新宿区後援・1月新宿フレンズ講演会

イキイキ働く―「やどかりの里」で  

講師 公益社団法人「やどかりの里」常務理事 増田一世先生


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 今日は、「やどかりの里」の中でも、とりわけ、「働く」ことを中心にお話いたします。
 私は1978年、大学を卒業してすぐ「やどかりの里」の研修生になりました。当時は精神衛生法の時代で,、当事者さんたちが退院して地域で暮らすことを支える精神衛生法法律や制度もがなかった時代で、「やどかりの里」は1990年に社会復帰施設を開設するまで何も公的な支援がありませんでした。東京都は作業所の制度がいち早くできて小規模作業所が増えた時代でしたが、荒川一つ越えた埼玉県の「やどかりの里」は、常に財政の危機の中で,存続に頭を悩ませていました。

私が働き始めた時の「やどかりの里」は一軒家で、6畳の茶の間と4畳半を事務所にして台所と風呂場、隣にちょっと離れたところに、10畳2間のプレハブがありました。渡り廊下は簀の子だったので常にストッキングが破れ、ストッキングとハイヒールで通勤する憧れの職場からは縁遠い環境でした。先輩たちは「全国に先駆けて大事なことに取り組んでいるんだ」という気概を持っていたと思います。そんな先輩の足元にも及ばないと思いながら仕事をしていました。

【働き方を模索した無認可の時代】
 第一期の「やどかりの里」は1969年に病院からの退院者へのとの中間宿舎の形で始まります。その後退院者のアフターケアとして活動はできないと病院長から言われ,1970年にやどかりの里の活動がスタートします。.生活のしづらさを抱えた方々を患者ではなく生活者として、その人らしい生活ができるように受け入れて行こうという場でした。74年には宿舎は廃止、地域での仲間づくりを「憩いの家」の機能を中心に支え合いの活動をしてきました。

 当初から「働く」ことは大事に考えていましたが、事業は何度も頓挫してきました。「まずはコミュニケーションを上手に取れて、対人関係を学べるように」と思っていたので、グループ活動や企業に働きに行っていましたが、そういった作業訓練に馴染めない人がいました。当事者のご家族で「茶の間のおばさん」と呼ばれていた50代の方が、そういう人のために自宅の一室を作業場にして、荷札の紐通しなどの内職の仕事を貰ってきました。その後「やどかりの里」に合流しました。
 精神障害者に厳しい時代は長く続き、いつになったら制度に基づく事業ができるようになるのか全く見えませんでした。「やどかりの里」に来る人は多かったのですが、何しろお金が入る目処がない。どうやって存続させるか。障害者基本法も精神障害が入っていないし、精神衛生法では「やどかりの里」のようなところは認められていない時代がとても長かったのです。

【印刷事業への芽生えと頓挫】
 
1978年〜89年は、働くことの多様な価値を認めて、メンバーたちと働ける企業の設立を目指した第3期です。
「それなら自立工場を作ろう」という先輩たちの発想で作ったのが印刷事業です。借金して印刷機を買い、印刷機を購入して当事者とボランティア2人で印刷所を始めたのが、初期の「働く」という取り組みでした。印刷は印刷する媒体がないと仕事になりません。自立工場を作るという心意気は良かったのですが、なかなか営業もできず、1年で頓挫し成功しませんでした。
 でも、その時の「印刷をやろう、出版をやろう」ということが、20年位経って、やどかり情報館という福祉工場に流れていくわけですから、物も人もお金も不自由な時代にも芽生えがあったのですね。
 1987年に精神保健法ができました。「やどかりの里」を作ってきた故谷中輝雄さんが、「ここで新しい法律ができなければ、日本の福祉も発展しないし、やどかりの里の明日もない」と努力をされたのです。法律が変わって、精神障害者復帰施設が認められるようになり、初めて通所授産施設と、援護寮を作りました。これが「やどかりの里」の最初の拠点になります。
 今は家族の方々はとても変わりました。病棟転換型居住系施設の街頭署名募金も、こころの健康政策構想実現会議の署名集めも、家族も表に立って活動するようになりました。家族会の運動も「やどかりの里」にとっては隔世の感があります。

