最終更新日:2006.1.16
展示車両



展示されているのは、歴史的にも価値のある貴重な車両ばかりです。より多くの人々に鉄道に親しんでいただき、また後世に鉄道文化遺産を守り伝えていくため、訪問された方にはくれぐれも良識ある行動をお願いいたします。




鉄道車両屋外展示スペース
全25形式26両


[EF63 1]
1962年(昭和37年)5月製造
EF63形は、横川〜軽井沢間の66.7パーミル(1000分の66.7)の急こう配を粘着運転するために当時の技術力を結集して開発された碓氷峠専用の電気機関車です。
急こう配の安全対策として、通常のブレーキのほか発電ブレーキ、電滋吸着ブレーキ等を備え、さらに過速度検知装置(OSR)、電機子分路再粘着装置等、他の機関車には見られない装置を備えた機関車です。運転整備重量108t軸重18t。旧国鉄時代の機関車としては最大軸重です。
軽井沢方の連結器は、電車とも連結可能な双頭連結器及び電気ジャンパー連結器を備えています。
横川〜軽井沢間を通過する全ての列車は、このEF63形の力を借りなければ運転が出来ませんでした。EF63形は2両ペアーで重連運用され、上り列車下り列車ともに横川寄りに連結されました。ですから、横川から軽井沢に向かう下り列車(峠を登る)では列車の最後尾に連結されたわけです。
電車の場合も例外なくEF63形が連結されたため、電車と電気機関車が連結して峠を登り降りするという珍しい光景が展開されました。また、EF63形と協調運転可能な電車の場合、EF63形から電車が制御されるという、他線区では類をみない運転方式がとられました。
「峠のシェルパ」とあだ名され、独特の力強いスタイルや走行音が多くの人々を魅了しました。
新製時の茶色塗装に復元してあります。1号機は、2号機以降の量産機と比較して、前面の窓回りやスカート、屋根、台車等が一部異なっています。


[EF62 1]
1962年(昭和37年)5月製造
EF62形は、信越本線の長野までの電化に備え、上野〜長野間のけん引用高性能機関車として昭和37年に開発されました。この機関車とEF63形の登場により、横川〜軽井沢間のアプト式運転は粘着運転にかわり、碓氷峠専用のアプト式電気機関車ED42形は引退しました。
この機関車は、EF63形との碓氷峠走行中の協調を図るため、引張力、速度性能等を一致させてあります。線路路盤の弱い信越本線で使用するため、軽量化に主眼において設計された結果、独特な構造の台車、屋根上の一部がFRP(強化プラスチック)で構成されるなどの特徴を持っています。EF63と同様に、碓氷峠の登坂、降坂に拘わる数々の特殊装備を持っています。
横川〜軽井沢間を通過する客車列車及び貨物列車はこの機関車とEF63形の組合わせでなければなりませんでした。
碓氷峠で共に走ったEF63形の無骨な男性的スタイルとは対照的に、優美な女性的スタイルを誇る電気機関車です。
新製時の茶色塗装に復元してあります。
1号機は、2号機以降の量産機と比較して、車体側面や屋根等が一部異なっています。

[EF53 2]
1932年(昭和7年)5月製造
EF53形は、純日本的形態を持つ戦前の標準的な電気機関車で、昭和7年から19両製造され東海道線の特急客車、御召列車の運転等活躍していました。その後、高崎線の電化とともに高崎第二機関区に移動し、上野〜高崎〜横川間の旅客列車のけん引を行っていました。
1963年(昭和38年)、全機がEF59形に改造されて補機として活躍しました。
展示のEF53 2号機は1987年(昭和62年)にEF59 11号機から復元改造されたものです。



[EF59 1]
1932年(昭和7年)12月製造
1963年(昭和38年)改造
EF59形は、山陽線の電化に伴い、瀬野〜八本松間の急こう配用後押し機関車として昭和38年からEF53形を改造、EF59形とした1号機です。前面の黄色と黒のストライプの警戒塗装が特殊用途を物語っています。
この区間は上り列車方向に一方的に上る勾配で、補機を必要とする列車の最後尾に連結されました。勾配区間を過ぎると、走行中に連結を自動開放する装備も持っています。
現在は後継のEF67にその座をゆずり、1984年(昭和59年)に現役を引退しました。

