新宿区後援・9月新宿フレンズ講演会

 人が回復するとはどういうことか 

〜家族・当事者・精神科医としてお伝えしたいこと〜  

講師 やきつべの径診療所 精神科医 夏苅郁子先生  

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 私が新宿フレンズのことを聞いたのは、娘として『わが家の母はビョーキです』を書いた漫画家の中村ユキさんからです。今日は、私も精神科医としては2割くらいで、家族4割、当事者として4割ぐらいにお話して、精神科医としての話が物足りない方は質疑応答でお答えします。

【母の話−別れと出会い】 
 母も私も1人っ子、母はもともと人付き合いが苦手で、場面緘黙といって小学校では全く人と話をしなかったそうです。勉強はよくできて、ことに読み書きは抜群で、学校に出す書類を両親に代わって母が代筆していました。
 私を出産してから結核にかかって、隔離病棟に2年間も収容されました。「子どもに会いたい」と言っても「感染するからダメ」と。この入院の経験が統合失調症を発症した後、絶対に入院は嫌だという元になりました。同じ病室の方がクリスチャンで「神様にすがってみたら」と勧められて入信。信仰は亡くなるまで続きました。
 やっと隔離病棟から退院したときには、夫婦の間は滅茶苦茶になっていました。昭和40年代の高度成長期で、父は精神科の薬も作っている製薬会社の営業マン、当時は薬は接待で売りました。父から聞いた言葉で「医者は女を抱かせると薬を買ってくれる」。父の生活も乱れて外に女性がいる殺伐とした家庭の中で、母はだんだん精神的に病んでいき、とうとう精神科病棟に2回入院しました。2回目には父は離婚を決意していて、母は退院後すぐ実家に戻され、私は父に引き取られました。
 ひどい症状を私は見ていましたから、母親とは二度と会いたくないと思っていました。私が影響を受けた中村ユキさんも「喜んで母親と一緒に暮らしていたわけじゃない。もしほかに選択肢があれば、たとえば世帯を分けて自分のために青春を使うことができたら、そっちを選んでいたかもしれない」と。この気持ちは分かります。
 私は母と10年間絶縁していました。でもある方の手助けで、「あなたはお母さんと会わないと、一生幸せになりたいと思わないんじゃないの」と言われて母と会いました。
 再会の写真では、母と私の肩がぴったりくっついています。母は「再会は神様からの贈り物」といって本当に喜びました。でも、私はまだ独身で、引き取って支えきれるだろうかという不安な思いで、写真でも全然笑っていません。

【つらかった子ども時代】
 家族会では、お子さんかご兄弟が病気である方が多いと思います。親が精神疾患の方はなかなか声を上げない。なぜなら親に頼らずに、これからの人生を自分の手で築かねばならない。そこに「親が病気」という情報は、けっして有利にはならないと思うので、子どもの立場の人は声を上げにくいのです。私はそういう方々のためにも、自分の子ども時代をお伝えしようと思います。
 少女の頃は母が怖かったです。私が中村ユキさんに「具合が悪いときにお母さんの顔はどんなふうに見えた?」と聞いたら、「般若の面みたいだった」と言いましたが、私も同じでした。社宅に父は帰って来ず、母は夜も寝ないでウロウロする。寝不足で白目が血走って、薄暗いところでは本当に口が耳元まで裂けて見えました。ほとんど掃除・洗濯をしない不衛生な生活で、私はよく感染症を起こしました。ご飯は作ってくれましたが、夫が帰ってこないので本当に手抜きで、そのうち母も食べなくなりました。母の命を繋いだのはおせんべいとコーヒーと煙草です。これだけで母は何年間も生きていました。私には8年間、来る日も来る日も同じおかずを餌のように出していました。給食だけが頼りだった感じがします。
 私は高校を卒業して、東京の女子大に入りました。英文科に入ったら周りはお嬢さんばかりで「卒業したらいい旦那さんをみつけてセレブの家庭を持って…」という話を聞いているうちに、「私は場違いだ、この人たちとは全く違う」「こんなところでのんびりしている場合か、結婚もできないだろうし、自分の手でのし上がらなくては」と思い、猛烈に勉強して医学部に入りなおしました。

