moonlight garden

なべての莟、花と開く麗しき5月の頃、双魚宮は一番華やかで、一番多忙な季節を迎えていた。クリスマスよりも、イースターよりも、5月が一番忙しい。
庭の薔薇たちが一斉に咲き誇り、教皇の間へと伸びる薔薇棚も宮廷薔薇が咲き乱れ、白い宮殿を真紅に染める。
今年は女神が日本からわざわざ薔薇園の見学に訪れ、輪をかけて多忙であった。
連日、薔薇園の手入れや、教皇の間へ献上する薔薇の選定に追われ、珍しく働き詰のアフロディーテは、すっかり荒れてしまった手を見て嘆いたが、それは女神の大絶賛で報われた。
アフロディーテの鼻は北極を突き抜け南極を通り過ぎ、地球を一周するほど高々であった。
悪友のデスマスクやシュラに言わせれば、アフロディーテは神官を顎で使って作業させているだけで、何もしていないのだが、本人は至って真面目に仕事をしているつもりであった。管理するのも仕事の一つである。
女神からお褒めの言葉を頂戴したからには、薔薇園の予算も、申請すれば簡単に増額できるであろう。予算を浮かせ着服した金で何を買おうか悩むのは、アフロディーテにとって至福の時である。

ベッドに寝転がりブランド品のカタログを眺めていると、疲れた体が重くなり睡魔に誘われた。アフロディーテはカタログを床に捨てて電気を消し、ガウンを脱いでベッドの中へともぐりこむ。
瞼を閉じてしばらくすると、眠いはずなのに、目がさえてしまった。無性に窓の外が気になり、どうにもならないほど気になりだしてしまったのである。人の気配を感じたわけではない。
不審者が下からあがってくるには黄金聖闘士が守護する宮が11もあり、誰にも気づかれず辿り着くことは、神でもない限り出来ない。上から下がってこようにも、月明かりを頼りに猛毒の宮廷薔薇が咲き乱れる庭を通り抜けるのは危険である。
それでも外が気になって仕方ないアフロディーテは、ベッドからすり抜けると窓辺に立ち、カーテンを静かに割り開いた。窓の外に広がる薔薇たちは、春の夜の光の下、静かに眠っていた。薔薇の妖精達がアフロディーテを誘惑したわけではなさそうだ。

しばらく夜の庭を眺めていると、やはり自分の直感に狂いがないことをアフロディーテは再確認した。
一瞬であるが確かに見た。僅かに明かりが見えたのである。
時刻はちょうど0時をまわったところであろうか。
黄金聖闘士であるアフロディーテを欺き侵入することのできる者は、同じ黄金聖闘士か、それ以上の力を持つ者としか考えられない。女神の大いなる小宇宙は女神神殿にある。黄金聖闘士の誰かがいたずら目的で薔薇園に進入するにしては、女神の滞在時であり、あまりにも時期が不適当だ。幽霊等の心霊現象の可能性もありえるが、想像を超えた敵の侵入の可能性も出てきた。アフロディーテはガウンをまとうと裸足で靴を履き、寝室を飛び出した。

明かりを見た付近まで気配を殺し、薔薇の陰に身を隠して移動したアフロディーテは、余りにも堂々とした人影を発見し、気を引き締めた。
薔薇の花に顔を寄せ佇んでいる侵入者の体は、月明かりに照らされ青く輝き、その影は恋しい人によく似ていた。しかし、かの人はとうの昔に花を愛でる心を失ってしまっている。
さて、薔薇は誰を恋せるか?
金色の日の光か?蝶か?歌うたう鶯か?夕べの明星か?
かの詩人がここにいたならば、すべてを愛すとは答えなかったであろう。
花々が月影に仰いだ顔は清く美しい。
人影はアフロディーテもよくよく知る人であったが、その人であると気づくのに時間がかかってしまったのは、昼の顔と異なっていたからである。仮面の下を顔を知らぬわけではないが、自分の知る顔と余りにも違うのだ。
玉座から睥睨し、数多の者を畏怖させる瞳が、花を恥らわせるほどにやわらかく、威厳に満ちた小宇宙も、最強の戦士である気迫も感じることはできない。いつも不適な笑いを浮かべている口元は、淫猥ではなく、品の良い微笑をたたえている。青く輝いていたのは、月明かりに染まった白い絹のローブと銀色の長い髪、白く透き通った若々しい顔である。
教皇シオンであった。