[EF15 165]
1958年(昭和33年)7月製造
EF15形は、戦後の貨物用標準電気機関車として大量に増備された、昭和の物流を支えた名機です。直流区間のほとんどに足跡を残しています。東海道線を中心に活躍、高崎線の貨物列車及び上越線の客車列車のけん引も行った機関車です。
この165号は晩年、高崎に所属し、高崎線、上越線、両毛線、吾妻線などで活躍しました。


[EF58 172]
1958年(昭和33年)3月製造
EF58形は、戦後の日本の電気機関車を代表する旅客用機関車で、貨物用のEF15とともに大量に装備されました。東海道・山陽本線の特急列車のけん引も行っていました。その後、高崎・上越線の急行列車の運転にも使用され、平坦直流区間ではほとんどの線区で見られた馴染みの深い機関車です。初期製造車両は戦前の電気機関車と同じようなスタイルで登場しましたが、後に現在の流線型のスタイルになり、人々に新鮮な感動を与えました。
この172号は宇都宮に所属し、東北、高崎線で活躍し、昭和天皇のお召列車の先頭に立ったこともありました。縁取りを銀にする、お化粧塗装は、お召列車牽引当時を再現しています。


[EF60 501]
1963年(昭和38年)10月製造
EF60形500番台は、東海道・山陽・九州ブルートレインのけん引用電気機関車として、貨物用であったEF60形を旅客用に変更設計した機関車でP型と呼ばれ、EF65形 500番台が登場するまで活躍していました。
その後、貨物列車のけん引に転用され、高崎線でも使用されていましたが、昭和60年高崎第二機関区40周年の際には、当初のブルートレイン塗色に戻され、高崎・両毛線で運転を行いました。
他の高性能機関車とは異なった優美な側面デザインがブルートレイン塗色にマッチしており人気が高い機関車でした。

[EF65 520]
1966年(昭和41年)3月製造
EF65形500番台F型は、重量1000トンの高速貨物列車を東海道・山陽線で100km/h牽引するために、EF65形をベースとして製造されたものです。応速度増圧ブレーキ装置、電磁ブレーキ指令装置、重連総括制御装置、ブレーキ管及び元空気ダメ引通し管内蔵の密着自動連結器等を装備しており、総数17両が製造されました。高速貨物列車牽引時には重連で使用されることも多くありました。ブルートレイン牽引にも充当されたことがあります。近年は首都圏で貨物列車牽引に活躍していましたが、廃車が進行し残存機は残り2両となりました。
520号機はつらら切り用ひさし等の耐寒装備を持ち、最後までオリジナルの特急色のままで活躍したため、鉄道ファンの間で人気が高かった機関車です。保存を望む鉄道ファンの声に応えて2003年2月4日、展示車両に仲間入りしました。


[EF70 1001]
1964年(昭和39年)6月製造
EF70形は、田村以北(現在は長浜)が交流によって電化された北陸本線で、重量列車を牽引するために製造された交流電気機関車です。北陸トンネル付近でのけん引力を補うために交流電気機関車としては珍しく6軸の動輪が採用されました。他の交流電気機関車の場合は動輪4軸が主流です。
この1000番台は、北陸線の高速貨物・寝台特急客車を牽引するために改造され、高速から安定してブレーキが掛けられる装置をもっていました。1001号機は、1968年に22号機より改造されました。
末期は、京阪神圏の直流から北陸圏の交流へ直通出来る交直両用のEF81型にその座を譲り一部が九州地区へ移動しましたが、ほどなく全機引退しました。
北陸線沿線以外ではほとんど馴染みがない機関車ですが、これも歴史的価値が高いものです。


[EF30 20]
1968年(昭和43年)10月製造
EF30形は、山陽線の下関〜門司間の関門トンネル用に開発された交直両用の電気機関車で、海底トンネル漏水に伴う腐食対策として外板がステンレスで作られた珍しい機関車です。
現在は、後継機である交直両用のEF81 300番台 400番台のその座を譲りました。
使用用途が関門トンネル専用であった機関車であり、群馬県では馴染みのない機関車ですが、電気機関車としては歴史的価値の高いものです。


