人心供犠

 

血を敷いたように赤いカーペットを、サガのうつろな瞳は静かに見つめていた。
たったいま意識が覚醒したばかりの彼に、目の前の状況はあまりにも衝撃的であった。
ようやく身体を自分の意思で動かせるようになったというのに、なぜそれが今なのか。

「力を使い果たしたのか……」

仮面の奥で誰に向かってでもなく低く呟いて、サガはカーペットの一点を凝視し顔を苦悶に歪めた。

身体は鉛のように重く、明らかに疲労を訴えていた。
それは黄金聖闘士同士の闘いでの緊張と、そして慣れない秘技から来ているのは明らかであった。その秘技を繰り出した主がひと時の眠りについたため、サガは数日ぶりに覚醒したのである。

サガが意識を心の中に沈めている間、もう一人の人格であるアーレスが何を行っていたのか。
その秘技の犠牲者を見なくても、サガは分かっていた。
アーレスの能力(パワー)は、サガの上を行く。彼は自分の思考や行動を意識を閉ざしたサガに自由に見せることができた。
時には残酷なまでに人を殺害する映像を見せ、あるいは身体を他者に預ける直前まで真実を隠すことも。

いまやサガの力は衰えるばかりで、アーレスのそれに確実に侵食され続けているのである。

「なぜ……、だ」

サガの喘ぐような声が教皇の間に響く。

足下に跪くアイオリアは、膝をつき顔を伏せたまま微動だにしない。
魔拳によって服従を誓わされた彼の心は硬く閉ざされ、彼の耳は今や教皇の命令しか聞くことができないのだ。
アイオリアの自由は自ら敵を打ち、その敵を死に至らしめるまで解放されることはないのである。

「アイオリア……どうして、お前は……」

戻ってきたのだ、と続くはずのサガの言葉は嗚咽に飲み込まれた。

この13年間、サガはアイオリアを十二宮から遠ざけてきた。逆賊の弟と迫害することによって、悪魔の手から守っていたのである。
ところが彼は自らの意思でその懐に飛び込んできてしまったのだ。
だがしかし、サガにはこのままアイオリアをアーレスの意のままにするつもりは毛頭なかった。
自分が覚醒した今、それをなんとしても阻止せねばならないのだ。

「面をあげよ、アイオリア」

サガの押し殺した声に、アイオリアの頭がゆっくりあがる。

まっすぐにサガを見つめる瞳には、たとえ兄が逆賊であろうと決して失われることはなかった正義の炎が消えてしまっている。まるで底の見えない沼のように暗く淀み、そこから彼本来の意思を見ることはもはや不可能だった。
アーレスが残したであろうわずかな良心すら、今はその淀みの奥で眠っているようである。

「お前は私が悪であることを日本で知ったのだったな」

「……はい」

「お前の兄、アイオロスが正義であったことも」

アイオリアが無感動のまま首を縦に振った。
まるでそんなことは自分には関係ないといった様子に、サガは美しい顔を苦痛に歪めた。
そして続く言葉は、震える咽喉に引っかかり中々発するができなかった。

「……それでも……それでもこの私に忠誠を誓うというのか」

「教皇の御心のままに」

この姿をアーレスが見たら高笑いが止まらないだろう。完璧なまでに魔拳に支配されているアイオリアの姿を。
だがしかし、仮面の下でサガの唇がこのときかすかな笑みに縁取られた。

「では、命令する。聖衣を脱ぎ、私の後についてくるがよい」

サガは静かに立ち上がった。

 

 

アイオロスの乱以来、教皇の間は暗いベールが下りていた。それは雰囲気だけではなく、まるで何かを隠すように灯りが減らされ視界を暗くしているのである。
中でも教皇の寝室は目に余るほど暗く、灯りは中央の壁にかけられた燭台一つのみで、カーテンすら朝になっても開けられることは滅多になかった。
アイオロスの反乱時、彼の手によって傷を負わされた教皇は、その偉大な癒しの能力ですら治癒できなかった傷を他者の目に触れさせたくないのだという。

その寝室のカーテンが久しぶりに開かれた。

傾き始めた太陽の光がサガの仮面を怪しげに照らし出す。
窓を背にしたサガの手がアイオリアを招くと、扉の前に佇んでいたアイオリアがまるで引っ張られるかのように豪奢なベッドを横切った。
全てを照らす太陽の明かりもその無機質な瞳に精気を再び宿すことができず、ぎこちない動きはまさに操り人形のようである。
そしてアイオリアは忠誠を示すようにサガの足元で膝を折った。

「いや、そのままでいい、アイオリア。私にそのような態度をとる必要はない」

それを制したサガがアイオリアの肩にそっと手を触れると、彼は無言のまま再び立ち上がる。

「私はずっとこの時を待っていた、いつかお前に真実を告げる日が来ると。アイオリア、お前には真実を知る権利があるのだ。日本で女神が語られたことは、その半分でしかない……」

その言葉にもまるで無関心といった風にアイオリアの瞳はサガを見つめてくる。
その姿にサガは痛まし気に眉を寄せ瞳を伏せた。

「すでに知ってのとおり、お前の兄……、アイオロスは逆賊ではなかった。むしろ彼は女神を邪悪な者――敵の手から救い出した真の聖闘士だ。お前は彼を誇りに思ってしかるべきなのだよ、アイオリア」

