魔法の聖典

 

 礼拝は九時から始まる。
礼拝の時間に合わせて風呂に入り身を清めたサガは、まだ8時前だというのにわざわざ双児宮まで迎えにおりてきたアイオロスに連れられ、礼拝堂へと入った。
礼拝堂では既に数人の神官達が礼拝の準備を進めており、サガとアイオロスは神官から法衣を受け取ると控えの間へと向かった。

「いつ見ても似合わないな……」

 白地に金糸の刺繍が施された豪奢な法衣を着たアイオロスは、鏡の中の自分につぶやいた。
アイオロスの濃い栗毛色のくせ毛と金糸の刺繍は、彼が気にするほどミスマッチではない。むしろ見るものが見れば、感嘆のため息をもらすだろう。しかしアイオロスは、この姿があまり好きではないらしい。
法衣の高い襟が息苦しく、アイオロスは首を伸ばしたり横に回する。すると、鏡の中の自分の後ろにいたサガの姿がチラリと視界に入った。
アイオロスは鏡を前にしたままツツツと僅かに横に移動し、鏡の中のサガを見つめた。

 白地に銀糸でアイオロスの法衣と同じ刺繍が施された法衣姿のサガは、彼の青銀の長い髪、そして端正な顔と伏目がちな瞳があいまって、なんとも神秘的な雰囲気をかもし出している。
アイオロスは、思わず時を忘れてその姿を見つめた。

 やがてアイオロスは鏡の中のサガと目が合うと、頬をぱぁと赤く染め照れ笑いを浮かべた。そして、現実のサガのほうへと向きをかえ、彼にそっと手を伸ばし身体を抱き寄せた。
サガの毛髪や身体から香る石鹸の甘い官能的な香がアイオロスの鼻腔をくすぐり、頭の芯がカッと熱くなっていく。

サガは緊張と驚きに身体を強張らせると、全身でそれを感じたアイオロスは僅かに身体を放し、全てを溶かす澄んだ瞳でサガを見つめた。動揺という色を浮かべ戦慄く湖面がその瞳に映る。

「ど、どうした、アイオ……ッ」

 ようやく触れることができたサガは、アイオロスにとってもはや全てが官能でしかなかった。その震える声も、唇も、震える睫も、吐息も、そして彼を包む法衣さえも。

  高鳴る鼓動がサガの鼓膜を震るわせた。緊張に上ずり震える声をアイオロスの濡れた唇がそっと塞いだ瞬間、サガは瞳を見開いた。
何の前触れもなく抱き寄せられ 唇を奪われたサガは眉間にしわをよせ、アイオロスから逃れようと試み抵抗するが、四肢はアイオロスの両腕の中でびくとも動かない。

 角度を変えながら深く口付けを求めるアイオロスのぬらつく舌は、容赦なくサガの口腔に侵入する。歯列を押し割り、その一つ一つを確かめるように舌がすべる。サガはぞくりと体を震わせ必死で抵抗した。

サガの舌の腹を、口蓋を、アイオロスは舌先で丁寧に愛撫する。逃れようと己の口腔内を逃げ回る舌を、それを楽しむかのようにアイオロスの舌先は器用に追い掛け回し、ついにはサガの舌を絡めとった。

 サガの鼻腔から甘い息と全身から力が抜ける。がくりと膝を追った身体を支え、アイオロスは貪るように甘い溜息をもらさんとする唇を吸った。
 さらに深く求めるように抱きしめる腕に力を込める。
熱い唾液がアイオロスの舌を伝わり、サガの口腔内に流れこむ。いまや、サガの口腔内の全てをアイオロスは支配し、それは鼻腔や脳内までも侵していった。

 アイオロスの味は13年前のそれと変わっていなかった。
与えられる唾液をサガが溜飲するたびに、唇の端から飲み下せずにあふれ出し顎を伝う。
執拗なアイオロスの攻めに、空気を求めたサガの口から熱いうめき声が零れた。

 アイオロスがようやくサガの唇を解放すると、一筋の唾液の糸が線を引いた。だがなおもアイオロスは呆然とした瞳を泳がすサガの頬に片手を乗せ、

「サガ。もう自分の気持ちを抑えられない……、お前のことを愛している。ずっと前から……今も……ずっと」

再び唇を塞いだ。
それぞれの手でサガの左右の手を握り締め、アイオロスはそのままゆっくりとその身体を曲げ前身に体重をかけ、サガの体を後ろに倒す。
背後の長椅子にその背が触れると、アイオロスはサガの唇を名残惜しげに甘く噛み、そのまま首筋に唇を落した。