[EF80 63]
1967年(昭和42年)2月製造
EF80形は、取手以北が交流によって電化された常磐線の直通運転用の製造された交直両用電気機関車で、1台車1電動機を採用しています。貨物・旅客両用で、ブルートレインから貨物列車まで、万能機ぶりをいかんなく発揮し、常磐・水戸線で使用されていました。
63号はこの形式の最終番号で、臨時列車で両毛線でも運転されたことのある機関車です。
EF80形の実績を踏まえて、現在も地方電化区間の主力を務めるEF81形が開発されました。


[DD51 1]
1962年(昭和37年)3月製造
DD51形は、非電化区間の無煙化のため開発された客貨両用の本線用液体式ディーゼル機関車で、エンジン2台を搭載した純国産の大型機関車です。本線用の大型機関車として始めて凸型車体が採用されました。現在でもJRの非電化各線の第一線で活躍中です。
展示されているのは、この形式の1号機であり奥羽本線で活躍、他のDD51形と違ってこの機関車だけが運転室が丸みを帯びているのが特徴です。塗装は登場当時のものになっています。

[DD53 1]
1965年(昭和40年)1月 汽車会社製造
DD53形ロータリー式除雪用ディーゼル機関車の1号機です。線路上の雪を前頭部のフランジャでかき集め、前頭部に口を空けるかき寄せ羽根車で吸いこみ、前頭部運転台の後部側面の投雪案内筒より投雪する仕組みです。1号機は長岡に配置され、その後、北海道地区などで使用されました。
DD51形と同形のエンジン2台を積み、除雪用と走行用で使い分け自走しながらの除雪が可能ですが、2台共に除雪に使用する際は他の機関車による後押しが必要でした。
全部で3両が製造されましたが、前部運転室がかき寄せ羽根車の上にある形態では投雪の監視が十分にできないため2号機と3号機は前部運転室を投雪案内筒の後ろに移設する改造が行われました。この改造が行われなかった1号機は、DD53特有のロボットのような迫力満点の前部形状を保っています。
除雪能力は10,000〜14,000t/h。

[ソ300]
1966年(昭和41年)製造
橋桁架設用操重車です。自重約154トン、扱荷重35トン。ディーゼル機関を搭載し自走も可能。
JR東日本に2両(ソ300、ソ301)配備されていたうちの1両です。

[キニ58 1]
1963年(昭和38年)製造
キニ58形は、荷物専用気動車でキハ58形から改造されました。非電化区間の荷物輸送に活躍しました。


[キハ35 901]
1963年(昭和38年)4月製造
キハ35形は、気動車では最初のオールロングシート・3ドアー・両開き扉を採用した通勤用気動車として開発されました。昭和38年から10両制作された900番台は、ステンレス綱を使用した最初の気動車です。ステンレス鋼は、強度もあり、腐食にも強く、車両の軽量化にも利点があります。当初、千葉県内で使用されていましたがその後八高線で使用された車両です。


[キハ20 467]
1962年(昭和37年)3月製造
キハ20形は、非電化区間のローカル用気動車として全国で活躍しました。高崎周辺では、足尾線、八高線、電化する前の両毛線、吾妻(旧長野原線)でも運転されていました。

[スニ30 8]
1927年(昭和2年)5月製造
昭和2年に製造された鋼製荷物車の標準形で、長さ17mの二重屋根の珍しい車両です。その後、スニ36形、スニ30形と形式名を変え、国鉄の荷物輸送の廃止によりその役目を終え、事故復旧用としてスエ30形となりました。 文化むらでの展示にあたり、スニ30に復元されました。

[マイネ40 11]
1948年(昭和23年)7月製造
マイネ40形は、戦後進駐軍の要請により、当時の国鉄客車としては豪華な寝台用客車として誕生しました。車両は、室内が豪華であるばかりでなく、空調装置等も備え、車両形状も大陸風となっています。その後、東海道線の夜行急行の寝台車となり運転されていましたが、ブルートレインの増大によりその役目も終え、工事用宿泊車として改造されてオヤ41形になりました。 文化むらでの展示にあたり、マイネ40に復元されました。