【持っている力を発揮する場を】
 1990年以来「やどかりの里」は、日中活動の場となる小さい作業所を地域に点在させる方針に変わりました。初めて認可の社会復帰施設ができた時に、私は正式職員として雇ってもらいました。それまでは非常勤で働き方は常勤並み、当時はそれが当たり前で、私の周りも自分も働く労働者としての待遇など一切考えなかったなと思います。その頃に始めた事業が印刷・出版・編集の仕事です。
 私は福祉系の大学を出たので、「一人前のソーシャルワーカーになりたい」という気持ちで「やどかりの里」に住み込んで働き始めたのですが、爽風会というグループ活動でグループソーシャルワークをやりながら、出版・編集の仕事を続けて、「記録のない実践は実践にあらず」と「やどかりの里」の記録を本にしてきました。
 ここには「やどかり研究所」という事業もあります。人員が一番多くて20人くらいの仲間が、出版や印刷、研修の仕事、ピアサポート事業をしています。それ以外に、いずれ企業で働きたい人向けの就労移行サポートや、2年前からB型としての「やどかり農園」も取り組んでいます。
 そういうみんなで作った社会復帰施設「やどかりの里」は、みんながそこに集まり、ほっと安心して、もともと持っていた自分の力を発揮できるところを目指しています。「〇〇ができる」も大切ですが、精神障害で力を発揮できなかったり、あるいはいろんなことを我慢したり、あきらめたりして、自分の持っている力を忘れてしまう。たとえ障害があろうと元々持っている力を発揮する、それが「やどかりの里」の一番大事なことだと思います。
 「やどかりの里」の面白いところは、必ず節目に本にしています。「就労の実践があったら本にしちゃおう」というのが、「やどかりの里」の特徴で、いろいろな人の話が本になっています。

【口にした希望、支える仲間】
 
「やどかりの里」は長期入院者も受け入れています。Kさんは36年間も入院していましたが、10数年前に退院しました。Kさんは病院の中では問題児で、内職や院内作業が大嫌いだったようです。退院後「あゆみ舎」という作業所に来ても、近くの公園に行ってギターを弾いて過ごしていました。職員が困ってKさんに聞いたら、「僕は内職の仕事は嫌なんだよ。でも皆のまかないの仕事ならできるかもしれない」と言って、病院の喫茶店でマスターをしていた経験を生かして昼ご飯を作り、コーヒーを淹れたりサンドイッチを作る仕事をするようになりました。
 「あゆみ舎」を立ち退くことになってり,更地にして返すことになり、今後の話し合いをしている時に、Kさんが「僕は本物の喫茶店をやりたい」と言ったのです。喫茶店に良さそうな物件はあったものの造作に600万円もかかる、とても捻出できないという話になりました。ところが仲間の一人が、「Kさんの夢を叶えようじゃないか」と言い、それをきっかけに喫茶店「ルポーズ」の話がトントンと進みました。Kさんはマスターとして赤い蝶ネクタイをしてカウンターに立ってコーヒーを淹れていましたが、数年後に歳を取って引退、その後も次々とマスターが生まれて今も続いています。
 「やどかり情報館」も最初のメンバーは引退しましたが、その人たちがいて、今の場があるわけです。Kさんのように「こうしたい」という希望や願いをぽつんと口にしてくれる人がいて、「一緒にやろう」という仲間がいて、後押しされた若い職員が、「よし、みんなでやろう」と働く場を作っていく。
 喫茶店「ルポーズ」を引退したKさんは、老後も「やどかりの里」含め、それ以外のいろんな人とも繋がっています。「人の力を借りる力」で、老後も独りぼっちではありません。30数年間病院で過ごしたことは残念なことだったでしょうが、今のKさんは孤立している人よりもずっと幸せではないかと思います。
 Kさんは、キューポラの街川口で働いていました。本当に過酷な労働で「働いて働いて倒れこんで、気づいたら精神病院の中だった」と、自分の範囲を越えて働いてしまったので病気になった、という実感を持っているそうです。働くことは大事なことで、得るもの、学ぶことは山のようにあります。一方では、厳しい労働環境が発症の原因になっていくので、「やどかりの里」の人たちの経験を企業にフィードバックすることが大事ではないかと思います。Kさんの経験を通して、いろいろなことを考えさせられます。

