3年B組教皇先生

その場ののりで教皇になってから1カ月、ハービンジャーは激しく後悔していた。
教皇職をチンピラグループのリーダー程度にしか考えていなかった彼は、目の前に山積みにされた書類の一つを手に取り、そしてすぐに戻す。
紙に印刷された文字は日本語なのだ。この書類の半分は日本語であり、最近ようやく簡単なギリシャ語の読み書きを覚えたレベルの男にとって、日本語は理解不能の宇宙語に等しい。
逃亡は何度か試みたが、あっけなくインテグラとフドウに見つかってしまい、両耳からくどくどと説教され現在に至る。
今も目の前には金色の仮面を装着したインテグラがおり、仕事のできないハービンジャーの代わりに一所懸命書類に目を通しながらも、教皇を監視している。
ハービンジャーは再び書類を手に取り、ギリシャ語と日本語に分類すると、日本語の書類の山を文書箱に入れ、立ち上がってそれを小脇に抱えた。
「ダメだ。まったくわかんねー!星矢に聞いてくる」
「おーっと、その手は通用しないぞ。そのまま逃げるつもりだろう」
「逃げるのにわざわざ書類なんか持ってかねぇよ。息抜きだ、息抜き。教皇は外の空気を吸いたい。そんなわけで、ちょっといってくる」
「待て!ハービンジャー!」
インテグラが飛びついて止めるよりも早く、ハービンジャーは書類箱を抱えて執務室のテラスから飛び降りた。

教皇が逃げたという情報は瞬時に人馬宮の星矢の元にも届いていた。ゆえに、本当にハービンジャーが目の前に現れたときには、全く信用されていない教皇に笑いをこらえる事が出来ず、星矢は思わず吹き出してしまった。
「おいおい、本当に仕事をききに来るとは、お前は偽物か?」
星矢にバカにされてもハービンジャーは微塵も怒らず、書類箱を星矢の目の前につきつけた。
「やっぱり無理。教皇代わってくれ。日本語なんてわかんねぇよ。あんた日本人だろ」
「確かに俺の国籍は日本だが、ほとんどギリシャで生活しているから、ひらがなしかわからん」
「は?」
「紫龍や貴鬼が俺に教皇やれって言わなかったのは、俺がバカだからだ。お前はまだ若いからな。今から一所懸命勉強すれば大丈夫だぞ。その点俺は手遅れだ」
まさかそんな程度の低い理由とは夢にも思わず、ハービンジャーは唖然とする。
「……俺もかなり、いや、そうとう、いやいや、すごーーくすごーーーくバカだぞ星矢」
「バカなら勉強しろ」
「勉強は嫌いだ」
「その気持ちはよくわかるぞ、ハービンジャー。俺も勉強が大嫌いだ。しかし、お前は教皇だ。勉強せねばならん」
「まてまてまてまてまて、あんたがバカで教皇ダメなら、俺だってダメだろう」
思ったよりもバカではないハービンジャーに星矢は心の中で舌打ちし、どうやって言いくるめるかを考える。
「星矢、俺はバカだが、大バカじゃない。俺がバカなせいで皆が困っている事くらいわかる。だから、教皇は他のやつがやった方がいい」
「他って誰だ?」
「インテグラでいいと思う。あいつは日本語が読める」
「女はダメだ。教皇は男と決まっている」
「じゃあ、フドウ」
「あいつはタイ人だ。ギリシャ語も日本語も読めん」
「貴鬼は?そうか、貴鬼だ。聖衣の修復もおわっただろうし、貴鬼にやってもらえばいい。解決解決」
どう考えても無精者の貴鬼が教皇職をやりたがるはずもなく、星矢は鼻で笑う。
「貴鬼なぁ……、チビがいるからやりたがらないと思うぞ」
「俺が説得してやる。いかに俺のせいで聖域がひでぇことになっているかを知れば、あいつだってやる気になるはずだ。ジャミールってどう行くんだ、教えろ」
「んー、無理だと思うけどなぁ……ちょっと待て」
星矢はジャミールへの道を思い出してみたが、崖が沢山あった事しか思い出せず、AMAZ●Nの段ボール箱の中から聖闘士☆星矢の単行本を取り出し、ハービンジャに差し出した。
「俺もアニメで1回しか行った事がないからよく覚えていないんだ。これ持って行っていいぞ」
「サンキュー星矢。じゃ、これよろしく頼むわ!」
ハービンジャーは漫画を受け取ると、星矢に書類箱を押しつけ、光速で立ち去る。
難しい漢字が並んだ書類など読めるはずもなく、星矢は教皇の間に書類を返却しに行くと、インテグラに教皇を逃がしたことについて問い詰められた。
「まぁ、たまには息抜きさせてやれよ。ハービンジャーが本当に貴鬼を説得してくればそれでもいいし、貴鬼が説得すればそれでいい」
「わかりました。では、教皇不在中は星矢様が代理を務めて下さい」
「は?」
「『は?』ではありません。あなたが休暇を与えたのですから、代わりにやってください。女神から、パライストラ再建の件はどうなっているのかと、催促がきているのです!!」
「え、あ、俺はこれから沙織さんと約束が……」
「女神はご公務で外出されております。さぁ、この書類をお読みください!!」
インテグラの念動力で窓やあけっぱなしの扉がバタンと大きな音を立てて閉まり、星矢はとんだ藪蛇に頬を引きつらせたのだった。

