成長期

 

数日後、アイオロスが幼いアイオリアを連れて闘技場に来ると、

「おはよう、アイオロス、アイオリア。遅刻だよ」

サガは微笑を浮かべながらもアイオロスを嗜めた。

しかし、どうやらアイオロスの耳には最後の言葉は聞こえていないらしい。

「おはよう、サガ」

遅れて来たことにまったく詫びる気配も見せず、アイオロスはにっこりと笑って応える、といつものようにサガの頬に自分の頬を寄せた。

サガとアイオロスはこうやって頬と頬を摺り寄せて挨拶をするのが日常となっているのだ。

まったくもう……、とサガは心の中で呆れながら、寄せられた頬に自分のそれを擦り合わせた。

冷えた空気に晒された肌にアイオロスの暖かい体温はとても心地よく、遅刻したことなどどうでもよくなるほどにアイオロスの温もりがサガを包んだ。

しかし、そうやって次に反対の頬を寄せるとチクリと頬に何かが刺さり、サガは顔をしかめた。

「イタッ……」

「ん?どうしたの、サガ?」

「今、なにか頬に刺さった……。アイオロスは痛くなかった?」

白い頬を撫でるサガにアイオロスは首を傾げた。痛いどころか、サガの冷たいすべすべした頬が気持ちよかったのである。

「いや、大丈夫だよ」

と、アイオロスも一応自分の頬に手を滑らせた。その手がアゴのあたりで突然とまると、アイオロスはあっ、と小さく叫んだ。

「どうしたの? やっぱり刺かなにか刺さってた?」

「そうじゃないよ、サガ!!!俺、また大人になったんだ!」

「え? どういうこと?」

「ヒゲだよ、ヒゲ!」

「ヒゲ?」

「そう。ヒゲが生えてきたんだ!! 見て、見て、見て!! ほら、アゴのところに生えてない?」

アイオロスは瞳を輝かせながら頭を後ろに傾けた。

サガは首を傾げてアイオロスの顕になったアゴを覗き込んだ。

そしてそこでサガが見つけたものは、日に焼けた柔らかい肌から小さく顔を覗かせる数本の薄茶色い毛であった。

それはよぉーーく見なければ分からないほど先端だけが顔をだし、それをヒゲと判断するべきかどうか悩むようなものであったが、頬を寄せ合った時に感じた痛みはまさしくヒゲの張りのある硬い感触に他ならなかった。

「やっほぉ〜〜!! また俺大人になったよ、サガ!!!」

サガの手を取って小躍りして喜ぶアイオロスとは裏腹に、つい最近ようやく下の毛が生えてきたばかりのサガは、また先を越されてしまいショックを隠し切れないのであった。

 

 

チクリと額に痛みを感じたサガは目を覚ました。

カーテンの隙間から朝日がさし、そのまぶしさに目を細めながらサガは身体を起こすと額を撫でさする。

眉間に皺を寄せてなんとも複雑な表情をしながら視線を落とし、心地よく眠るアイオロスを見下ろした後再び額を撫でる。

そして、眉を寄せてムッと顔をしかめると、その手をアイオロスの頬から顎へと滑らせた。

チリ…チリ…と、時折サガの白い手を刺激するのは、昨日自慢された生えたばかりの髭である。

それが寄り添って寝ていたサガの額を刺激したのだった。

サガはますますムムッと顔をしかめると、静かにベッドを下りた。

そして洗面所からシェービングクリームと剃刀を手にして部屋に戻り、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

サガはアイオロスが一度寝ると、滅多なことでは起きないことをよく知っていたのである。

シェービングクリームと剃刀などサガは使ったことがなかったが、昨日の夜、アイオロスのためにと神官に頼んでそれらをもらい、使い方まで教えてもらっていた。しかし、サガがそれらをもって帰るとアイオロスは露骨に拒否の態度を示した。

アイオロスはせっかく生えてきた大人の証を剃りたくなかったのである。

触れられるたび頬や額に感じるチクチクとしたこそばゆいような痛みは、サガには到底感じのよい物ではなかった。それなのにアイオロスは昨晩、嫌がるサガやアイオリアの反応を楽しむかのように、また生えたての髭を自慢するかのように顔を摺り寄せてきたのだ。