【当事者そして精神科医に】
 この頃、母の面倒を見ていた祖父が亡くなりました。母は必ず私の居所を探し当てて、そのときも大学に電話をしてきました。私は母の声を聞いただけで身の毛がよだつ思いがして、ガチャンと電話を切ってしまいました。当時、父に養われていて「自分は母を見捨てた、母は孤独だろう」という罪悪感が湧いてきましたが、一方「母とはもう会いたくない」と葛藤を起こして、精神バランスを崩してしまいました。
 最初に起きたのは注視妄想といって360度、人から見られている妄想で消耗しました。この頃、父の再婚も私にとってはダメージで、父は「母のことは一切言うな」と釘を刺しました。私は新しい家庭には居場所がなくなりました。そしてリストカットなどの自傷行為、摂食障害になり、医学部5年生のときと研修医のときと2回、自殺未遂を起こしました。精神科にかかって、すごく沢山の精神薬を飲みました。


【出会いに支えられて回復へ】
 私は薬に助けてもらう状態から、人との出会いによる回復へと変っていきました。まず、私と母を再会させてくれた人です。彼女は社交的な人で、私は30歳を過ぎても人と寝泊りすることが恐ろしかったのですが、彼女の後ろにくっついていろんな人に会ったこと、人と寝泊りできたことは大きな自信になりました。
 薬を止めるときに私がやったことは、何の根拠も無いのですが「歩けば治る」というものです。睡眠薬が止められなくて、「隣の駅まで歩いてみよう、1駅歩いたら3分の1良くなる、もう1駅歩いたら3分の2良くなる」。勝手な認知行動療法みたいなものです。こうして毎日歩くことで、だんだん薬から回復していきました。
 回復していくと若い女の子ですから、「こんな私でも結婚できるかな」と思い始めました。当時私は煙草を40本吸っていましたが止めました。アルコールもガブ飲みしていましたが、それも止めて結婚できるような健康な体になろうと思いました。
 それをちゃんと見ていてくれたのが今の主人です。私には結婚して普通の家庭を持つことはすごい宝物のように思えます。結婚のときに約束したのが「どんなことがあっても我慢して家庭を大事にすること」でした。私は母が家を追い出されていく後ろ姿を見ているので、女が家を追い出される姿の悲しさは身に沁みていたのです。
 そのうち私は母親になりました。凄く怖かったのです。「病気は遺伝しないよ」と言われても、なんとなく社会通念で精神疾患イコール遺伝みたいなイメージが入っているので、子どもを持つこと自体が大変でしたし、生まれてからもどこか違うんじゃないかとか証拠探しをしてしまいます。救ってくれたのは夫の言葉で「大丈夫、そんなに考えなくても大事に育てれば、いい子になるよ」と何回も何回も言ってくれたのが、私の安定剤になりました。
 もし安定した配偶者がいなかったら、私も子どもも不安定になっていただろうと思います。そう思うと、やはり遺伝ではない、支える人がいるかどうかで変わってくると思います。いま当事者が妊娠・出産する場合のフォローはかなりあるようになりましたが、その家族、つまり子どもや兄弟が結婚し、妊娠・出産するフォローはほとんどないので、広まればいいなと思います。