仮面越しの視線がアイオリアの精悍な若い肌を滑る。彼の小麦色の肌は太陽を受けて輝いているが、相変わらずその顔には感情といえるものがどこにもない。
魔拳はアイオリアの全てを束縛し、教皇に服従を誓わせているのだ。
サガはその呪縛を如何にして解こうというのか。

「その敵の正体……、いや、この教皇の正体を知ってもなお今のままでいられるか、アイオリアよ」

サガの青白い手が持ち上がりグロテスクな冠に触れると、中から輝きを放つ青銀色の巻き毛が零れ落ちた。

「お前のその手で敵を打ち、全てに終止符を打ってくれ。彼の弟であるお前のその手で――」

サガの手が優雅な動きでもって仮面の顎にかかり、その下の素顔を顕にする。
そしてサガがゆっくりと肩を引くと影に隠れた顔が日の光にさらされ、アイオリアの淀んだ瞳の中で青白い顔の輪郭が鮮明になる。
その悲痛な瞳、筋の通った鼻、小刻みに震える唇が、初めてアイオリアの顔に感情を取り戻させ、驚愕が大きな波となって彼を襲った。

「ひさしぶりだね、アイオリア。私を覚えているだろう?」

「……あなたは……サ…、ガ…ッ」

その驚きがいかにすさまじいものであったか、アイオリアがようやく搾り出した声は震えていた。

サガ――。
彼はアイオロスが謀反をおこす少し前に聖域から姿を消していた。
かつてアイオロスが謀反を起こしたその時、アイオリアはサガが兄の汚名を拭ってくれるものと信じていた。しかしサガはアイオロスの反逆を事前に知り、彼と一戦を交えて命を落としたのだという。
その噂はアイオリアの兄への憎悪をさらに深くした。

聖域から離反し女神の命を奪い自分を置き去りにした、全てを裏切ったアイオロスをアイオリアは憎んでいた。彼は心底兄を憎み、身体の中に流れている同じ血や、容姿を似せる遺伝子すら彼の憎悪の対象となった。

そのすべての原因が、教皇――サガであったとは。

アイオリアの身体を驚愕と怒りが瞬時に駆け抜けた。
四肢は怒りに震え、瞳に激しい炎がともる。

だがしかしサガはこれで魔拳の呪縛が解かれたとは思っていない。
幻朧魔皇拳とは、それくらいのことで呪縛が解けるほど甘いものではないのだ。それゆえに秘技と呼ばれているのである。

「アイオリア、お前にかけた幻朧魔皇拳は敵を打ち滅ぼすまで解かれることはない。しかし敵は日本にいる青銅聖闘士ではない。真の敵は――」

サガは口元に悲痛な笑みを浮かべ、

「もう言わなくても分かるな、アイオリア」

アイオリアに身体をゆだねるように両手を広げた。

その瞬間、息を詰まらせる音が室内に響く。
サガの手から滑り落ちた仮面が床を叩く音に獣のような唸り声が重なった。

「っ…うだ、…イ…、リア。敵は……」

サガが喘ぎ喘ぎ言った。
アイオリアの伸ばした逞しい両手に、サガの喉は締め付けられていた。
サガは美しい顔を苦悶と悲痛に歪めながら、静かに首を横に振った。

「……もっと、強く」

サガの言葉に、アイオリアは唸り声をあげながら首を絞める手に力をいれ、体重をかける。しかしサガの身体はその思いとは反対に、死に抗うように後退する。
それを追うようにアイオリアの全体重がサガの青白い首にかかる。

そしてついにサガの退路は四本柱の豪奢な寝台に阻まれ、アイオリアの押す力に任せて身体がベッドに倒れこんだ。
白いベッドカバーの上に青銀色の巻き毛が大きく広がり、その滑らかな頬に一つ、また一つと雫が零れ落ちた。
魔拳に囚われたアイオリアの瞳から、兄とそれを裏切ったサガへの思いが溢れ出たのである。

「なぜ、…う…して、兄さん……を」

「わ、わた…を、殺して、くれ。お前からすべてを、奪った私を」

サガの口から掠れた悲鳴が漏れる。アイオリアが13年間の思いをその手に込めたのである。
サガの身体は深くベッドに沈み頚骨がみしみしと悲鳴を上げ、喉はますます圧迫され呼吸を困難にしていく。

この状況の中で、サガはまるでアイオロスの手に導かれている錯覚を起こし始めていた。それはあまりにも彼がアイオロスに似ているからである。
アイオロスとアイオリア、その二人によって死に導かれるのだ。サガにとってこれほど本望なことはなかった。
この苦しみを経てようやく全てが終焉を迎えるのだ。13年という長い暗黒の呪縛からサガは解き放たれ、聖域は本来の姿を取り戻すだろう。

かつてアイオロスが果たせなかったことを彼の弟が今、果たすのである。

ようやくこのときが、終わりが来たのだとサガは瞼を閉じた。
徐々に意識が薄らいでいく。
その顔には壮絶な苦しみの中で穏やかとも言える笑みが浮かんでいた。


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