夏の終わりのハーモニー(その2)

 

これは夢か?

朦朧とする頭で、ムウは考えた。

それにしても嫌な夢だった。
師の幽霊が女神を殺せと命じたり、アイオリアに罵られたり、地獄に蹴落とされたり、ようやく死んだと思ったら無理やり甦生されたり、死んだはずの師が生き返っていたり、教皇の間に監禁されたり・・・

長いこと夢など見ていなかったが、久しぶりに見た夢がこれかと思うと、二度と夢など見たくはないと思わざるを得なかった。
目覚めも最悪である。全身が重く、だるい。

見慣れた天井を眺めながら、ムウはもう一度考えた。

これが夢だ。

夢だと思っていたほうが現実で、自分は今、教皇の間に監禁されているのだ。ジャミールに帰りたいと切望するが余り、ジャミールにいる夢を見ているのではないのか。
ムートンの敷かれたベッドから重い体を起こすと、懐かしい光景が目に飛び込んできた。何もない部屋の壁にはめられた小さな窓の外は、青い氷と雪に覆われた神々の住む山々が広がっている。毎日ただ呆然と眺めていた景色は、夢の中でも鮮明であった。

ジャミールに帰りたい。

ムウは溜息をつき、夢の中で再び眠りについた。

 

恐い夢を見た。

師が死んだ。アイオロスも死んだ。女神が消えた。誰もいない何もない、寒くて息苦しい山奥に追いやられた。
悲しくて、悔しくて、憎くて、寂しくて・・・孤独に押しつぶされ、気が狂いそうになった。
苦しくて、苦しくて、あまりの苦しさに目が覚めた。

師の腕が自分の傍らにあることに、ムウは安堵の息をついた。
何と恐い夢か、シオンが消えてしまうなんて。
師の胸に頭を寄せ、その鼓動と温かな小宇宙を確認すると、夢の中でも離ればなれにならないように、長い銀色の髪を小さな手に絡めて、再び瞼を閉じた。

 

色々な夢を見た。

どれが夢でどれが現実なのか、わからないほど夢を見た。
どれもこれもろくでもない夢ばかりであった。
しかし、それらが全部夢であるなら忘れればいいだけのことだ。

ムウは自分の大きな手を見て、師の腕の中で安らかな眠りについたことも夢であったと知り、悲しげに目を伏せた。

 

気持ちよい肌触りと、雄大な小宇宙を感じ、ムウは目を覚ました。
頬に当たっているのは白い動物の毛皮だ。パチパチ目を瞬かせ視線を上のほうにずらすと、銀色の瞳と目が合った。

「おお、ムウや。ようやく目が覚めたか」

シオンはそう言うと上体を倒し、ムウの額に口付けした。穏やかな師の微笑みに、ムウは再び目を瞬かせる。そして、いま自分のいる場所が教皇の間のどこかではなく、ジャミールの自分の館であることに気付くのに、然程時間はかからなかった。

これも夢か?

呆然としている弟子を見て、シオンは小さく笑った。

「夢ではない。ジャミールに行きたかったのであろう?」

ムウはおずおずと肯いた。師に心を読まれることなど、今更気にするまでもない。

「リゾートにチベットとは余りきかぬが、夏休みじゃ。しかしのぅ、いくら聖域が暑いとはいえ、ここは寒すぎじゃのぅ」

指先まですっぽり毛皮の袖に隠した手で、シオンは再びムウの頬を撫でる。コート姿の師に、ムウは疲れた顔に静かに笑いを浮かべた。

「何がおかしい?」

透かさずシオンはムウのやつれた頬を毛皮の両手ではさみ尋ねる。

「・・・イエティみたいです」

長身と豊な銀色の髪、そして全身を覆った白いミンクのロングコートは、雪男を髣髴させたのだ。
シオンは眉根を寄せると、クスクスと笑うムウの頬を押しつぶした。

「余は寒いのが嫌いなのじゃ!」

それでもムウは目を細めて笑う。そして、シオンの毛皮で隠れた手に自分の手を重ねるとシオンの瞳を見上げた。銀色の輝きは懐かしい光を帯びていた。

「ありがとうございます、シオン様」

枕に埋まって下げることの出来ない頭に代えて、ムウは瞼を閉じシオンに礼を述べた。
どうして傍若無人我侭大王のシオンが自分の望みをかなえてくれたのかわからなかったが、今のシオンの瞳は聖域に君臨する覇者のものではなく、自分だけの優しい師父のものである事に気づき、ムウはもう一度口元に微笑みを浮かべた。

静かなジャミール、敬愛する師父・・・なんと心地よい夢であろうか。

この夢が覚めないように、ムウは伏せた瞼を開こうとはしなかった。


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