アテネの休日

それは不運というより、悪運というより、シオンの執念としか思えなかった。
シオンとアイオロスが入ったタベルナの向には小さな遺跡があり、それを挟んだ奥にもタベルナが並んでいる。そのタベルナにアルデバランとムウが現れたのである。
新聞を持つシオンの手が小刻みに震えているのに気付いたアイオロスは、フォークを置いて慌てて周囲を見渡し、頬を引きつらせた。
せっかく気を利かせて反対方向に来たのに、みずからすすんでシオンの視界に入ってくる馬鹿がここにいたのだ。
「ほ、ほらね……現れたでしょう……」
シオンの返事はない。
「怒っちゃ駄目ですよ、落ち着いてください。ムウにバレちゃいますよ」
震えているシオンの手にアイオロスが手を重ねたとき、路地からこっそり二人を見張っていたカノンとミロは衝撃の余り心臓が口から飛び出そうになった。
「撮ったか、撮ったか?!」
「おうともよ、ばっちりだ!」
衝撃的瞬間をおさめたカメラをカノンはミロにみせた。すっかりミロも探偵気分になっている。
「おい、カノン、気付いたか?アイオロスが教皇のことを”シオン”って呼んでるぞ」
「……アイオロスは教皇Lobaだったのか」
「ロバってなんだよ、ロバって。ああああ!」
「ぅおおおおお!」
二人が小声で奇声をあげたとき、アイオロスはシオンの手から新聞を取り上げ、フォークにスブラキを刺して、シオンの口へと運んだ。
「シオン、何か食べたり飲んだりしてないと怪しまれますよ」
「それどころではない!余のムウが、余のムウがぁぁぁ!」
「元気そうじゃないですか、よかったですね」
「余のムウがぁぁぁ!」
シオンの開いた口に透かさず肉を突っ込み、アイオロスはケラケラと笑った。肉を飲み込むとシオンは
「余のムウがこんな空気の悪い所で食事などしたら、病気になってしまう。今すぐ聖域に連れて帰らねば!!!!」
と立ち上がろうとして、またしてもアイオロスに手を捕まれた。
「ダメですよ、シオン。邪魔したら女神にいいつけますよ」
「だが、しかし!!」
「駄菓子も案山子もありません。はいはい、席に座って」
アイオロスは指にコップの水をつけ新聞にぶすっ、ぶすっと穴を二つあけて、シオンに渡した。
「はい、これで見やすいでしょう。見てるだけですよ、みーてーるーだーーけーーー」
下唇をかみ締めシオンはアイオロスを睨みつけて新聞を奪う。
そして新聞をひろげると、丸くあいた二つの穴から通りの向こうをじっと見つめたのであった。

身震いをしたムウにアルデバランは首をかしげた。日は天の一番高いところにあり、すっかり気温も高くなって上着がなくても十分暖かい。しかもジャミール育ちのムウは滅法寒さに強いはずだ。
「どうした、ムウ?」
「……悪寒が走りました」
アルデバランもムウと同じく周囲を見回した。が、シオンの気配も姿もない。
「気のせいだといいなぁ……」
「気のせいだといいですね……」
当然気のせいではなく、まさか向かいのタベルナにシオンがいようとは夢にも思わず、アルデバランとムウは客引きに呼ばれるまま店に入った。
メニューを見ようともせず周囲ばかりを気にしているムウに代わり、アルデバランはビールと料理を頼む。
「教皇様はいらっしゃったか?」
「……わかりません。でも、どこかにいて私を見ています」
「ムウが見つけられないなら、どうにもならんな。あきらめよう」
「はぁ……そう簡単に言わないでください……」
「具体的に邪魔されない限り、どうしようもないだろう」
「……はぁ……どうしてこんなに我が師は陰湿なんでしょうかねぇ……」
それはお前の師匠だからだろ、とアルデバランは答えたかったが、そんな事を言ったらこの場で消されかねない。
「ため息の数だけ幸せが逃げていくって言うからな、気にするな」
手を伸ばしてムウの肩を叩き、アルデバランは豪快に笑ったが、ムウは苦笑いで返すことしかできなかった。間違いなくシオンは近くにいるのだ。