ぴくりと僅かに弛緩するサガの四肢を、アイオロスは目を細めて口元をほころばせた。13年という長い時間が二人の間を通りすぎようとも、体は昔のままの場所に快楽を覚えるらしい。アイオロスはそこを強く吸い上げ、舌先で弧を描くようにしながら上下に唇を動かした。

 アイオロスの腕の中でサガはつま先から髪の先まで、炎の中にいるかのように熱くなっているのを感じていた。拒もうと何度も思ったが、拒めなかった。
たとえ強くアイオロスを請い願っていても、それが許されないことをサガは分かっていた。それを願うこと自体、サガには許されない。
自分はアイオロスと同じ場所にいる人間ではない。彼と触れ合い、同じ空気を吸うことすら罪だ――と。
それを今、アイオロス自身が破ろうとしていた。

 アイオロスは丹念に首筋にキスを落としながら、一方で片腕はサガの法衣を上にたくし上げる作業に夢中になっていた。
その手が法衣の下のサガの四肢を顕わにしたとき、サガは我に返り抵抗の呻き声をあげた。アイオロスに握られた手に力を加え、声を絞り出す。

「やめろ、アイオロス!」

「いやだ」

「駄目だ。私とお前は……」

アイオロスは震えるサガの咽喉に歯をあて、更に舌を這わせる。開きかけた口からサガはくっと小さく洩らす。解放された首筋にははっきりと歯型が刻まれた。

「なぜ? サガはもう私のことが嫌いになったのか? 私はお前の傍に戻りたくて、サガと一緒に居たくて戻ってきたんだ」

真正面から澄んだ悲しい気な瞳を向けたアイオロスは、たまらず横に背けたサガの顎を優しくつかみあげ、

「サガ……、おまえとこうするために――」

 耳元に唇を当て小さく甘く囁いた。
サガの端正な顔はさらに熱を帯び朱に染まり、彼はアイオロスに潤わされた艶やかな唇を噛みしめた。

 アイオロスはサガがそれ以上口を開かないことを肯定と受けとめ、クスクスと笑う。サガが本気で嫌いならば、全力で抵抗する男だ。13年前と変わらず素直ではないサガのそういう仕草がアイオロスにはたまらなく可愛く見え、そして今も変わらず自分が知っているサガであることに安堵した。

「サガは相変わらず素直じゃないんだな」

 アイオロスはサガの横を向いた頬にキスをし、喉元の歯跡に舌を滑らせる。
そして、アイオロスの手がサガの中心へと触れると、サガは身体を震わせアイオロスを突き放そうと彼の胸に拳を突き出した。
しかし、彼の手は容赦なくサガのそれを弄び、サガの抵抗は無駄に終わった。全てを知り尽くしたアイオロスの手によって、サガの抵抗する思考と力は奪われていった。

 

 

「サガ。声をだしてくれ、……お願いだ。お前の声が、聞きたい」

 サガの屹立した肉棒から顔を上げたアイオロスの声は妙に部屋に響いた。
法衣を握り締めながらその袖をかみ締め、必死に声を押し殺しているサガの耳にもはっきりと届いていた。
しかし瞳は唇と同様に硬く閉じられ、アイオロスの動きに敏感に反応し震える身体だけが彼の声に応えていた。

「何を怯えているんだ、サガ。大丈夫、外には聞こえないから、私にお前の声を聞かせてくれ」

 アイオロスは口での愛撫を手にかえ、再びサガの固く結ばれた唇へ、法衣の袖に割り込むようにキスをする。

 固く閉ざされた礼拝堂への分厚い豪奢なレリーフが施された扉の向こうには廊下が続いており、礼拝堂にいる神官たちに中の会話が聞こえるはずもない。しかし、サガはそれでも聞かれることを恐れ、黙ったままだった。

んっ、とアイオロスに塞がれた唇の隙間から苦悶のうめき声がもれた。アイオロスの右手はサガの雫を零し始めた肉棒がきつく握っている。
サガは身体を大きく仰け反らせ、再び法衣の裾を強くかみ締めた。

