アテネの休日

それから5日後、ムウは初めてづくしである21歳の誕生日を迎えた。
まず、朝起きて顔を洗い、初めて普通の洋服を着た。カミュから借りた”普通の”白いTシャツにジーンズ、ミロから借りた”普通の”パーカー、そしてアフロディーテから貰った”普通らしい”革靴を履く。
カミュから靴も借りようと思っていた所、運悪くサイズがあわず、同じサイズの人間がアフロディーテしかいなかったのだ。
「素敵かな〜と思って買ったら普通だったのよね。こんな地味な靴じゃ、アフロディーテ様の美貌に霞んで裸足に見えちゃうのよぉ」
とアフロディーテは言っていたが、ムウにはピカピカに磨かれた靴は十分派手に見えた。
朝の7時に白羊宮へムウを迎えに行ったアルデバランは、不機嫌の頂点に達しているシオンに睨まれ思わずちびりそうになったが、ムウの明るい笑顔に何とかその場を耐え抜くことができた。
「アルデバラン、似合いますか?」
薄紫の長い髪と麻呂眉、真っ白な肌に普通の服はおよそ似合っていなかったが、心の底から嬉しそうなムウの微笑みに思わずアルデバランはだらしなく鼻の下をのばして頷く。しかし
「やはり麻呂眉に普通の服は似合わぬのぅ」
と、童虎が何の悪気もなく笑いながら言った。実際似合ってないのだから仕方がない。
アルデバランが取り繕うよりも早く大理石のテーブルを叩く音が白羊宮に響いた。
「余のムウを愚弄するでない。余のムウは何を着ても可愛いのじゃ」
不機嫌なシオンが更に不機嫌な顔で新聞をテーブルにたたきつけ、童虎を睨むとついに白羊宮から瞬間移動で消えてしまった。
ムウが困ったようにシオンの座っていた席を見ていると童虎が再び笑い声を上げた。
「気にすることはない。シオンには『ムウの邪魔をしたら女神にあることないこと報告してやる』と脅してある。せっかくの誕生日くらい羽をのばしてくるがよい」
「ムウさま、白羊宮はおいらが守るから心配しないで行ってきなよ!」
貴鬼が小さな胸を張りそういうと、ムウは少し笑顔を取り戻す。
このままシオンが黙って姿を消したままのはずはないとムウには分かっていたが、ここで退いたら一生アテネに行くことが出来ないような気がするし、なによりせっかくの皆の好意を無駄にすることにもなる。
長い髪を後ろで三つ編みにし、ミロから借りた帽子で麻呂眉をかくすと、ムウは予定通りアルデバランの案内でアテネへと出かけていったのであった。

アルデバランに指定された場所まで瞬間移動で飛んだムウは小首をかしげた。アスファルトで舗装された道の両脇は、見渡す限り畑である。テレビで見たアテネの様子とは随分違うのだ。
「アルデバラン、ここがアテネですか?」
「ははは、アテネはもっと先だぞ。人の沢山いる所に、いきなりテレポートで現れたら大変なことになるだろう」
「なるほど、ここから歩いていくのですね」
「いや、バスだ」
「バス?」
「……バスを知らんのか?」
「車のバスですか?」
「そうだ、車だぞ。乗ったことないだろう」
「はい、乗ったことはないですけど、テレビで見たことはあります」
「これからバスに乗ってアテネへ行くんだ。このオレンジ色の看板の前で待っていると、バスが来て、アテネの真中まで連れて行ってくれるんだぞ」
「すごいです、アルデバラン。私、車に乗れるんですね」
たかがバスに乗ることだけで大きな紫の瞳を輝かし、期待に胸を膨らませるムウにアルデバランは一抹の不安を覚えたが、いまさら引き返すわけにもいかない。
人っ子一人いない田舎道をようやく一台の乗用車が通り過ぎると、ムウは感嘆の声をあげた。
「アルデバランっ!!今のが車ですね!!」
「ああ、あれが車だぞ」
「すごいですねぇ。聖闘士でもないのにあんなスピードがでるなんて、驚きました」
地球の裏側まで一瞬で移動できるムウのほうがよっぽど凄いとアルデバランは思ったが、何も言わずムウに微笑み返した。おそらく、いや、間違いなく今日一日中こんなかんじで他愛もないことに驚きつづけるのであろう。これで疲れていてはきりがない。
待つこと20分、ようやくバスが到着しアルデバランは胸をなでおろす。自分の後についてくるように言ってムウをバスに乗せると、一番後ろの席を陣取った。
座っているにもかかわらず、バスの天井に今にも頭が届きそうなアルデバランを見て、ムウは楽しげに目を細める。
「アルデバランは天井のないバスの方がいいですね」
「そんな便利なバスがあったら乗りたいものだな」
「え、あれはバスではないのですか?」
すれ違った対向車を指差しムウは首をかしげ、アルデバランは爆笑した。
「ムウ、あれはトラックだ。荷物専用だぞ」
「……車は乗る物によって名前が違うのですか」
「場所によってはトラックの荷台に人が乗ることもあるが、まぁ、こういう形をしているのがバスで、さっきの車みたいなのがトラックだな。形によって名前が違うんだ」
「凄いです、アルデバランは何でも知ってるんですね」
バスとトラックの区別など、貴鬼でも知っていることであろう。知らないムウがおかしいのであって自分のどこが凄いのかもちろんアルデバランにはわからない。21歳にもなろうというのに子供のようにバスの窓にはりつき、見るものすべてに目を輝かすムウははたから見てかなり恥ずかしかったが、そうならざるをえない環境で育ってしまったことを考えると、とてもではないがアルデバランには他人の振りをすることは出来なかった。


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