【働いて自信を取り戻す
 各種の軽作業をしている「あゆみ舎」と、ハンドクラフト商品を作る「すてあーず」はB型作業所です。
 Aさんは国家公務員になるための専門学校を出て就職したものの発症。実家に戻り、2年間引きこもって社会と接触のない暮らしをしていました。彼には返済しなければならない奨学金があり、お金がないし親にも負担なのでアルバイトをしますが、久しぶりの仕事でパニックになって数日でダウン。主治医から「障害年金を受けて、作業所でぼちぼち働きなさい」と言ってもらいました。
 これがAさんにとっては大きな転機でした。「やどかりの里」に来た当時は誰ともしゃべらず、週に1回黙々と作業所に通っていただけでした。作業所のミーティングに参加して「こういう場もあるのか」と思い、施設長が変わって司会は順番でやることになって彼も体験し、人とのコミュニケーションが楽しく思えたようです。Aさんはもともと活発だったのに、初めて就職してダメになって自信を喪失していたわけです。
 「すてあーず」は工賃が安いものの、Aさんにとってはお金に換え得られない回復の機会となりました。数年かけて自分を取り戻し、合わせて「あゆみ舎」でパソコンの解体の仕事も始めます。そして彼は2か所の施設長から「ピアサポーターとして働いては」という推薦を受け、今、やどかり情報館のピアサポート事業部に入ってもらって1年が経過しました。
 最初は、「B型の利用者として働くのと、サポーターとして働くのと、どうふうに違うのか良くわからなかった」と言っていましたが、1年位経って「リサイクルの仕事は正しい答えは1つしかない、その正しい答えを分かるように伝える。皮細工の仕事はいろんなやり方があり、その人にとって一番良いやり方をすることが大事、それを伝えたい」とピアの役割を話していました。

【互いに励まし合い、学び合う関係】
 
「エンジュ」は、1997年に活動を始めた給食事業で、立派な設備が整っており、60人くらいの人が登録しています。基本は昼と夜の2食、管理栄養士が栄養計算をした、高齢者へのお弁当を作っています。
 もうすぐ50歳になるBさんは、19歳で発症して25歳くらいで「やどかりの里」に来ました。彼は一般就労したい、親から独立したいという2つの望みを持っていました。ちょっと吃音障害があり、手際のよいタイプではないため仕事を覚えるのに沢山時間がかかります。「エンジュ」で働き始めた当初は、しょっちゅう寝坊して遅刻していたそうです。一般就労を目的に自分の向き不向きを考えてきて、最近はお母さんと一緒に、一人暮らしやどんな仕事を希望しているのかをみんなの前で話してくれるようになりました。
 Bさんは「やどかりの里」のチャレンジハウスというグループホームで一人暮らしの準備をしてきました。「エンジュ」の職員だけではなく、生活支援センターの職員など、いろんな立場の人が彼を応援しています。応援団は多いほうが良い。私は就労を目指す人の面接では「ここにいるみんなはあなたの応援団だから、その力を一杯使うように」と話をします。専門家同士は役割分担して、家族も十分大事な応援団です。
 Bさんは給金の高い情報館で働きたかったのですが、パソコンを道具とするので彼にはハードルが高かったのです。「障害年金と給金で暮らしたいから、エンジュでもっと稼げるようになりたい」と職員に訴えたそうで、職員は彼ができる仕事を増やそうと「エンジュ」の受付の仕事を覚えてもらうことにしました。何回も何回も説明を聞きながら、人より多く手間をかけて最終的には自分の仕事にしていきました。吃音のため電話に出るのが難しいのでトイレで発声練習をして仕事につく。その陰の努力に職員も励まされたとのことです。お互いに励まし励まされる形で職員も成長するし、当事者も成長し自信をつけていきます。彼は今の仕事に誇りをもっているし、一人暮らしもチャレンジハウスを利用して住処として慣れ親しんでいきました。