【母との再会と和解】
 回復には向精神薬のお世話になりました。しかし根本的には、矛盾した言い方ですが母と10年間断絶したことです。その頃、私は10代後半から20代後半で、女性の人生にとって一番大事な時でした。その時を自分のためだけに使えたことは、ある種の「時間薬」だったと思います。
 もう1つは親以外の人が、私をまっとうに扱ってくれた。これは「人」薬だと思っています。
 3つ目には、母と再開後も物理的な距離を取れたことです。これは当事者の家族を守る大切な要素だと思っています。私が取った選択を後ろめたく思わないですむ社会になってほしいと思います。「子どもの役割を果たしていないのでは」と言われるかもしれませんが、自分の人生を優先できたから精神科医になれて、いま患者さんと家族のために働けることで許してもらえるのではないかと思っています。
 公表した後いろんな方と会いました。私がリカバリーの師匠と呼んでいるのが、亀ちゃんという統合失調症の当事者です。亀ちゃんは私の母の俳句を読んでくれて、「夏苅さんのお母さんの俳句『生か死か二つに一つ隙間風』、僕はこの句を抱きしめながら、天下の公道にでんと居座る障害者であり続けたい」そう言いました。彼は「生か死か二つに一つ」の選択で生きて来たんですね。母もそうです。「障害者でいて何が悪い」そういう覚悟でいたい。母が亡くなった後ですが、母の強さを分かった気がしました。ある方は「回復とは和解のプロセスです」と言われました。亀ちゃんを通して母の強さを知ったことが、統合失調症との本当の意味の和解であったと思います。
 今日着てきた私の服は和解の象徴です。母は洋裁が上手で、嫁入り道具の着物を解いてスーツを作りました。これは小紋の着物を作り直して母が着ていたものです。皇后様がミッチーと言われていたころで、母は美智子様の衣装をジーッと見て覚えてしまうんですね。いわゆる皇室ファッションの型紙を作って母が縫った形見です。母の病気を公表して母を惨めと思わなくなってから、この服を着ようと思うようになりました。
 家族会へ出て最初は「こんな苦労をしました、こんなひどい子ども時代でした」と話してばかりいました。人は苦労話を聞いて、同情はしても元気にはなりません。私は去年あたりからいい話とか母との楽しかったことなどを話してみたいと思うようになりました。考えたら、手先が器用でこんな洋服をパッと作るとか、きれい好きで着物をよく来ていたとか、いいところも家族会の皆さんにお伝えしたいと思いました。
 あるお坊さんが「その人の良いことを思い出してあげれば、その人は成仏できる」といいました。私のなかで母は惨めで気の毒な人と思っていましたが、母の手作りの洋服を着るようになってから、素敵な人だったと思えるようになりました。家族会には必ずこの服を着て行くようにしています。

【母の病気を公表して】
 精神科医でありながら母の病気や自分のことを公表したことで、本当に沢山の励ましを頂きましたが、批判も多かったのです。医師からの批判として、研修時代の上司からは「なんてことをするんだ」と怒られました。「自殺未遂まで公表したことは、医者はどんなことがあっても信頼される存在であるはずでしょう。医師なのにそんなことをしたことは公表すべきでなかった。」と。他の医師は公表したことは理解してくれましたが、「よく写真まで出しましたね。あなたのやったことはあなたの子どもたちに重い課題を残したのですよ」と言われました。地元医師会で私を見る目が変ったドクターもいます。「具合はどうですか」と聞かれるようになりました。
 当事者さんからの批判もありました。「あなたはいきたい大学も行けて、良い結婚もできて、社会的地位も得て、なんだかんだいっても結局しあわせじゃないですか。私たちみたいな不運な人間の気持ちなど分かるもんですか」と。実は、私は大学は国立医大をひとつだけ受けて背水の陣でした。受験会場まで3往復して、3倍やったから受かるだろうと思って臨んだくらいでした。