あの方でもこんな顔をすることがあるのかと、アフロディーテは息を呑み感心した。その人間離れした迫力のせいで気づくことはなかったが、実は結構な美形ではないか。美の女神の名を戴く自分には及ばないが、評価には値する。
しかし、月下の麗人は何をしにきたのであろうか?
わざわざ人目を忍ばなければいけないような立場ではない。昼間の薔薇園には女神と教皇が歩く道に赤い絨毯を敷いた程だ。夜薔薇を愛でるなら、庭中に燭台の準備をさせるであろう。日中に訪れた際、何か大切なものでも落としたのであろうか?しかし何かを探しているような素振りはない。先ほどから同じ花の前で佇んだままである。
侵入者が教皇であるならば、最早見張っている必要はないのだが、秘密の花園を覗き見ているような気分に、アフロディーテはその場に身を隠したまま動こうとしなかった。

どのくらい時間が経ったのかは分からなかったが、長いことシオンはその花の前で佇んでいた。
これはいわゆる”徘徊”というやつか?
アフロディーテがそう考えて、声をかけるべきかどうか悩み始めると明かりが灯った。その数は3つ。オレンジ色のほのかな光は、蝋燭の明かりである。先ほど部屋の中から見たのは、シオンが手に持った燭台であった。先ほどまで火を消していたのは、花の香を楽しむ為であろうか。
シオンは花を照らすと、長い指を伸ばし茎を手にした。身を守る棘は役立たなかった。手折られたのは白い一厘の薔薇であった。
園内にある薔薇はほとんどの花が赤系統で、白い薔薇は少ない。教皇の間や女神神殿を彩る薔薇たちも、赤系統である。シオンはたまたま白い薔薇を手にしたのか、それとも、白い薔薇が欲しかったのか、いずれにせよ、花が欲しければ誰かに命じればよいわけで、わざわざ玉体を運ぶまでの事ではない。
一体教皇は何をしに来たのか?
シオンが教皇の間ではなく、十二宮のほうへ歩き出したのを見て、アフロディーテはシオンの行動にただならぬ興味を抱き始めた。

予想通り、シオンは白羊宮を通り過ぎた。愛弟子のムウに夜這いをかけるのが目的なら、薔薇園に長々と立ち寄る筈がない。アフロディーテは視覚を研ぎ澄まし、蝋燭のわずかな明りが白羊宮より更に下まで移動したのを確認すると、光速でその後を追った。途中、何人かの黄金聖闘士に怪しまれ声をかけられたが、無視して駆け下りる。誰もシオンが教皇の間を脱け出したことには気付いていないようだった。超能力を使って一気に下ったのだろう。

蝋の残り香を頼りに辿り着いた場所に、アフロディーテは『なるほど』と呟かざるを得なかった。かつて一度、不覚にも世話になったことのある場所は墓地であった。シオンの姿は既になかったが、花を持ち出した事を考えれば、ここが目的地である可能性は高い。
そして眠っているのは、人目を忍ばなければ花を手向ける事の出来ない人物であろう。250年も生きれば死に別れた人の数も半端ではなかろうが、その中でも特別な人に違いない。家族か、友人か、忘れられない恋人か・・・
ここまで尾行したからには、花のありかを突き止めなければ気が済まず、アフロディーテは夜の墓地を探し歩いた。デスマスクの守護する巨蟹宮に比べれば、墓地といえども不気味ではない。無縁墓の多い聖域では、墓地を訪れる者は少ないので、花が手向けられた墓を探すのは簡単だった。シオンが持ち出した白い薔薇の花は、やはり墓に供えられていた。

アフロディーテは腰をかがめ、墓標の前に供えられた薔薇を手にし、それが双魚宮で育てられた薔薇と同じ品種であることを確認した。月明かりに照らされた墓標を凝視しても、そこに誰の名が刻まれているのか、彼には分からなかった。墓石は古く、長いこと風雨に晒されていた形跡が窺える。アフロディーテは墓石の表面を手でさすってみたが、名が刻まれた跡すらわからない。最初から何も刻まれていなか可能性もあるが、いずれにせよ、これ以上シオンの秘密を探ることはできなかった。

 