そんな複雑な状況を知らないカミュとサガはついにミロとカノンを見つけ、眉を寄せた。
泥棒のように路地に身を隠しコソコソしてはいるが、特に何かしている様子はない。
「カノンは一体何をしているのだ……捕まえてスニオン岬の岩牢にぶちこんでやる!」
眉間の皺をさらに増やし、上着の袖を捲ったサガの後ろ髪をカミュは思いっきり引っ張った。
「サガ、待ってください」
「バカミュ!髪をひっぱるな!!これ以上ハゲたらどうするのだ!!」
「そうやって、まだ何もしていないのに殴ったり、岩牢に閉じ込めたりするからカノンがグレたのではないのですか」
「何かしてからでは遅いのだ!アテネが海に沈むぞ!」
「ですからどうして話がそこまで飛躍するんですか!」
もう一度後ろ髪をおもいっきり引っ張られ、サガはカミュの手をはたいた。
「お前はカノンがいかに極悪人かわかっていないのだ。ここでカノンを連れて帰らねば、アテネの街が焦土と化すぞ!!」
「ですから、どうやったらアテネが焦土になるか順を追って説明してください」
「いいか、まずカノンはああやって何か悪巧みをしているのだ。あの様子からすると……、きっと爆弾を仕掛けたに違いない。爆弾がきちんと爆破するか確認するために、あそこで何かを見張っているのだ。ああ、そしてそれをミロのせいにして、自分は逃げ果せるに違いない。そのためにミロがいるのだ。……大変だ!早くカノンを捕まえなくては!!!」
語るだけ語って、またしてもカノンを捕まえにいこうとするサガの後ろ髪をカミュは三度引っ張った。
「サガ、落ち着いてください」
「だから、髪をひっぱるな!!」
「大体どこから爆弾が出てきたんですか?それは貴方の脳内の話ではありませんか。それにミロは正義の聖闘士です。爆弾なんか仕掛ける前にカノンをとめます」
「では、あそこでテロリストと待ち合わせをしているのだ。……そうか、ここはシンタグマ広場に近いからな。地下鉄や国会議事堂を爆破するつもりか!!あああ、早くしなければーーーー!」
「サガ、そうやって勝手に自分で心配事を増やしているから髪が抜けるんですよ」
「髪の話はするな!」
「あ、カノンが写真をとりました」
「写真!?そうか、テロの下見か!!!今すぐカノンをスニオン岬の岩牢にぶちこまなければ、第三次世界大戦が勃発するーーー!」
またまたまたまたカミュはサガの後ろ髪をひっぱり制止した。被害妄想もここまでくれば立派な病気である。
「サガ、落ち着いてください。まだカノンは何もやってません」
「何かやってからでは遅い!」
「ミロも入れて聖闘士が三人もいるんですから、何かしようとしたら止めればいいのです。何もしないうちから『するに違いない』という憶測だけでカノンを殴るから、グレるのではないですか?!貴方の教育は間違ってます!!!」
「では、お前はカノンがヨーロッパを核の炎で燃やしつくしたら責任をとるといのか?!私が教皇様に怒られるのだぞ!!」
とどのつまりは自分が教皇に怒られるのが嫌だからということか。
カミュはサガの心のうちを垣間見て、深くため息をついた。
もし核が落ちたら、教皇に怒られるとか、そういうレベルの話ではすまないであろうに、サガには核よりも教皇のほうが怖いらしい。
「……サガ、落ち着きましょう。だから、どうしてカノンとミロがあそこで写真を撮っているだけで、ヨーロッパに核兵器が落ちるのですか?貴方の話は飛躍しすぎなのです。まずはじっくり観察しようではありませんか。ときには黙って見守ることも大事なのです」
八歳も年下のカミュに説教され、当然サガは不機嫌になる。
ミロがカノンに肩入れするのがなんとなく分かってきたカミュは、サガの長い髪をしっかりつかみ今にも暴れだしそうなサガを何とか抑えたのだった。

ため息ばかりついているムウが、出てきた料理を見たとたん紫の瞳を爛々と輝かせて元気になり、アルデバランはひとまず安心した。
せっかくの誕生日に生まれて初めてアテネへ出てきて最高の一日になるはずが、いるかいないかわからないシオンのために台無しになる寸前である。
アルデバランはなんとか現状を打破しようとアイオロスに助けをもとめた。
『アイオロス、射手座のアイオロス』
『お前は牡牛座のアルデバラン、デートは上手くいってるか』
『それがですね、ムウが教皇様が見張ってるといって怯えているのです』
『教皇なら私の目の前にいるぞ。私が介護、じゃなくて、面倒見てるから気にするな』
『そうですか、それはムウも喜びます』
小宇宙通信で得た情報をアルデバランはムウにつたえた。
「……でも、シオンさまがいるような気がするのです」
「アイオロスが面度見てるって言うんだ、大丈夫だ」
「……はぁ……」
喜ばせるつもりがまたため息をつかせてしまい、アルデバランは困って頭をかいた。
ムウの勘はただしく、たしかにシオンはアイオロスの目の前にいたが、ムウたちから遠くないところにもいた。
アルデバランが麻呂眉を寄せて困っているムウの頭をなでると、シオンが顔を隠していた新聞がビリっと真ん中から二つに裂けた。
ロスはあわててシオンの顔を両手で掴み、ムウたちと反対の方向へ無理やり向ける。
その瞬間、カノンは構えていたカメラのシャッターを押し、カミュは飛び出そうとするサガの髪を思いっきり引っ張った。


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