【アンケートで知る家族・当事者の思い】
 私は精神科医として診察中に、患者さんやそのご家族が困っていることや、診察でどんなことを工夫してほしいか、つまり精神科医のコミュニケーション能力とも言えるのですが、それを調べるためのアンケートを実施しようと思いました。
 私は母や自分のことを公表したことで、診察時に当事者さんやご家族と同じ線上で話ができて、それが学びになり、患者の立場は主治医に気兼ねして言えないことが多く、医師・患者関係を損なっていると実感しました。「公表してから先生は優しくなったね」と言われ反省しました。それまでは上から目線だったのですね。
 私はネット上にバンバン出ている医療批判でなく、どんな困難を医師との関係で抱えているか、本当の声をきちんと拾いたいと思いました。そこで、親しくしている家族会の役員さんに相談しました。すると「夏苅さん止めておきなさい。精神医療の世界ってそんな甘いものではありませんよ。せいぜい医者から袋叩きにされるのが落ちですよ」と諭されました。私は、「精神科医なのに数十年間母のことを隠してきたことへの贖罪の気持ちがあります。もう若くないので、今やらないとできないかもしれない。どうか協力してください」と頼みました。すると「そこまで覚悟があるなら協力しましょう」と、まず「持っている名刺を全部出して御覧なさい。この中でアンケートに協力してくれそうな人を選んでください」と言われました。そこから広がったのです。
 みんなねっとの理事会でも承認して下さり、コンボにも全精連にも協力いただけました。私は一町医者ですし、全国的アンケートになるとは全く思っていなかったのですが、協力の輪は広がっていきました。だからこのアンケートは、当事者・家族が自分たちの手で育てた草の根のアンケートなのです。
 私に大きな喜びを与えてくれたのが、アンケートで得た新たな出会いでした。まさしく60歳からの社会勉強になりました。その1人が、ご自身が脳性麻痺の小児科医・熊谷晋一郎先生(東大先端科学技術センター准教授)です。この方は当事者研究でも有名ですが、アンケートの回答の言語分析の研究者でもあり、膨大なアンケートの解析をどうしたらいいかのアドヴァイスを頂きました。
 びっくりしたのは、熊谷先生が1人暮らしを学生の時になさったこと。「1人暮らしを始めて困ったのは、まずトイレです。何にも手を加えていないトイレで、介助してくれる人もいなくて失禁しました。でもこう体を動かしたらうまくいくんじゃないか、ここに手すりをつけようと、いろんなことを試行錯誤するのが楽しい実験でした。1人暮らしは生まれて初めてで、世界と直接交渉する、そんなわくわくする感じがありました。それまでは世界と私の間には、いつも親が挟まっていて向こう側がよく見えない。じれったいな、そんな感じでした」。
 そして、「自立とは依存先を増やすこと。自立の反対は依存ではないのです。人間は様々なことに依存しないと本当は生きていけない。障害者とは依存先が限られてしまっている人たちのことではないでしょうか。健常者は何にも頼らず自立していて、障害者がいろんなものに頼らないと生きていけないというのは勘違いです。健常者はいろんなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できない人たちです。だから依存先を増やして1つ1つの依存度を薄くすると依存していないかのように錯覚できる。健常者というのはまさにそういうことなんです」。
 そして当事者の側で見守っておられるご家族にお伝えしたいこと。あるお父さんの質問です。「人間は目的があってこそ生きている意味があるはずだ。自分の息子は何にもせず、一日中無為に過している。その息子を見ているのが辛い。息子とは会話もなく、何を考えているかも分からない」。東洋大の白石弘巳先生の言葉をお伝えしたいです。「その人の人生の最期のときが、その人の結果となる」。
 これを読んで母の人生を思い出しました。最期を幸せに暮らすことができれば、それがその人の人生の結果となる。母は晩年3年間、躁状態で具合が悪くなったと思いましたが、句集の出版が母の生きがいだったのです。毎日無為に過してしまうことは、統合失調症の症状の1つでもあります。だから「目的が無くても生きていていいよ、と言ってもらえれば当事者さんは楽になって、もしかしたらお父さんと会話ができるかもしれませんね」とお伝えしました。
 私の回復は医者になったから、社会的地位を得たからではなく、時間を遡って手にしたものです。私は50代半ばまでは、元気の無い医者でした。診察室から患者さんが出るときに「先生、元気出してね」と言われるほどでした。50代半ばに中村ユキさんに出会ったことで、だんだん元気になってきました。そして公表によって当事者やご家族と会い、本当に地道に活動する医療者と出会いました。なぜ母は病気になったのか、なぜ父は家に帰って来なかったのか、母のカルテも取りよせてみる気になりました。カルテを調べ、母を調べる中で、アルバムの写真で叔母に預けられて可愛がられていた4歳の私と出会いました。そうか、ここが回復の原点だったんだと思いました。
 若いころは毎日死にたいと思っていました。でもここにたどり着いてやっぱりあきらめないで、生きていくことが大切なんだなと思っています。35年間医師をやっていて、担当した患者さんの自死もありました。力尽きてしまった患者さんの顔も名前も忘れられません。一生懸命活動することが、こうした方々や母への贖罪だと思っています。幾つになっても回復に締め切りは無いことを、当事者もご家族も支援者も信じていただきたいと思います。
 最後に、ご家族がアンケートに書いてくださった、非常に広い視野の医師たちへの意見です。「精神疾患は他の病気以上に、医師の日々の生活を見通す力、患者さんや家族の実態、本音を聞き出す力が求められます。若い先生方にこうした視点を意識的に学ぶ機会を与えないと、昔の先生方が持っていた基本的な人間力が継受されないのではないですか。学会であっても知的な感動だけではなくて、感情的な感動を引き起こす内容も盛り込んでいただきたい」。これは「わが身内」のことだけではなくて、医師のために言っていただいていることで凄いなと。個人的な苦しみを経て、精神医学の未来についてその人なりに尽力することが、私も含めて家族・当事者の回復の手立てではないだろうかと思います。
                                             〜了〜