[オハユニ61 107]
1921年(大正10年)製造
1955年(昭和30年)改造
当初木造客車として新造されましたが、昭和30年に車体の鋼体化改造が行われ、普通客室・荷物室・郵便室のある合造車オハユニ61形になり、主にローカル線で使用されました。



[ナハフ11 1]
1957年(昭和32年)5月製造
ナハフ11形は、急行用軽量構造客車として製造されたグループの車掌室付きの客車で、東海道・山陽・九州方面行きの急行列車を中心に活躍、信越・上越線の急行列車にも使用されました。車体は鋼体から内張りまで金属製に変わり蛍光灯も装備され、一段と明るくなった車両です。後に地方線区の普通列車にも使用されました。


[オハネ12 29]
1958年(昭和33年)9月製造
ナハネ12形は、急行用軽量構造客車として製造されたグループの普通寝台車で3段寝台でした。ナハ10系グループとして全国の夜行急行列車に使用されていました。
 



[オシ17 2055]
1935年(昭和10年)製造
オシ17形は、当初標準2等寝台丸屋根形の最新車マロネ37形として誕生しましたが、その後幾多の形式変更を重ね、昭和34年に改造され冷房付きの食堂車に生まれ変わり、急行列車に使用されました。食堂車は全て4人掛けの椅子とで、当時の面影を残しています。1972(昭和47)年の北陸トンネル火災事故により全車使用停止となり、その後、一部が教習車オヤ17形に改造されました。 文化むらでの展示にあたり外形はオシ17に復元されましたが、車内には教習車時代のEF81形電気機関車運転台シミュレータ装置が残されています。

[D51 96]
碓氷峠鉄道文化むら開園1周年を記念してJR東日本より貸与されました。

[くつろぎ号]
スロフ12 822(赤城)
オロ12 841(榛名)
1983年(昭和58年)に登場した和式客車です。12系客車を改造したもので6両編成でした。文化むらにはそのうちの2両が展示されています。各車には北関東の山岳名が愛称としてつけられ、客室は畳敷きの標準的な和風タイプとなっています。当初は青に白帯という塗色でしたが、1987年(昭和62年)に現在の塗色に変更されました。1999年10月に「さよなら運転」を行い引退しました。
※展示されている2両は休憩室として利用可能です。ただし、車内のトイレ洗面所は使用できません。

鉄道展示館
全5形式6両


[ED42 1]
1933年(昭和8)年、日立製作所 製造
大正15年に輸入されたスイス製のED41を手本に、国産化したアプト式最後の電気機関車で28両が作られました。現役時代は通常4両1組(軽井沢側1両、横川側3両)で列車の牽引を行なっていました。
EF63に後任を譲り1963年(昭和38)に全機引退しました。
この1号機は、1967年(昭和42年)10月に準鉄道記念物の指定を受け横川駅構内に保存、1987年(昭和62年)10月に横川・軽井沢間電化75周年記念で動態復元されました。現在は静態展示されています。

アプト式のピニオン(歯車)



[EF63 10] 
1963年(昭和38)5月11日、三菱電機/新三菱重工 製造
就任から碓氷峠廃止の最終日まで活躍しました。先頭左側のアンテナは、トンネルの多い碓氷峠で安定した無線連絡を取るために1989(平成元)より設置されたC’無線アンテナです。
なお、EF63の1〜11は当初は高崎第二機関区の所属で、1964年(昭和39)1月に横川機関区に転属になっています。

下記18号機、ED42 1、EF62 54とともに、ライト類が点灯され、パンタグラフが上昇状態で展示されています。

[EF63 18](「EF63形機関車運転シミュレータ」)
1967年(昭和42)8月26日、川崎車輛/川崎電機 製造
最後の全般検査(自動車でいうところの車検)の際に往年を連想させる茶色となって出場し、碓氷峠廃止の最終日まで活躍しました。通称「茶ガマ」と呼ばれ親しまれました。
「EF62 1〜26、EF63 1〜13の初期製造車両は登場時は茶色の塗装でした。後に、青色の塗装に変更されています。



[EF62 54]
1969年(昭和44)、東洋電機/汽車会社 製造
この54号機は最終号機です。
EF62の最後まで残った3両の中の1両で、碓氷峠廃止後も横川からのEF63疎開回送牽引などを担当しました。