教皇職が嫌になるには1週間で十分だった。毎日書類を読まなければならないのも苦痛だし、神官の話は何が何だかさっぱりわからないし、女神への報告は突っ込みが激しすぎて更なる課題がふえる一方だし、息抜きする暇もない。
「やはり教皇なんてやるもんじゃないな」
星矢が思わずそうつぶやくと、インテグラは仮面の下で眉間にしわを寄せ書類から顔をあげた。
「このままハービンジャーがもどらなければ星矢様が教皇ですよ、本当に戻るのかしらー?私は……星矢様でもかまいませんけど」
「あー、むりむりむりむりむり。ハービンジャーの休暇は終わりだ」
星矢はスマートフォンを取り出し貴鬼に電話をかける。
「あ、俺だよ俺。ハービンジャーを帰せ。お前のところにいるだろ?」
『いや、きてないよ』
「え、あいつ遭難したのか?!」
『遭難?』
「お前を説得に行くっていうからジャミールの場所を教えてやったんだが」
『星矢、オイラのウチに来た事ないのに、どうやって教えたんだよ』
「単行本わたしてやった」
『そこはムウ様の館だよ。オイラが住んでいるのはもっと下の方。星矢、Ωみてないだろう。それに、オイラはいま、沙織さんと一緒なんだけど。はぁ、女神の行動も把握していないなんて、やっぱり星矢に教皇は無理だな……』
「そんなの俺が一番良くわかってるよ。どうしよう、ハービンジャー死んだかな」
『死んだんじゃない。あ、沙織さん』
一方的に電話が切れると星矢は視線に気付いてインテグラに顔を向ける。
「どうしよう、ハービンジャー死んだかも」
「かもではありません!!どういうことなんですか!!」
「ジャミールにたどり着けずに死んだかも。たどり着いても血抜かれて死亡だし。平成生まれの小僧にはちょっと厳しかったかなぁ」
どうやら星矢が冗談をいっているわけではないと気が付き、インテグラは慌ててハービンジャーに電話するが繋がらなかった。メールを送っても返信はない。金牛の小宇宙を探してみたが欠片も感じることができない。
インテグラのスマートフォンの上に金色の仮面からしずくが零れおちると、星矢も流石にうろたえた。
「泣くな、インテグラ。まだ、生きているかもしれん」
星矢は慌てて羅喜に電話してみたが繋がらなかった。ジャミールが相変わらずの魔境ならば電波自体が届かないのだろうと考え、貴鬼に電話する。しかし、何度かけなおしても貴鬼が電話に出なかったので、星矢は慣れない手つきで一所懸命メールを打って貴鬼に送付した。

 

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