羊の家出(教皇の執務室No.50.5番外編その1)

 

 ここ1週間、教皇の間は緊張に包まれていた。

 大して忙しいというわけでもないのに、シオンが白羊宮に戻らず、昔のように教皇の間で生活しているのである。

 いつも定時になると、さっさと白羊宮に帰り、安息日は一日中白羊宮に篭っているシオンが、安息日まで教皇の間で仕事をしているので、絶対白羊宮で何かあったに違いないと、神官達はすぐに気づいた。そしてムウが家出したことを嗅ぎつけると、神官達は、仮面の奥のシオンの顔が怒りに震えているように思えて、これ以上機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払って、職務に励んでいた。

 絶対服従を叩き込まれて育てられたムウが、家出する事などあるはずもなく、またムウを溺愛する教皇が、家出したムウを放置しておくことなどありえない。ムウを赤ん坊の頃から知り、偽教皇時代を運良く生き抜いてきた数人の神官は、ムウが家出したことが信じられず、一瞬、教皇がまた偽物と入れ替わったのではないかと疑ったが、教皇はきちんとシオンであった。

 

 双児宮

 サガとカノンが相変わらず無言で昼食をとっていると、どこからどうやって入ってきたのか、貴鬼がひょっこりダイニングテーブルの前に現れた。

「頭のいい方のおじさん、お願いがあるんだけど、オイラをジャミールまで飛ばして欲しいんだ。」

 背中に小さなリュックサックを背負った貴鬼を見て、サガはすぐに状況が飲み込めた。

「そうか、お前もジャミールに戻るのか。」

「うん、ムウさま帰ってこないみたいだから、オイラ聖域にいても仕方ないし。」

 もちろんサガも、ムウがジャミールに買い物に行くと言ったきり、もう1週間以上も帰ってこないことを知っている。貴鬼を無視していたカノンが、肉をフォークでつつきながら口を開いた。

「あんな空気もない、幽霊しかいないところに、よく戻る気になるな。家出するなら、もっと住みやすいところにすればいいのによ。」

「ムウさまがいれば、オイラはどんなところでもいいもん。オイラはもう頭の悪い方のオジサンと遊んであげられないから、蠍のオジサンと仲良くするんだよ。」

 思わずサガが吹き出してしまったのを見て、カノンは眉を吊り上げた。

「十二宮は結界が強いから、下まで降りよう。」

 サガは席を立ち、貴鬼の肩に手を当てリビングを後にする。リビングのドアを閉める前に、貴鬼はカノンに手を振り、別れの挨拶をした。

 それから貴鬼は金牛宮で、世話になったアルデバランに丁寧に礼を言ってから、白羊宮へ向かった。

「忘れ物はないか?ムウの物も持ったのか?」

 白羊宮を素通りしようとする貴鬼に、サガが声をかけた。自分の前を歩く貴鬼の、あまりにも少ない荷物が気になったのだ。

 貴鬼は振り返り、サガに笑った。

「オイラもムウさまも、何ももってないから大丈夫だよ。」

 ムウと貴鬼が聖域に来て、まだ1年も経っていないが、普通に生活をしていれば、それなりに私物はあるはずであるが、貴鬼は何もないと言い切った。

 物欲がないのではなく、恐らく、私物を持つことも許して貰えなかったのであろう。
 サガは白羊宮の穏やかではない事情を知ってしまったために、そうとしか考えることが出来ず、眉間に皺を寄せ、貴鬼を見下ろす青い瞳に悲しみの色を浮かべた。

 深々と頭を下げて礼を言う貴鬼を、ジャミールの麓まで念動力で飛ばすと、サガはため息をつく。そして、あの二人が静かに暮していけることを心から女神に祈ったのだった。

 

 焦る気持ちを抑えながら、貴鬼はジャミールの岩道をゆっくり歩いていた。突然聖衣の墓場まで念動力で飛ぶと、高山病で倒れるということは、きちんと分かっているのである。
 しばらくして、薄い空気に大分体が慣れて来た事を確認すると、貴鬼は道から外れて、鋭く切り立った岩肌を、念動力を使って飛び越えていゆく。

多くの聖闘士が命を落とした聖衣の墓場も、ジャミールで育った貴鬼にとっては庭である。亡霊達に「ただいま!」と挨拶を交わすと、足場から落ちることなく、深い霧の中を通り抜けていった。

 

 

 かつてそうであったように、ムウと貴鬼はジャミールでひっそりとした生活をはじめた。

 聖域で生活するようになってから、冷たい微笑が顔に張り付いてしまったムウが、少しずつであるが、昔のように慈愛に満ちた微笑を自分に向けるようになったのを見て、貴鬼はいつよりさらに元気よく、ムウの周りを飛び跳ねた。
 風の音しかしない、寂しい土地でも、ムウの優しい静かな笑い声の聞こえない聖域よりかはよっぽどいい。貴鬼は心からそう思った。