[クハ189−506]
碓氷峠をEF63型と協調運転で通過可能な189系特急形電車の先頭車です。現役時代は、特急「あさま」等の上野寄り先頭車として活躍しました。EF63との連結の都合上、この500番台が上野寄先頭車になる決まりでした。
輸送力増強のためEF63と電車との協調運転という国内外に類を見ない運転形態が開発されましたが、全ての電車が協調運転可能というわけではなく、横軽協調用電車である169・189・489系の3形式が協調可能でした。この3形式のみが12輛編成前後の長編成で碓氷峠を通過できたのです。他の形式の電車の場合は、碓氷峠を通過中は動力をカットしてしまうために車体強度の問題も相俟って7〜8輛程度に編成が制限されていました。
碓氷峠の鉄道の歴史の中で欠かせない車両形式の一つです。

クハ189−506は、塗装の痛みが激しくなってきたため、現在は国鉄特急色に塗装しなおされて展示されています。

[ヨ3961]
ヨ3500形車掌車です。一部は碓氷峠通過対策が施されて、碓氷峠専用車掌車として、碓氷峠を通過する貨物列車の最後尾もしくは最前部に連結されました。
ヨ3961は、同形式車掌車の中でJRに現存する4両のうちの一つです。
戦後大量に増備されたヨ3500形式は、一部をのぞいてヨ5000形式に改造されてしまいました。ヨ3500形式の一部は非常ブレーキ装置などが改良され横軽専用車掌車として信越本線・碓氷峠を通過する貨物列車に連結されました。横軽専用車掌車に改造されたヨ3500はデッキ部の柱が白く塗装され、他線区への乗り入れが制限されていました。1984年(昭和59年)の安中−小諸間の貨物列車全廃によりその任務を解かれ廃車解体されていきました。
ヨ3961は、動態復元されたED42 1号機が600V運転のため、展示運転時の本線との電圧差をカバーするための抵抗器車両として使われていました。


車両一口メモ 
横軽通過対策車
上記の189系電車やヨ3500形式に見られるように、碓氷峠を通過する車両には峠を安全に通過するための改造がなされていました。その改造がなされた車両を横軽通過対策車と呼び、電車・客車の場合は車体側面の形式番号の前に●(通称Gマーク)が表記されました。このマークは上記のクハ189にもありますし、各地を走行している車両にもまだ見ることができます。横軽通過対策としては、連結器まわりの強化や台車・ブレーキ装置の改造がなされました。この対策がされていない車両は、安全上、碓氷峠の通過を禁止されていました。

運転体験コース
全5形式6両


[EF63 25] <動態保存機>
1976年(昭和51年)7月8日、川崎重工業/富士電機 製造
EF63の増備は本来であれば23号機で終了するはずでしたが、1975年(昭和50年)10月28日に発生した上り線1号トンネル出口での脱線転覆事故のためEF62形2両とともに廃車解体された5・9号機の廃車補充用として、下記24号機とともに増備されたものです。この25号機が最終号機になりました。
18・19・24号機と同じく、最後の全般検査の際に茶色で塗装され「茶ガマ」として親しまれました。
実際にはこれら4両は新製時より一般直流電機機関車の標準色である青色で終始活躍し、生涯の最後に特別塗装として初めて茶色に塗られたわけです。
保存運転ならびに運転体験コースでは25号機と下記24号機が充当されます。
600Vでの運転になるため、当初はコンプレッサー装置等が改造が予定されていましたが、検証の結果、無改造でも運転に支障がないことがわかったため現役時代のままの状態で運転されています。
ただし、本ブロアは回さずに運転されています。
※現在は青色の直流標準色に戻されています。

[EF63 24] <動態保存機>
1976年(昭和51年)7月2日、川崎重工業/富士電機 製造

24号機も動態保存されています。25号機と交代で運転されます。

24号機も現役時代のままです。

※現在は青色の直流標準色に戻されています。





[DB201(TMC500A形)]製造番号10
1975年(昭和50年)3月、富士重工 製造
このモーターカーは66.7パーミルの登坂降坂が可能です。66.7パーミルを25t牽引して12km/hで走行可能です。
屋外展示スペースや丸山の展示車両の移動および搬入は、下記TMC200Bとともにこのモータカーで行いました。