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平成17年4月からの新宿フレンズホームページ「勉強会」の表示形式について

 新宿フレンズでは4月から「勉強会」ホームページの表示について、概略掲載とすることになりました。そして、「フレンズ」(新宿フレンズ会報紙)ではいままで同様、あるいはより内容を充実させて発行することにしました。これまで同様に勉強会抄録をお読みくださる方は、賛助会員になっていただけますと「フレンズ」紙面版が送られますので、そちらでお読みできます。
どうぞ、この機会に是非賛助会員になっていただけますよう、お願い申し上げます。

賛助会員になる方法        

 
新宿フレンズへのお誘い 

 新宿フレンズでは毎月第2土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは勉強会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。
入会方法 


編集後記 
 今月のフレンズはなんと18ページなってしまった。恐らくフレンズ史上最大であろう。テープ起こし担当のK氏にお疲れ様と言いたい。その内容とはやきつべの途診療所・夏刈郁子さんである。かつてリストカットもあった人とはとても思えないほどの流暢な話で講義は進んだ。

 夏刈郁子さんは中村ユキさんの「わが家の母はビョウキです」を読んで開眼したという。一冊のマンガが一人の精神科医を世に送り出した奇跡とでもいうべき出来事であったと思う。「わが家の母は・・」の作成に当たって、ゲラ原稿を見せられた者としても、この上ない喜びである。

 熊谷晋一郎氏とは高田馬場にある発達・精神サポートネットワークの理事会で同席している。常に冷静な意見を述べられているが、それでいて核心をついてくる意見にはハッとさせられる。絶えず障害者の側に立って、代弁するような意見には脱帽する。

 白石弘巳先生の話題もあった。私の息子が発症した20年以上前に私は白石先生と出会い、何度か新宿フレンズの講演でもお世話になっている。柔らかい口調でお話をする先生の言葉は、確かな教えとして耳に残っている。

 夏刈さんは最後で「やっぱり諦めないで、生きていくことが大切なんだ」と述べている。先生自らが体験した精神の病。だからこそ説得力があり、聴く者にうなずきが生まれるのであろう。お話の中にあった小紋のスーツ。この日も着て出席された。お母さんの自信作だという。そして過去の話をするとき、「こんな惨めな生活でした」はやめて、これからは「こんないいところがあった」と話をまとめる、そうな。                                   

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新宿家族会 E-mail: frenz@big.or.jp