Happy Birthday Kanon(その1)

 

ベッドの上でカノンは寝返りを打った。目が覚めてから既に30分以上が経過している。
開け放しのカーテンから昇ったばかりの朝日が寝室の薄闇を黄金に染め、カノンの背中を照らす。
ぎしっとスプリングの鈍い音が響くと、再度寝返りをうったカノンの海底の色を宿した瞳も黄金を受けて輝いた。
29回目の5月30日。
この日の太陽は神秘的な深海色の奥深くを照らし出し、カノンは目を細めた。

短い間に染み付いたベッドの自分の匂いに別れを告げる決心は、ここ数週間で確たるものとなっていた。
背中をはなしたら最後、もうここには二度と戻らない。
そう誓ったのは昨晩これが最後になるであろうベッドに身を横たえた時だった。

シーツの上に広がった青銀の束が流れるようにすべり出し、カノンはベッドへの別れを告げ、数ヶ月暮らしつづけた自分の部屋に別れを告げた。

 

静かな足取りで洗面台に向かったカノンの身体をコーヒーの香りが包み込む。普段ならそのままリビングに向かうも、この日は違った。
瞳は鋭い光を放ち、表情は未だかつて無いほど生真面目で、寝癖でボサボサの頭と対照的な姿を、洗面所の鏡に映す。
歯を磨き、冷たい水で顔をあらったカノンは、寝室から持ち出した真っ白いTシャツとジーパンを着ると、手櫛で丁寧に寝癖のついた頭髪をなでつけた。

そして鏡に映る自分の姿に満足気に頷いた。

 

聖域の双児宮で生活するようになって、数ヶ月の時が二人を通り過ぎていた。
いつも機嫌が悪い仏頂面のカノンは、外見とは裏腹にそれなりに満足した日々をすごしていた。
たとえ小さい麻呂眉の少年に馬鹿にされようと、双子座の聖衣が手にはいらなかろうと、目障りな巨大な筋肉男が双児宮に入りびたろうと、数々の不満はあったにしたが、サガとの生活がすべてを打ち消していた。

たとえほとんど口をきくことがなくても、すぐに自分を疑い体罰を加えようとも、他の男といちゃつこうとも、サガと同じ空間に存在し、その空気を感じることができるだけでカノンは満足だった。

口や態度では兄を罵倒し拒絶する素振りを見せても、カノンにはそういう風に人と、特に兄と接することしかできないから仕方ない。

罵倒する玲瓏たる声は愛の囁きのようにカノンの鼓膜を震わせ、全身を包む甘い石鹸の香りはまるで媚薬のようにカノンの鼻腔を刺激し、決して致命傷を与えないくりだされる拳も、異次元に飛ばされた時でえ、カノンはサガに包まれているかのような気持ちになった。

二人の間に無駄な会話など一切ない。必要な会話ですらない。しかしカノンは瞳にサガを映しているだけで、鏡に映すかのような、それでいて自分とはまったく違う美貌に空ろになり会話すらどうでもよくなった。

いやがらせと称して何度となくサガを困らせた時は、カノンの心と身体は異常な昂ぶりを覚えた。サガの困惑した様、うろたえた様子、激怒した表情、絶句の喘ぎ声、陰りを見せる憂いを帯びた全身を思い出しては、夜な夜な自室で昂ぶった身体を一人慰めるのが密かな楽しみでもあった。

だがしかし、自分が望んでいた生活がそこにあるのか。
現状を甘んじて受け入れ、満足するしかないのだろうか。

ゆがんだ愛情をもったカノンにも、人並みの夢はあった。

それはサガといつまでも中睦まじく暮らすことだ。いつもすぐ傍にサガがいて、自分に微笑んでくれる生活。誰も二人の間に介入することなく、お互いに求め合う生活。

しかし現実はどうであろうか。
自分が夢見ても、サガはどうであろうか。

サガはそうは望んでなかったからこそ、スニオン岬の岩牢にカノンを見捨てたのではないのか。

だがしかし、十数年間憎悪と虚空の世界で育ったサガへの劣情は、衰えることをしら益々顕著になっていた。

その愁いを帯びた頬に触れてみたい。
そのきつく結ばれた赤い唇に吸い付きたい。
その流れる青銀の糸をかき乱したい。
その神々しいオーラに包まれた身体に自分の香りを思う存分染み込ませたい。
その天の蒼い瞳に海底の蒼い瞳を焼き付けたい。

 

リビングに入ると、いつもどおりサガがモーニングコーヒーを片手に新聞を読んでいるところだった。すらっと伸びた指に挟まれた新聞ですら、カノンの嫉妬の対象となった。
唇を押し付けたコーヒーカップは、そのあまりの官能的な艶に染まり輝いているようであり、恨めしくなる。

カノンは戸口に佇みうっとりと目を細め時を忘れた。
が、普段と変わらぬ行動をとっている自分を叱責すると、深い笑みを浮かべて力強く一歩を踏み出した。

これが運命の一歩になるのだ。

 