※近年、旧国鉄ディーゼル機関車ふうに塗装変更され、DB201のナンバープレートが取り付けられ、鉄道の日イベントでの「トロッコ(ヨ8841)列車」牽引、展示車両の移動などで活躍。
現在は再度塗装変更され、トロッコ列車「シェルパくん」牽引に充当されています。

[TMC200B形]製造番号221
1971年(昭和46年)3月、富士重工 製造
25パーミルを60t牽引して15km/hで走行可能です。
※現在、ED42の屋外展示の際の移動用に鉄道展示館内に留置されています。

[DB202(TMC200C形)]
富士重工 製造
25パーミルを60t牽引して15km/hで走行可能です。
※現在、青色に塗装変更され、DB202のナンバープレートが取り付けられています。動態運転用EF63留置線に留置。(旧)軽井沢駅舎記念館で保存展示されているものと同形式です。


[ヨ8841]
ヨ8000形車掌車です。ヨ8000形は1974年(昭和49年)から製造された車両で、製造工程での合理化を図る設計となったため従来の車掌車とは大きく異なる構造と外見となりました。トイレの設置、照明の蛍光灯化、石油ストーブ化など乗務員の居住性が大幅に改善されています。
文化むらでは、2001年10月14日の「鉄道の日」イベントで運行された「トロッコ列車」などで活躍しています。

かってのJR横川駅旧4番線ホーム
全11両(EF63×2、189系電車「あさま」9両編成)

2005年12月26日、EF63−11と12ならびにクハ189−5とモハ189−5の4両が碓氷峠鉄道文化むら園内に移動しました。
残念ながら、189系電車「あさま」の残り7両、ならびに「くつろぎ」客車4両については、2006年1月中旬に現地解体、撤去されました。

記録的な意味で、当面の間は下記画像を掲載しておきます。(撮影時期は丸山から退避後間もないものなので、2005年12月段階の状態とは相当異なっています)



(軽井沢方向)
[EF63-11]
[EF63-12]

@クハ189-505
Aモハ188-22 P
Bモハ189-22
Cサロ189-104
Dモハ188-2 P
Eモハ189-2
Fモハ188-5 P
Gモハ189-5
Hクハ189-5
(高崎方向)



EF63形電気機関車重連は、本来ならば編成の高崎方向に連結されるのですが、展示の都合上、軽井沢寄りで展示されていました。
したがって、両用連結器がないために、EF63と189系電車は連結されない形での展示になっていました。
また、189系電車は、現役時代に実際に碓氷峠を通過していた時とは編成の向きが逆になって展示されていました。
車両一口メモ 
EF63の連結の向き
EF63は通常は必ず2両重連のペアーで列車をけん引しました。また、EF63は必ず列車の高崎寄りに連結されました。横川から軽井沢に向かって峠を登る「下り列車」の場合は、EF63が列車の最後部について列車を押上げました。一方、軽井沢から横川へ峠を下ってくる「上り列車」の場合は、EF63が列車の先頭について強力なブレーキ(発電ブレーキ)で踏ん張りながら列車を安全速度に抑えて下ろしました。EF63は、電車も含めて全ての列車に連結されましたが、EF63から制御されて協調運転で碓氷峠を通過した電車形式の場合は電気回路の接続のため編成の方向が決められていました。また、EF63の方も電車と連結できる両用連結器は軽井沢寄りにのみ装備されており、向きが決まっていました。鉄道展示館のEF63の高崎寄りと軽井沢寄りの前面の違いにご注目ください。

碓氷線の補機機関車はかならず横川方に連結されました。時代とともに機関車が変ってもこの姿は運転開始から104年間変わることはなく、上記のようにEF63の時代になっても同じでした。 これは、勾配の上側では列車をつり下げることになり、列車自身の重さで連結器が外れてしまう可能性はあるからです。碓氷線では列車を支えるように峠の下側に機関車が連結されていたわけです。また、運転は常に横川側の運転室で行われました。つまり軽井沢に向かって峠を登る列車の運転士さんは列車の進行方向に背をむけていることになります。これも、万一の場合に安全に対処するための措置でした。