EV'RY TIME I LOOK IN YOUR EYES その1

 

 教皇シオンの命令でロドリオ村にある教会への遣いが終わったアイオロスが、村を出てから既に30分以上が経過していた。

 シオンが彼に与えた時間はたったの30分だ。
教会にて遣いを果たすのが約5分、聖域とロドリオ村間の往復に25分。
 ロドリオ村から聖域、ましてや最奥の教皇の間からの距離は常人では半日以上かかる距離である。
 しかし、光速の動きを主体とする黄金聖闘士候補のアイオロスに、それだけの時間を与える必要もなく、制限時間わずか30分という時間があたえられた。
 すでに黄金聖闘士としての素質を十分すぎるほど発揮していたアイオロスには、その30分という時間すら余裕があるはずであった。

 ロドリオ村を出て聖域領内へと入ったアイオロスは、近道をするために木々が鬱蒼と生い茂る森に入った。
それがそもそもの間違いだったらしい。彼はお約束で道に迷ったのだ。
太陽の位置で方角を確認しようにも、午後から降り出した雨と頭上を覆う木々がそれを困難にさせていた。

「困ったな……」

 土砂降りの雨の中を走っていたアイオロスは立ち止まり、呟いた。

 なんとか自分の位置を確認しようと切り立った崖の上に出てみたが、雨のせいで見晴らしが悪く、それすらも不可能である。
眼下に見える雨に打たれながら生い茂る木々は、かろうじてそれと分かるくらいの輪郭を描いている。それくらい視界が利かないほど、水のカーテンはアイオロスの道を遮っているのだ。

 来た道を戻ろうとアイオロスがきびすを返した時だった、ぐらりと視界が揺れ身体が宙に浮く。瞬間、重力のままに彼の身体は地の底へと落ちていった。
もともと弱かったうえに、水分を含みさらにその限界を超えていた土壌が、アイオロスの体重によって崩壊したらしい。

体は深い暗黒の森のなかへ吸い込まれるように、そして悲鳴は降りしきる雨の音にかき消された。

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 アイオロスは、まだ主が3人しかいない十二宮の階段をゆっくりと下りていた。
聖域の空気は、時折肌を刺すように冷たい。もうじき冬が訪れるのだ。
 しかしこの日の空気は包み込むように穏やかで暖かく、空は澄んでいた。 
 彼の脇を、爽やかな風が音を立てて吹き抜ける。アイオロスはふと立ち止まり、抜けるように蒼い空を仰ぎ見た。

 空はまるで双子座の聖闘士の瞳のように澄んでいて、美しく眩しかった。
こんな平和な空の下に、本当に聖戦などが訪れるのだろうか。
この空が血で汚れ、悲しみと絶望に淀んでいく様などアイオロスには想像することすら出来ず、胸に十字を切り、天に向って永久に変らずにあることを女神に祈る。

 その空のような瞳を持つ双子座の聖闘士サガは、自宮を出たところで足を止めた。
瞳に移っているのは、内側に秘める炎を輝かせ大地のような力強い身体を持った射手座の聖闘士アイオロスである。
真上まで登った日の光を受け、栗毛色のくせ毛が草原の草のように輝きながら風にそよぐ。

「何をやってるんだ、アイオロス」

「ああ、ずっとこのままでいられますようにって女神に祈ってたんだよ」

「こんなところで?」

 アイオロスに声をかけたサガが、そういうのも無理もない。彼が祈っていた場所は巨蟹宮と双児宮とを繋ぐ階段なのだ。

「……空がさ、あまりにも綺麗だったから…………」

 そう言って、何故か顔を真っ赤にして俯きながら、アイオロスは照れくさそうに頭をポリポリとかいた。
そして気にするなよといって、照れ隠さそうに上目遣いでサガを見ながら笑い、階段を駆け下りてサガの横をすり抜けた。彼の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。

 サガの横を通り抜けた風が大地の香を運び、サガはアイオロスを追うように振り返った。
アイオロスの訳の分からない言動ときごちなさに首を傾げたサガは、彼の背中にそれとわかるほどのはっきりとした異物を発見し、彼の後を追った。

「アイオロス、背中にゴミが……」

「あ、ああ、サンキュゥ」

 サガは走りより、アイオロスの背中についた一筋の赤い線を摘み上げた。
アイオロスの後に巻かれたバンダナの結び目から出ている赤い尻尾の片方が、それにつられてピクリと動く。
どうやら、バンダナの端がほつれてしまったらしい。糸はそこから出ているのだ。

「ああ、バンダナの糸みたいだ」

「えっ!? バンダナ!? うわっ、引っ張っちゃだめだ!!!!!!!!!」

 サガは引っぱると、アイオロスは悲鳴のような雄たけびを上げた。が、サガの手の動きのほうが、彼の制止よりも早かった。
サガが糸を最後まで引き抜くと、なんとバンダナのしっぽの部分に一筋の裂け目が走る。
 目を丸くしたサガの手の中の真っ赤な一筋の糸をみて、ああ、と情けない声を上げながら、アイオロスはがっくりと肩を落とした。
そして、頭のバンダナをそのまま外して結び目を解くと、裂けた尻尾の部分を見てさらに溜息をついた。
その瞳にはうっすらと涙すら浮かんでいた。