「おはよう、サガ」

「ああ、おはよう。今日は早い・・・な。」

新聞から顔を上げずに答えたサガは反射的に答え、絶句した。新聞紙が音をたてて床に落ちる。
柳眉を寄せ振り返ったその先に、いつもと変わらぬ弟がダイニングを抜けキッチンへと消えていく。

おはよう、サガ。

はっきりと耳に残る声は、あまりにも幻聴とは程遠い。しかし、カノンは挨拶というものをしらない。とくにサガには挨拶などしたこともなかった。普段、滅多なことでは自ら話かけてくることもないのだ。

コーヒーを注ぎながら、背中に痛いほどの視線を感じたカノンは今にも口から飛び出しそうな心臓の鼓動を聞いていた。サガから見れば平静を装っているふうに見えたであろうが、実際は両手は小刻みに震えている。
サガの玲瓏な甘く響く声を耳にした途端、脳髄まで蕩けてしまっていた。

再び自分を叱咤激励しなかったら、カノンは振り返ることすら出来なかっただろう。こんなことでいちいち反応していては、今日という特別な日に特別な決心をした意味がない。

半開きの口を閉じるのも忘れ呆然と眺める姿すらも、カノンから見れば官能的で、その唇に指を這わせたい衝動にかられる。
サガは一挙一動を視線で追う。それがとうとう自分のすぐ傍まで来た時、吐息が頬にかかるほどに互いの距離は縮まっていた。
ぎしっとサガと同じだけの体重がソファにかかり、サガの青銀の髪が揺れた。
不安げに揺れる蒼い瞳を捕らえたまま、カノンは腰を曲げて新聞を拾い、そっとテーブルの上にそっと乗せた。

サガの身体が強張るのを感じ、カノンはふと視線を落とした。僅かに身体をずらせば触れることができるサガの下肢は、言いえぬ不安に震えている。

「どうした、サガ?ぼうっとして。」

業とらしく手の平を振った。
天の蒼い光は、指と指の隙間から深海を覗いていた。

「・・・、一体、何を企んでいるのだ。」

サガは低く小さな声で呟いた。カノンは業とらしく大きく溜息をつき、肩を落とす。

「なにも・・・、なにも企んでないよ。」

「嘘をつくなっ。」

「ばれた?」

満面の笑みを浮かべて顔を上げたカノンに、サガは顔を引きつらせた。
今まで何を考えているのか分からなかった弟であるが、今日ほどそれを感じたことはない。
その様子から、普段のそれとは比べ物にならないようなことを企んでいるのは明白である。
その恐ろしさに、サガは思わず打ち震えた。

「今日は、俺とサガの誕生日だろう。」

手にしたコーヒーカップをゆっくりとテーブルに乗せながら、カノンは笑みを深め、

「だからさ・・・、誕生日プレゼントをと思ってね。」

その笑みの下は、不安という恐怖に押しつぶされそうになっているのをサガは知るはずも無い。
その様子にいつもの投げやりでぶっきらぼうさは微塵も無かった。
サガが混沌とした思考の中をさ迷い、その深海の蒼に吸い込まれていった。

「世界平和。」

「世界へい・・・わ?」

混沌とした深海の中で嫌にはっきりとカノンの声を耳にし、我に返った。

「そう。世界平和。俺は誓ったんだ、もう悪さはしないと。それがサガへの誕生日プレゼントだ。ずっと考えていたんだ。サガが一番喜ぶものってなんだろうと・・・。サガは風呂以外はあまり物に執着心が無いだろう。」

と、ここでいったん言葉を切り、わざとらしく首をかしげた。その言葉の裏を、カノンの本心を探ろうとサガの思考はフル稼動する。

「だから、サガの心の負担を軽くしてやろうかなと思って、考えたんだ。本当はもっと早くにこうするべきだった。しかし、プライドが邪魔していた。もう、俺は悪さをしないと女神に誓う。それがサガへのプレゼントだ。」

「嘘だ・・・。」

サガの声は震えていた。

「嘘じゃない。本当だ。どうして信じてくれない。」

「お前はずっと私に嘘をついてきた。信じられるはずなど・・・。」

「分かってる。俺はいままでずっとサガを裏切りつづけてきた。でも今回は違う。」

「どう違うというのだ。私には、お前の言っていることは今までとなんら代わりはない。根っからの悪であるお前が、悪を捨てるなど不可能だ。確かに私は、お前が私の代わりに双児宮を守った時、期待しなかのかといえば嘘になる。だが、今のお前はどうだ。」

「違うんだよ、サガ。」

ふっと長い青銀の睫を伏せ、小さく頭を振った。サガは未だ信用できず、その一挙一動に答えを見出そうと凝視した。

「違うんだ。サガ。もちろん、俺が悪をすてきれるわけがない。それは自分が一番よくしっている。しかし、今日は誕生日だ。実は俺も欲しいものがあってな・・・、その為なら・・・。」

「・・・悪を捨てるというのか?」

そうまでして欲しいものとは、いったいなんであるのか。

サガには想像がつかなかった。世界征服をも代償にして欲しいものなど。

小さく、だが力強く頷いたカノンの顔には、この上なく残忍で邪悪な笑顔が浮かんでいた。

 


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