「お願い、サガ。お前のその唇で私の名前を呼んでくれ。頼む……、私はお前の声を聞きたい――、私の名を呼ぶ声を聞きたんだ。お前のその口が、声が私を呼ぶのを聞きかせてくれ、お前とこの世界に共にあることを感じさせてくれ、――私に生きていると実感させてくれ」

 囁くように懇願したアイオロスの瞳から、一筋の光が頬を伝った。

 

 

 

 控えの間では4つの音が混在していた。

 アイオロスの荒い息。彼の首にかけられた三つのロザリオが、動きに合わせて不規則に絡まりあう音。彼の腰から発せられるなんとも卑猥な音。
そして、アイオロスに抱かれたサガの切ない悦楽に濡れた悲鳴だ。

 そこに5つめの音が加わった。

 何者かが控えの間の重厚な扉を叩いたのである。
サガはその音に敏感に反応し、顔を長椅子に埋め硬く唇を閉じた。

「アイオロスさま、そろそろお時間でございます」

扉の向こうから聞こえる声は酷く遠くから聞こえ、くぐもっていた。もう時刻は礼拝の15分前になろうとしている。

「分かった。すぐに行く」

アイオロスは声を張り上げ神官に答えると、

「サガ。神官はもう扉の向こうにはいない。だから。」

 神官が部屋に入ってきはしまいかという恐怖に震えているサガに、アイオロスは優しく囁くと、休めていた腰をぐいっと突き上げた。

「んあぁっ!」

サガが仰け反り、唇から甘い雫が滴り落ちた。

 部屋には再び4つの音だけが戻った。しかし、それらは先ほどよりも激しく勢いを増していた。

 サガは朦朧とする意識の中、無意識のうちにアイオロスの名を呼ぶ。アイオロスは、愉悦を含んだ呻き声をあげ一層動きを強めた。

 13年間という空白を埋めるために、アイオロスはもっとゆっくりと時間をかけるつもりだった。しかしサガに触れた途端、頭ではいけないと、もっとサガの気持ちを溶かしてやらねばと思いながらも、身体が欲望の赴くままに動いていた。
慎重すぎたのかもしれない。もっと早くにこうしていればよかったと、アイオロスは思った。
腕の中でサガは、今では昔のようにアイオロスの思うがままに身体 を震わせ、全てをアイオロスに預けていた。
サガはかつてそうしたようにアイオロスの熱を感じ、アイオロスもサガの熱を感じていた。生命を取り戻してから初めて、二人が同じ時間と思いを共有した瞬間であった。

「礼拝に行ってくるよ」

 アイオロスはサガが巻きつけた腕を、名残惜しげに解いた。アイオロスに巻きついていたサガの腕が、だらしなくずるっとアイオロスの身体を滑り落ちる。
本当なら、もう一生離したくはない――永遠にこのまま抱き合っていたいのだ。
アイオロスは乱れた法衣の裾を直しながら、ぐったりと長椅子に横たわるサガの髪を愛おしいげになでる。

涙に濡れたサガの頬に唇で触れた後、アイオロスは立ち上がった。

 扉が開かれる音を聞きながら、サガは愕然と瞳を見開き身体を震わせた。すぐそばで、アイオロス以外の人間の声が聞こえるのだ。部屋の向こう、扉のすぐ傍で神官達がアイオロスを待っていたのである。もしかしたら自分たちの淫蕩の様子を聞かれたかもしれない。サガは硬く唇を噛んで、羞恥と恐怖に身を竦めた。

 神官達は、一人で出てきたアイオロスの姿にほっと胸をなでおろした後、眉を潜めた。

「あの、サガさまは?」

「サガは具合が悪くなってな。しばらく一人にしておいてやってくれ。予定より遅れてしまって申し訳なかった、急ごう」

 アイオロスはそういうと、質問の時間を与えないで神官を引き連れて礼拝堂へと向かった。

 

 本来なら9時を知らせるはずの鈴が15分も遅れてようやく鳴り、礼拝堂を訪れていた者たちは話をやめ正面を向き、アイオロスが出てくるのを待った。
アイオロスが神官を引き連れて現れると、全身から溢れる威厳と小宇宙に感歎の声をもらす。

 アイオロスが祭壇を正面に立ったのを合図に、低い賛美歌が響く。そしてアイオロスは一礼をし、祭壇の上に置かれた分厚い、豪奢な装丁が施された聖典をめくった。
アイオロスの聖典を読む低い声が礼拝堂に響き渡ると、皆目を閉じて耳を傾けていた。

