アテネの休日

一方その頃聖域――
突然教皇代理を命じられたアイオロスは記録的短時間で礼拝をすまし、執務室に嫌々向かうと前方から走ってくる神官に縋り付かれた。
「アイオロスさま、お願いです!!どうか教皇様をお諌め下さい!!」
アイオロスは首をかしげた。
「教皇様がお一人でアテネへお出かけになるというのです。どうか、どうか、教皇様をお諌め下さい」
事情を知ったアイオロスは訝しげに眉をよせ、神官の後に走ってついていった。
案内された部屋の扉が開くと、神官に囲まれたシオンの姿にアイオロスは呆然とした。シオンが普通の服を着ているのである。アテネへ行くというのは冗談ではないらしい。
仕立ての良いベージュのスーツに白いシャツ、薄い緑のアスコットタイと、シオンがこんな服を持っているとは到底考えられないが、服はシオンのために仕立てられたのは間違いなくその屈強な体にフィットしている。
今日出かけるために密かに用意させたのであろう。今日はムウとアルデバランがアテネへ出かけていることを知っているアイオロスは呆れてため息をついた。
「教皇!ムウの邪魔したら女神にあることないことチクってやるって老師から言われてるでしょう!どうしてそんなに往生際が悪いんですか!!」
「邪魔しにいくのではない、ムウがアテネでペルシャ兵に攫われぬよう見張りに行くのじゃ」
「……ギリシャはとっくの昔に独立してますってば……」
「余のムウが攫われて売り払われてしまったらどうするのじゃ!」
「勝手に瞬間移動で帰ってくるから大丈夫ですよ」
「道に迷ったらどうするのじゃ!」
「ムウはギリシャ語話せるから大丈夫ですよ……」
「馬車にひかれたらどうするのじゃ!」
「アテネに人をひくような馬車なんか走ってないですよ……」
「ペストに感染したらどうするのじゃ!」
「アテネはそんな不潔じゃないですよ……」
「……とにかく、ムウが心配なのじゃ!!!余の可愛いムウが一人でアテネなど……何と恐ろしい!!」
「アルデバランが一緒だから大丈夫ですよ」
「それが一番危険なのじゃ!!!」
「理由はともかく、ムウの邪魔しに行くなら老師に言いつけますよ」
「余はムウを見守りにいくだけじゃ」
「見守るって、教皇はアテネへ行ったことがあるんですか?教皇こそ迷子になりますよ」
「ふっ、馬鹿にするでない。アテネくらい何度も行っておるわ」
「……最後に行ったのは何年前ですか?」
「……、……、1、2、3……230年位前かのぅ?」
シオンが指折り数えて呟くと、神官たちはいっせいに顔を青くしてシオンの脚にすがりついた。
「なりませぬーーーー!どうかおやめください!!!」
必死に外出を阻止しようとする神官たちをうろたえるな小僧で吹き飛ばすと、シオンは不敵に笑い長い髪をかきあげた。
「余はムウを見守るだけじゃ。ムウの邪魔をするのではない」
「だからそれが邪魔なんですってば……」
思わず呟いてしまったアイオロスをシオンは睨みつけ
「余にはムウを見守る義務があるのじゃ!」
と、怒鳴って部屋から一人で出て行った。

