた。
それに満足したサガは笑顔を作ると、もういちど挨拶をし、超能力で姿を消したのであった。
そしてアイオロスは、しばらくサガが消えた空間を見つめていたが、
「少し走ってから戻るか……」
足元の小石を蹴って走り出した。
燃え上がった性衝動を沈下させるには、他のことで気を紛らわせるのが今のアイオロスにとっては一番いい方法だったのである。
一方小屋では……。
ローブを手に戻ってきたシュラを見て、デスマスクが首をかしげた。
「どうした?、シュラ。間に合わなかったのか?」
そう声をかけられても、初めて目撃した大人同士のキスに未だに現実に戻ることができず、シュラはそのまま寝室に入ったまま出てこなかった。
「なに、あれ?」
「さぁ?」
デスマスクとアフロディーテは互いに肩を竦めた。
初めて大人のキスを知ったシュラは、サガの放心した顔が頭から離れず、翌日からサガの顔をまともに見ることができない日々が続いたのであった。