 机をはさんで自分の前に座って、古典文字の講義をするムウを、貴鬼はじっと見つめていた。

「貴鬼、きちんと聞いていましたか。」

 ムウの紫の瞳に映った自分と目が合うと、貴鬼は慌てて本に視線を戻す。それ以上何も言わず、ムウは再び講義を続けた。
 どうして、オイラのお師匠様はこんなに優しい人なのに、ムウさまのお師匠様は、あんなに恐い人なんだろう。
 しかし、そんなことを聞くわけにもいかず、貴鬼は本に書かれた古い文字を目で追う。幼い頃、ムウが少しだけ話してくれたシオンは、厳格で優しい人、それだけである。ムウのように、怒ると恐いが、普段は優しい師を想像していた貴鬼は、シオンの妙に座った銀色の瞳に、ムウの語ってくれた師の姿を重ねることが出来なかった。

 

 風が窓を叩く音にムウは身を震わせ、声を失った。
 そしてムウの白い繊手が貴鬼の小さな手を乱暴に掴むと、貴鬼はその場から姿を消した。最後に貴鬼が見たのは、突然顔を強張らせ、わななくムウであった。

 幾重にも張り巡らされたジャミールの結界の中を、念動力を使って自由に動くことができるの者は限られている。ましてや、自分の縄張りである館内に、易々と侵入できる者など、この世に3人しかムウは知らない。
 念動力で貴鬼を消したのと入れ替わりに、貴鬼が座っていた椅子の後ろに、白い詰襟の服を着た男が現れた。シオンである。
 血の気が失せ、白蝋のように変わった顔に汗を浮かべ、ムウは座ったまま身動きを取ることが出来なくなっていた。顔を上げることもできない。

 2週間前、ムウは市場へ買い物に出かけたつもりが、気づいたら聖衣の墓場を歩いていた。自分で「ジャミールに買い物に行ってきます。」と、おかしな事を言って、白羊宮を出ていったのは覚えていない。
 今すぐ聖域に戻らなければと、何度も自分に言い聞かせたが、体はそのまま聖衣の墓場を突き進んでしまい、古びた石造りの塔を見たとき、自分が犯した大罪に気付いた。自分は聖域から逃げ出したのである。

 師の言いつけに背くことは、万死に値する。

 幼い頃からそう擦り込まれてきたムウは、聖域から自分を連れ戻しに来たミロとカノンを追い返したとき、死を覚悟した。聖闘士なのに、人らしく生きたいと、一瞬でも望んだ自分が悪いのだ・・・・、と。

 

 一思いに殺してもらえるだろうか?やはり、四肢を引き千切られ、嬲り殺されるのだろうか?

 真っ白になってしまった頭の中に、自分の死ぬ姿を思い浮かべる余裕ができると、ムウの体の震えが止った。
 貴鬼のことが唯一の心残りであるが、女神や老師をはじめ、他の黄金聖闘士が、幼い貴鬼がシオンの手にかかることを何とか食い止めてくれるだろう。
 別れの言葉を貴鬼にテレパシーでおくると、ムウはゆっくりと顔を上げた。

 自分を見つめるシオンの銀色の瞳に、ムウは再び身をこわばらせた。幼い頃、安らぎを覚えた銀色の瞳に、今は恐怖しか感じることができない。
 ムウは生き返ったシオンが、昔と変わってしまったことにはすぐに気付いた。自分を見るその瞳が違うのである。強大な念動力は、瞳を見ただけで、相手の心を教えてくれる。シオンの不気味に輝く銀色の瞳がムウへ伝えるのは、自分への異様なまでの執着心と愛である。そして、昔感じていた、師や義父としての愛ではなく、自分のすべてを求めてくる、シオンの恐ろしいほどの愛情をムウは拒絶したが、シオンンが拒絶された事に、全くおかまいなしであることが最大の問題であった。

 シオンはうつむく愛弟子の姿を捉えたまま、黙って立っていた。
 ようやく顔を上げたムウの紫色の瞳が、恐怖と嫌悪の色に染まっているのを見ても、表情一つかえることなく、その場に立っていた。
 そして、足音をたてず近寄る。

 シオンの伸ばした手がムウの頬に触れると、今までムウの全身に張り巡らされていた恐怖と緊張がすべて解き放たれた。

「もう買い物は済んだか?」

 シオンの言葉にムウは答えない。
 ムウの瞳からは、全てのものが消え失せていた。


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