翌日
早朝から花を摘んでいるアフロディーテの姿に、神官たちは目を見張って驚いた。いつもならば、9時ごろにのそのそと起きてきて、身だしなみを整えるのに2時間も3時間もかけている彼が、いくら女神の滞在中とはいえ、朝の7時前から植木バサミを片手に、庭に出てくるなど誰が想像できようか。昨日も、教皇から呼び出しがかかるギリギリまで、鏡の前で一所懸命化粧をしていたのだ。新しい恋人ができたのだとしても、今日のデートは難しい。

朝の光を受けた黄金の輝きに気付き、アフロディーテは髪をかきあげながら顔をあげた。黄金の山羊は不機嫌な顔をしていた。シュラである。人一倍忠誠心の厚い彼は、一晩中聖衣を纏ったまま、寝ずに磨羯宮を守護していた。そして、その忠誠心ゆえに、アフロディーテの昨夜の行動に憤りをかんじた。いくら双魚宮が最後の宮といえども、女神の滞在時に宮の守護を放棄するのは、不謹慎極まりないというのが彼の言い分であった。

朝っぱらから説教をする同僚をアフロディーテは鼻で笑い、それがさらにシュラを不機嫌にさせた。

「そうまでいうなら、教皇にも説教してきたら?まさか、山羊座のシュラともあろう男が、昨晩教皇が十二宮から脱け出したことに気付かなかったなんて事はないよな?」

ビュンと空気がなり、鋏の先が聖衣からわずかに見える喉元に突きつけられ、シュラは一瞬たじろいだ。もちろん刃物に恐怖したわけではなく、アフロディーテの指摘に動揺したのである。アフロディーテは鋏を引くと、再び花の選定をはじめた。

「では、お前は教皇のあとをつけて十二宮を出たというのか?」

「ま、そういうことだね。教皇がどこに行ったか知りたいかい?」

頷く同僚にアフロディーテは昨晩の出来事を話した。しかし、それは安易に信じることができる内容ではなく、シュラは訝しげな顔でアフロディーテを睨みつける。シオンに気づかれず尾行などできるはずもなく、また、最も限りなく人間に近い妖怪(と思われている)のシオンには、墓を荒らし、死体を食い散らかしていたというほうが似つかわしい。

「花には妖怪を人間に戻す魔力があるようだ」

そう言うと、自分だけが教皇の秘密を知っているという優越感に、アフロディーテは切り取った花を口元に当て、ニヤリと笑った。

「これから教皇に花を献上しに行くけど、あんたも行くかい?どうせ私の話なんて、信用していないんだろう」

「断る」

「それは残念だね、誰の墓か気にならないのかい?」

「ああ、気にならん」

即答したシュラにアフロディーテは再び笑った。興味本位で首を突っ込み、教皇の秘密を探ったところで、得られるものよりも失うものの方が多いだろう。シュラはそう判断したのだ。賢明な選択である。
薔薇を花篭に入れ、アフロディーテは引き止めるシュラを無視して、教皇の間へと向かった。

 

朝早くから面会を求めて現れたアフロディーテに、シオンは仮面の下で苦笑いした。アフロディーテの嫌がらせに思わず笑ってしまったのである。大理石でできた執務机の上に置かれた花篭は、白い薔薇の花で埋まっていた。

「白い薔薇が入用でしたら、夜中にこっそり御出でいただかなくとも、いくらでもお持ちいたします」

銀色の仮面に覆われ、シオンの表情をうかがい知ることはできないが、アフロディーテは勝ち誇った笑みを浮かべた。シオンは何の反論もせず、篭の中から花を手に取り、それを仮面の瞳で眺める。

「墓に誰が眠っておるか知りたいか?一晩中考えておったのであろう」

シオンの声にアフロディーテは体を震わせた。シオンの強大な超能力をもってすれば、黄金聖闘士であるアフロディーテの心すらも読むのは容易いのだ。やはり相手が悪すぎた。
硬直したまま返事をしないアフロディーテに、シオンは余裕の笑い声をもらし

「実はのぅ、余も知らんのじゃ。お前がこそこそしておったからのぅ、からかったまでじゃ」

と、付け加えた。
してやったつもりが、まんまとしてやられたアフロディーテは、執務室から出てゆくシオンを呆然と見送り、シオンが白い薔薇を手にしたまま退室したことに気づかなかったのであった。


End