しかもその髭のせいで心地よい眠りから覚まされたこともあり、サガはアイオロスが寝ている間に剃ってしまおうと考えたのだ。

実際は大人になったアイオロスのことがうらやましくて仕方ないという気持ちが大半を占めていてのことなのだが。

サガは悪戯っ子のようにニヤリと笑い、シェービングクリームがたっぷりついたアイオロスの頬に剃刀をそっと押し当てた。

そうしてタオルでアイオロスの顎と頬を優しく拭ったサガは、改めてアイオロスの顎に触れ満足気に頷いた。

これでアイオロスも子どもに逆戻りである。

が、またチクリとサガの手を刺すものがある。剃り残しである。

サガはアイオロスの顎をジー--ッと覗きこむと、ピョコンと顔を覗かせた毛を発見して眉根を寄せた。そしてそれを指、というよりも爪で挟むと一気に引っ張った。

「いでっ!!!」

これにはさすがのアイオロスも悲鳴をあげて飛び起きた。

サガは慌てて髭を引っ張った手を後ろに隠す。

「なにやってるんだ?、サガ……」

自分を見下ろすサガにアイオロスは目をパチパチ瞬かせた。サガが自分の体の上にまたがって馬乗りになっているのである。

一体どうなってるのか事態がつかめずにいるアイオロスに、サガは微苦笑を浮かべて首を横に振った。

「ごめん、起こしちゃった……」

「なにやってたの?」

「ううん。なんでもない!」

そんなはずはないことは、いくら寝起きの頭のアイオロスでもそれくらいは分かる。

「後ろに隠したのなんだよ?」

「え?!」

ドキッとサガは瞳を泳がせると慌ててアイオロスの上から逃げようとした。

「逃がさん!!」

アイオロスは馬乗りになったサガの腰をムンズと掴み、それを阻止して睨みあげた。そして腹筋に一気に力をこめてベッドから上半身を起き上がらせ、反対にサガをベッドに押し倒した。

あっという間にサガとアイオロスの体の位置が逆になった。

「何やってたか言えよ」

「だからなんでもないってば……アイオロスが起きないから起こそうと思っただけだよ」

「嘘つけ!」

「本当だよ」

サガはそう言うも、思いっきり目をそらしている。目は口ほどに物を言うとはまさにこのことで、アイオロスは思わず苦笑を浮かべた後、ニヤリと唇を吊り上げた。

「どうしても言わないなら、無理矢理吐かせてやる!」

「なんだって?」

「身体にゆうこときかせればいいのさ!!」

「うわっ!アイオロス、やめて……っ!」

サガがジタバタと動くとアイオロスはサガの両肩を押さえ、うりゃっ、と一気に前かがみになり、

スリスリ……、スリスリ……

サガの頬に頬を寄せて何度も頬ずりをした。

スリスリ……、スリスリ……

「どうだ、サガ!何をしたか言えよ!」

スリスリ……、スリスリ……、スリスリ……

そうやって自分の顎から頬が満遍なくサガの頬にあたるように顔を上下させながら、アイオロスはあることに気が付いた。

サガがまったく嫌がっていないのだ。

昨日はあんなに嫌がっていたのにだ。

しかもクスクスと笑い声すらあげているではないか。

まさか!!

アイオロスは目を見開いて、サガの頬から離れると顎に恐る恐る手を伸ばした。

「ない!!」

何度撫でさすってみても、昨晩まで生えていた髭の感触は手から伝わってこなかった。

その様子をサガはクスクスと笑いながら見上げていた。

アイオロスは眉間に皺を寄せ何度も顎を撫でさすりながら考えると、自分が顎の痛みで目を覚ましたことに気が付いた。

「サガ! お前、まさか!!!!」

途端にサガはぷいっと顔を横に向けて視線をそらす。

アイオロスはサガの両肩を掴むと全体重をかけ、もう一度身体を前に倒して真上からサガの顔を睨み下ろした。

「だって……アイオロスばっかりいつもずるい……」

ぷうっとやや膨れるサガに、その一言で自分の予想が的中し髭を剃られてしまったことを知ったアイオロスは愕然となったのであった。


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