「あの……、ごめん。アイオロス。」

 なぜパックリとバンダナが裂けたのか、サガには分からなかった。ただ、自分が糸を引いたのが原因なのは明らかである。
そして彼があまりに落胆するので、自分がとんでもないことをしてしまったのかと、一瞬胸がつまり、罪悪感にかられたのだった。

その様子に、今度はアイオロスは慌てて気にするなといって取り繕うと、

「大丈夫だよ、また直せばいいんだから」

「また?」

「俺の縫い方が悪かったから、糸がほつれたんだ。気にしなくていいからさ」

「縫い方?」

「ああ、こないだちょっと引っ掛けて破いちゃってさ、それでね……」

「自分でなおしたのか? お前が?……冗談だろ?」

 そうだよとアイオロスが当然のように笑って応えると、サガは目を瞬かせた。目の前にいる人物が縫い物をする姿など、想像つかないのだ。
だが、実際にアイオロスは自分で針と糸を手に取り、自らバンダナの綻びをなおしているようだった。
彼がサガの目の前に広げた真っ赤なバンダナには、何箇所 もの繕いの後が見られる。そのバンダナは、あまりにも繕いすぎたせいだろうか、すでにその原型を留めていなかった。

 バンダナは、赤い布地のほつれた糸をボロボロと出しながら、同じような赤い色の糸でジグザグに荒い縫い目で繕われている。それは、アイオロスにまったく裁縫の心得がないことを示していた。

「最初切れたときはさ、家に帰って母さんになおしてもらったんだよ。でもさ、家に帰るたびに母さんが、『ボロだから捨てろ』って。だから、結局自分でなおすしかないんだよなぁ」

 よく見れば、汚いジグザグ縫いの傷の中に数箇所、布のほつれもなく丁寧に縫われた傷がある。その傷が彼の母がなおしたものなのは、誰がみても明らかだ。

 なぜそこまでしてこのバンダナにこだわるのだろうか。
サガが訊ねると、アイオロスは一瞬目をパチクリと瞬かせて意外そうな表情を見せた後、極上の笑顔を見せた。

「だって、大切な人にもらった物だからさ。まぁ、俺のお守りっていってもいいかな」

 うらやましい――。

 サガはボロボロのバンダナを見つめながら、声にださずに呟いていた。

 この無骨で不器用を絵に描いたようなアイオロスに繕い物をさせるほど大事にされ、肌身はなさずつけてもらっているほどアイオロスが大切に思われている人。
先程、天に向って祈りをささげていたのもその人の為だろう。サガは顔を真っ赤にして照れたアイオロスを思い出した。その人のことを喋る時の、この極上の笑顔。
サガはそこまで彼に思われているその人――きっと自分が知らない誰か――を、なぜだか羨ましいと思った。
自分もその人と同じくらいに、それ以上にアイオロスに思われたいという気持ちがどこかに存在するのだろうか。
彼の大切な人になりたいと。

「そんなボロをいつまでも身に付けて……、見っとも無い。さっさと捨てればいいのに……」

 自然と口をついた言葉に、サガははっとし顔をそむけた。自分はなんてことを言ってしまったのだろう。彼の大切なものを、見っとも無いとは……。
サガの胸が締め付けられたように痛み、自分でもよく分からないこの感情に戸惑った。

「捨てられるわけ……無いだろう」

 アイオロスは愛し気にバンダナを見つめて言う。サガの言ったことなど、まったく気にもとめていない。
彼は本当にバンダナを、それをくれた人を大事にしているのだ。

 サガはその手の中のバンダナを今すぐにでも奪い、燃やしてしまいたいとさえ思った。
胸に走る痛みはさらに増し、サガの顔に苦悶の色があらわれる。もうこれ以上、彼の大切な人の話をその口から聞きたくなかった。

 アイオロスはバンダナを丁寧に細長く畳むと、大切な人を思い浮かべたのだろうか、顔を真っ赤にし優しく微笑むと、小さく口を開く。

「捨てられないよ。これは、お前からもらった大切なものなんだからさ」

 苦しさに、自分でもどうして悲しいのか苦しいのか分からない苦しさに、今にも泣きそうなサガは我が耳を疑った。
聞き間違えていなければ、彼にバンダナをくれたのは自分らしいのだ。
しかし、サガにはアイオロスにそれをくれてやった記憶はなかった。

そのサガの様子にアイオロスは苦笑を浮かべる。

「やっぱり忘れてたんだ。これは、サガが俺にくれたろう?」

「……知らない。そ、そんな事、知らない。それは私じゃないよ、アイオロス」

「いや、お前だよ。ずっと前に、崖から足を踏み外して足を怪我した俺に、サガがヒーリングをしてくれただろう。覚えてない?」


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