アテネの休日

聖域の山の頂きを覆っていた雪が溶け、朽ち果てた神殿の大理石の隙間から赤い芥子が咲き始めた頃、ムウはうっかりこの世に生をうけてしまった。
呪われた人生もせっかく20年で終わったというのに、気付けば何故か今年は21回目の誕生日を迎えることになる。
毎日白羊宮で無駄に時間を潰し、ただ時が流れるのをぼーっと過ごすだけの人生において、誕生日など何も意味を持たず、その存在すら忘れていたムウは、周囲に言われてようやく自分が生まれた日を思い出した。
「ムウ、誕生日に何か欲しいものはあるか?」
アルデバランの問いにムウは小首をかしげると、ほんの暫く瞼を閉じて悩む。そして静かに微笑み
「サガの首」
と答えて、白羊宮が静まり返ってしまった。
「ほれ、牛よ。ムウがサガの首を欲しておるぞ。双児宮へ行って首をとってこい。くれぐれも弟の首など持ってくるでないぞ」
シオンがしっしと手を振りアルデバランに双児宮へ行くよう促す。ムウの面白くない冗談を生暖かく笑い飛ばそうとしたアルデバランはとんだ薮蛇に、困って童虎に助けを求めてみたが無駄だった。
「弟と間違えぬよう、サガの首と二つとってくればよいのじゃ。簡単ではないか」
どこがどういう風に簡単なのか問い詰めたい所であったが、見た目こそ若いが遥か年長の童虎にそのようなことをするわけにもいかず、アルデバランはうろたえて目を泳がせる。ムウはもう一度静かに笑うと
「首をもらっても飾る場所がないから結構ですよ」
と言って、またしても白羊宮が静まり返ってしまったのだった。
静まり返ったリビングに男の声が響いた。テレビから流れるニュースを読み上げる声である。アテネ市内で起こった暴行事件の詳細を伝えている。
ムウがおもむろにテレビを指差した。
「あそこに行きたいです」
ムウの言わんとすることが分からず皆目を瞬かせる。
まさかムウはテレビの中に別の世界があるとでも思っているのだろうか。
いくらムウが長い間ジャミールの山奥に閉じこもっていたからといって、そこまで無知ではないだろうと皆は思ったが、ムウならありえるというのもあながち否定はできなかった。
育ての親であるシオンへ冷たい視線が集中すると、シオンは銀色の瞳で睨み返し口を開いた。
「……ムウや、テレビの中には入れぬのだぞ」
「そのくらい知ってます。バカにしないでください」
「……本当にわかっておるのか?テレビの中に小さい人は住んでおらぬのだぞ」
「知ってます。私はテレビの中ではなく、一度アテネへ行ってみたいのです」
童虎とアルデバランは再び目を瞬かせた。アテネといえばギリシャの首都であり、聖域から聖闘士の脚では遠くない。
「ムウや、お前はアテネに一度も行ったことがないのか?」
童虎の問いにムウは力いっぱい頷いた。不思議そうに童虎は更に言葉を続ける。
「アテネなどすぐそこではないか。行きたければ今すぐ行ってこい」
ムウはチラっとシオンを見てから困ったように麻呂眉を寄せ、童虎に目で訴えた。
ムウがアテネに行ったことがないのは、もちろんシオンが禁止しているからであり、ムウもそれに従っているからである。
「アテネになど行く必要はない。ムウは白羊宮を守護しておればよいのじゃ」
いつもムウに問われてそう答えるようにシオンは不機嫌を露に言った。理由が単にシオンの我侭と知った童虎は、頬を引きつらせる。
「白羊宮ならワシが守ってやるから、アテネでもどこでも好きな所へ行って来い」
「お前は天秤宮を守っておれ!」
童虎が口を開くと間髪いれずシオンが怒鳴り返した。しかしそれに怯むような童虎ではない。
「200年も留守にしていた天秤宮をたかが1日留守にした所で何の問題もないわ!ムウや、わしが許す。出かけて来い」
「ムウは余の弟子じゃ、勝手に命令するな!」
「おかしな命令など聞く必要ないわ!何故にアテネに行ってはいかんのじゃ?正当な理由をゆうてみよ!!」
「アテネはペルシャ軍に占拠されておる。あんな危険な所にどうして余の可愛いムウを行かせることができよう」
胸を張り真顔で断言するにシオンに童虎は唖然呆然とし、
「ギリシャはとっくの昔にペルシャから独立しておるわ、この大馬鹿者!今一度死んで歴史を勉強しなおせ、このすっとこどっこいい!」
と叫んで、思わず天秤座の武器を取り出してシオンを殴り飛ばしてしまったのだった。


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