【私達すべての人の権利】
 
カナダのメンタヘルス協会に行った時に、「住居」「収入」「教育」「仕事」は人間のベーシックなものという考えを示されました。
 しかし、日本の住居政策はとても乏しいです。例えば、「障害者に家賃補助3万円」を出せば、親と一緒に暮らしている人は自立しやすくなります。あるいは、県営住宅を建てるなら、「8割は高齢者と障害者向け」となれば、ずいぶん違うと思います。
 「収入」は、障害年金が基本です。2級で約64000円では生活できません。でも、これに家賃補助が3万円加わって、さらに医療費がプラスになったと思ってください。独り暮らしも可能です。お金の問題はすごく大きい。「やどかりの里」が行った調査では,障害者の基本的な収入の調査では40代で家族と同居している場合、親御さんの老齢年金で暮らしている人がとても多く、「親が亡くなったら…」という不安を抱えています。日本は収入や住居、仕事、教育という人間の基盤になる社会保障が一番グズグズ。生活保護も基準が下がっているので、本当にみなしんどいです。
 「やどかりの里」などの障害者サービスは、家族や友人とともに、その人を支えるネットワークの1つであり、当事者同士のグループや仲間も構成員であり、他にも誰でも使える一般的なサービス、例えば、公民館の講座も、図書館やスポーツなども、障害者が参加しやすくなるように整えていくことが大事なのです。
 障害者権利条約は、2006年に国連でできた国際条約です。「Nothing about us without us!」という言葉を覚えておいてください。権利条約は障害者本人が「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と主張しながら作ったものです。家族も「家族の考え抜きに家族のことを決めないで」と思うでしょう。国の政策も、自治体の政策も、あるいは作業所の運営も、主役は当事者なのだから、当事者の声を抜きに決めてはいけない。みなさんが関わっている作業所がそうなっているかどうか。日本の政策では、必ずしもそうなっていない。精神障害者の声を聞いて、精神保健福祉法が作られていると言える思えるでしょうか?
 この障害者権利条約から、「障害の考え方」が変わり、日本の法律にも反映されて、障害者基本法は大きく変わりました。例えば、車椅子で建物に入ることに支障があれば、障害者の問題ではなく、建物に問題があるという考え方です。
 「他の者との平等を基礎として」というのは、権利条約50条にわたって、35回も出ています。「他の者との平等」というのは「やどかりの里」では「当たり前の生活を求めて」です。これは障害があっても同じ世代の人と同じような生活ができるようにという意味合いで、障害のある人に特別な要求をしているわけではないのです。合理的配慮をしないことが差別であり、障害者差別解消法が一昨年の4月に施行されて、そこにも「合理的配慮がないのは差別」となりました。しかし、この法律には抜け道があり、すべての企業が合理的配慮をしているかというと、そうなっていない現状があります。
 私たち家族や周りの人に求められていることは、障害のある人の力を信じることだと思います。「やどかり出版」では、障害のある人たちの体験、地域の実践,人々の実践を、本の形で社会に発信しています。みなさんにも「やどかり出版」の本を手にして、新たな社会のあり方を考えるきっかけをつくって頂きたいと願っています。
                                         〜了〜

平成17年4月からの新宿フレンズホームページ「勉強会」の表示形式について

 新宿フレンズでは4月から「勉強会」ホームページの表示について、概略掲載とすることになりました。そして、「フレンズ」(新宿フレンズ会報紙)ではいままで同様、あるいはより内容を充実させて発行することにしました。これまで同様に勉強会抄録をお読みくださる方は、賛助会員になっていただけますと「フレンズ」紙面版が送られますので、そちらでお読みできます。
どうぞ、この機会に是非賛助会員になっていただけますよう、お願い申し上げます。

賛助会員になる方法        

 
新宿フレンズへのお誘い 

 新宿フレンズでは毎月第2土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは勉強会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。
入会方法 


編集後記 
 悍(おぞ)ましいと表現するにふさわしい雪景色である。三人の死者まで出た北陸豪雪、十時間に及ぶ千五百台の車が立ち往生した。オリンピックの新記録と同様、競い合うように自然災害の記録が毎年更新されている。

 さて、新年最初の講演はやどかりの里・常務理事である増田一世さんにお願いした。1969年、やどかりの里はスタートした。増田さんの言われるように、当時は国の補助もなく、世間の目も厳しい時代であった。1978年、増田さんがやどかりの里に就職する。先輩たちの「大事なことに取り組んでいる」という気概に自らを奮い立たせ、今日まで精神障害者のために頑張って来られた。

 講演ではそんなやどかりの里の歴史と精神障害者施設としてのコンセプトを述べられた。「他の者との平等を」から「当たり前の生活」となり、合理的配慮をしないことが差別となっていると語気を強めて述べている。まだまだ日本の福祉は理想には程遠いものがある。

 そんな時、新宿フレンズでは「精神科特例撤廃」のキャンペーンを張っている。精神科特例、簡単に説明すれば日本の医療のなかで、精神科だけが医師の数、看護師の数等がほかの科に比べて少なくても良しとするものだ。昨年九月に講演をお願いした「みんなねっと」編集長・野村忠良さんからアドバイスを頂いてスタートした。最近、長野県から、あるいは千葉県から、将又某大学から署名文が郵送されてきている。受け取る度に涙が出る想いである。紙面を借りてお礼を申し上げたい。 

 末筆ながら小生が新宿区障害者団体連絡協議会・井口会長より家族会活動に寄与したことに賞状が贈られたことも報告させてもらう。                         

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新宿家族会 E-mail: frenz@big.or.jp