 しばらく流暢に聖典を読むアイオロスの声が礼拝堂内を支配していたが、その声が突然止まり、礼拝堂内が静寂につつまれた。

 一同は皆アイオロスに視線を向けた。
まだ、聖書は途中までしか読まれていない。
そうと分かるくらい、聖典は中途半端なところで止まっている。

「(サガ、サガ!!!)」

 途中までしか聖典を記憶していないアイオロスは、控えの間にいるサガに咄嗟にテレパシーで語り掛けた。

「(・・・・・?サガ?返事をしてくれサガ)」

「(・・・・・・・・・知らん)」

「(サガ。頼むよ、助けてくれ)」

「(・・・・・・・断る!)」

「(そんなぁ。・・・・・もしかして、怒ってるのか?)」

「(あたりまえだ、こんなところで!お前なんて、嫌いだ)」

 サガのその言葉を最後にアイオロスのテレパシーは一方的に断たれてしまった。

  礼拝堂内はシンと静まり返ったまま、アイオロスが動くのを皆が待ち続けていた。背後からざわめきが聞こえ、アイオロスは現実に引き戻される。額から冷や汗 を流しながら、一度だけわざとらしく咳払いをし、途中のままの聖典を閉じた。
十字を切って祈りを捧げると、アイオロスは聖堂内を見渡した。
しかしアイオロスは十字を 逆に切ったことすら気がつかないほど、焦っていた。

皆、その状況を呆然と見ていた。間をとるにしてはあまりにも長いのだから仕方がない。これがアイオロス流といえばそれまでなのだが。

えーと、たしか次は説教だよな・・・・と、頭をフル回転させていた。

「説教か・・・」

 アイオロスは礼拝堂に居並ぶ神官や聖闘士達に目を泳がせながら、思わず小さな声で言ってしまった。それをデスマスクが聞き逃すはずもなく、

「なんでもいいんだよ。目標とか、野望とか、心構えとか!!」

 アイオロスは壇上からデスマスクに視線を合わせると、デスマスクがニヤリと笑い、頷いた。

やがて礼拝堂内にアイオロスの声が大きく響く。

「時と場所を考えて行動しましょう。以上!解散!!」

 アイオロスがいそいそと控えの間へと戻ってく姿を、皆が呆然と立ち尽くし見送ったのは言うまでもない。

 だがしかし礼拝を終え、サガに謝罪し淫行の続きをしようと控えの間に戻ったアイオロスを待っていたのは、丁寧に畳まれた銀糸のローブと甘い残り香だけであった。

 

 そして――。

 夕方五時の礼拝に、アイオロスは再び一人で臨んでいた。

 朝の礼拝後、アイオロスは己の愚行をサガに謝り、なんとか夕方の礼拝を助けてもらうこに成功した。しかし、再び法衣姿のサガに欲情し、サガを押し倒してしまった。
だが、聖闘士に同じ技は二度も通用しない。サガはアイオロスの鳩尾に鉄拳を一撃すると、控えの間を去っていってしまった。

結局、夕方の礼拝も中途半端な聖典の朗読と説教で終わったのであった。

 

翌日。

「して、蟹よ。昨日の礼拝は如何であったか?」

シオンは教皇の執務室で、その日の執務随行者デスマスクに尋ねた。

「はい。それは素晴らしいものでした、教皇。あのような楽しい礼拝でしたら、私、毎日礼拝に参列したいものです」

「ほう。楽しい礼拝とな?」

「はい。まず礼拝が始まったのが9時15分でした。聖典の朗読など短くて良かったですよ。勝手に途中でやめてましたからね。説教も短くて、朝は『時と場所をわきまえましょう』で、夜は『後悔先に立たず』でした」

「途中だと?なぜサガは助けなかったのだ?」

 シオンは仮面の下でない眉をひそめた。アイオロスが礼拝を代行するには、サガの力を借りずには不可能であることをシオンは知っているのである。

「サガ?、ですか・・・。いえ、サガはいませんでしたよ。朝も夕もアイオロスは一人でした」

「あの馬鹿・・・。蟹よ、アイオロスを呼んで参れ。」

「は?」

「いいから、アイオロスを呼んで参れーーーーーーー!」

 その後、控えの間での淫行がばれたアイオロスは毎日礼拝に参加し、聖典を暗記するまでそれは続けられたのであった。


END