シオンが颯爽と教皇の間の廊下を歩いていると反対側から歩いてきたシュラは粒目をパチクリさせ、思わず声をかけてしまった。
「あれ、教皇?珍しい格好なさってますね」
「……ふむ、余とわかるか」
「そりゃぁ、もう」
「おっと、これをするのを忘れておった」
シオンはわざとらしくポンと手を叩くと、スーツの胸ポケットからサングラスをとりだして装着した。
「ふふふ、これで余とはわかるまい」
不敵に笑い去ってゆくシオンをシュラは呆然と見送った。どこからどうみてもあの後姿はシオンである。
続いてすれ違ったデスマスクも、余りにも珍しい格好のシオンに思わず声をかけてしまった。
「あれ、教皇?そんな格好してデートですか?」
「……ふむ、余とわかるか」
「そりゃぁ、もう」
「何故分かる?」
「何故って言われても……あ、そんな獅子舞みたいな髪形をしているのは教皇しかいませんから」
「なるほど、言われてみれば確かにその通りじゃ」
シオンはわざとらしくポンと手を叩くと、きびすを返し部屋に戻って神官に自分の髪を梳かすように命じた。
風もないのになびいていたシオンの長い髪は神官により30分以上かけて丁寧に梳かされ、前髪はきっちりオールバックにセットし後ろ髪は一つに結ばれた。
今度こそ完璧な変装に、シオンは自信満々で部屋から出て行った。
が、またしてもすれ違ったアフロディーテにシオンは声をかけられ、ない眉を寄せた。
「あれ、教皇?そんな格好してお買い物ですかぁ?」
「……ふむ、余とわかるか」
「そりゃぁ、もう」
「何故分かる?」
「何故って言われても……麻呂眉」
「なるほど、言われてみれば確かにその通りじゃ」
シオンはわざとらしくポンと手を叩くと、サングラスをとり眉を撫でた。
「眉毛、書きましょうか?」
「ほう、そのようなことができるのか?」
「任せてください!!このアフロディーテに不可能はありません!!」
申し出を素直に受け、シオンは光速で双魚宮から化粧品を持ってきたアフロディーテを連れ、再び部屋へと戻った。
今度は化粧をしはじめたシオンにアイオロスと執務当番のシュラとデスマスク、そして神官たちも呆然とする。
最初部屋から出て行った時に比べ、随分と立派な変装になりはじめているのだ。
アイオロスはシュラを小突いた。
「おい、シュラ。教皇についていけ」
「イヤです」
シュラは即答した。賢い選択である。
続いて、アイオロスと目が合った瞬間デスマスクも首を横に振った。何をしでかすか分からない教皇の引率など誰が引き受けるというのか。
「アイオロスが行けばいいじゃないですか。大体教皇に意見できるのはアイオロスしかいないんですから」
シュラの意見にデスマスクや神官たちも頷いた。
「は?何で私が?私は教皇代理で忙しいのだ」
「教皇を補佐するのもアイオロスの仕事でしょう。そんなに教皇が心配なら、アイオロスが自ら行けばいいんですよ。さっさと服に着替えてこないと教皇出かけちゃいますよ」
シュラとアイオロスの小声で交わされた会話は、シオンの耳にしっかり届いている。鏡越しに睨まれ、アイオロスは冷や汗を流した。
「余はお前達に心配されるほど落ちぶれてはおらぬ」
誰もが心配しているのはシオンの身ではなく、シオンが何かトラブルを引き起こし、それに巻き込まれるであろうアテネ市民であるとシュラは思ったが、何も言わずアイオロスをじっと見た。神官もアイオロスに眼で訴えている。
「ああ解ったよ!私が行けばいいんだろう、まったくお前達は本当役立たずだな!!!」
周囲の期待に負けたアイオロスはやけっぱちにローブを脱ぎ捨てると、走って人馬宮へと着替えに行った。当然シオンは面白くなさそうに片方だけ完成した眉をひそめる。
シュラはアフロディーテにチラチラと目で合図を送って、眉書きを長引かせるよう合図し、デスマスクは無駄にシオンに話し掛け時間を稼ぐ。
「教皇、アテネ市内はユーロですよ、ドラクマも金貨も使えませんからね」
「そのくらい知っておるわ」
「普通の人間にうろたえるな小僧使ったら死にますからね」
「知っておる」
「車をはねちゃダメですよ」
「わかっておるわ」
「車といっても馬車じゃないですからね、自動車ですよ、自動車」
「わかっておる」
「余は教皇じゃ、なんて言っても信じてもらえませんからね」
「わかっておる」
「好みの美少年が歩いていても拉致してきちゃ駄目っすよ」
「わかっておる」
「赤信号渡ると罰金取られますよ」
「……罰金?」
「警察に捕まって金とられるんですよ」
「大変じゃ!余のムウが捕まってしまうではないかぁぁぁ!魚よ、何をちんたらちんたら書いておるのじゃ!さっさとせいぃぃ!」
うっかり余計なことを言ってしまったデスマスクはシュラとアフロディーテに睨まれ、頭をかいてとぼけた。
アフロディーテが急いで眉を仕上げると、シオンは出来上がった顔を見て満足に頷いた。
「ふむ、これなら余とわかるまい」
確かに麻呂眉は見事に塗りつぶされ、その上にりりしく眉がかかれてはいたが、あふれ出る妖気がシオンであること激しく主張している。誰も何も言わずシオンにあわせて適当に頷いた。
シオンが部屋から出て行こうとすると、タイミングよく息を切らせてアイオロスが戻ってきた。Gパン・Tシャツに赤いバンダナ姿のアイオロスは、半裸ではないというだけで、いつもと大差ない。
「せっかく余が変装しているのに、お前がその姿でついてきたらバレてしまうではないか!」
「んなこと言われても、これしかないんですから仕方ないでしょ!」
「バンダナ広げてかぶったら?」
アフロディーテの提案に、アイオロスはわざとらしく手をぽんと叩くと、バンダナをはずして三角にたたみ直し、鼻と口を隠すように顔に巻きつけた。
アイオロス会心のギャグのつもりか、本気でボケているのかわからず、部屋が静まり返る。
「これで大丈夫です!」
「……山羊や、こやつを斬り捨てい」
シュラは短く返事をすると、アイオロスの後ろに廻って顔からバンダナをはずし、髪を隠すように頭に巻きなおした。
「おお、そうか。こうすればよかったんだな」
「アイオロス、とぼけてないで早く教皇をおいかけてください」
シュラに背中をおされ、アイオロスは仕方なくシオンを追いかけたが、明らかに人選を間違えたことに今ごろ気付き、残されたものたちはアテネで騒ぎが起きないよう、女神に祈ってみたのだった。


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