アテネの休日

アルデバランとムウが乗ったバスはアテネ市内に入り渋滞にはまって遅々としてすすまなかったが、生まれて初めて車に乗り、初めて市内に出てきたムウは渋滞よりも外の景色が気になって仕方なかった。
ムウが窓の外を指差しては「あれは何ですか?」と尋ね、アルデバランがそれに答える。
バスに乗ってから2時間後、ようやく市内の中心地に到着した頃には、車を見て感動していたムウも大分現代人らしくなっていた。
が、アルデバランの後ろに続きバスを降りた瞬間、ムウは口元を手でおさえ帽子の下で麻呂眉を寄せた。
「この空気を吸ってはいけません、アルデバラン」
そう言ってむせ返ったムウの顔をアルデバランは膝を曲げて覗き込んだ。
「アルデバラン!また毒で死んでしまいますよ!!」
「は?毒?冥闘士はいないようだが……」
「胸が苦しいです……」
アルデバランは周囲を見渡してみたが、苦しんでいるのはムウ一人で、サラリーマンも観光客も野良犬も普通に歩いている。いち早くムウが毒ガステロに気付いたというわけではなさそうだ。ひとまずアルデバランはムウを道の端へ移動させ、様子を見た。
ムウはいつまでも咳き込んでいるが、やはり毒ガスが使われた様子はない。渋滞で動きの止まった乗用車の隙間をオートバイが真っ黒な排気ガスを吐き出しながら通り抜けていくのを見て、アルデバランは毒ガスの正体に気付いた。
「ムウ、ガスはガスでも排気ガスだな」
「排気ガス?」
「車から出るガスのことだ」
「……アルデバランは平気なんですか?」
「まぁ、ブラジルの都市部も空気は悪いからな。ジャミールと比べたら、たしかにこの空気は毒だが、アテネに住んでる"普通の"人はみんなこの空気を吸っているんだぞ」
アルデバランの言葉に、ムウはようやく落ち着いて周囲を見渡した。確かに皆この毒ガスの中を普通に歩いているのだ。
「ここは大通りで、特に空気も悪いからな。慣れるまでまず車の少ない所へいくか」
ムウが頷くとアルデバランは細い路地へとムウを案内した。

路地に入ると流石に車の数も激減し、5分も歩くとアクロポリスの車両進入禁止地区へと出た。ゆるい坂道をのぼっていくと、大通りの喧騒は聞こえなくなり、目の前にパルテノン神殿が現れる。
ようやくムウの咳がとまったのはいいが、アルデバランは予定とはまったく異なる所に来てしまい、これからどうしたものかと歩きながら悩んでいた。このまま道なりにすすんでも、観光地しかない。普段、ギリシャ神殿に住んでいるムウをパルテノン神殿へ連れて行くより、スーパーマーケットや、デパート、タベルナなどに連れて行ったほうが喜ぶであろう。
案の定ムウはパルテノン神殿よりも道路の左側に並んだマンションやタベルナ、露店に気をとられている。
上着の袖をひっぱられ、アルデバランは足を止めた。
「アルデバラン、あれ」
「ん?」
「あれ食べたいです」
紫の瞳をキラキラ輝かせおねだりするムウに思わずアルデバランは店ごと買ってやりたい気になったが、ムウが食べたいといったのは、道端で小さなテーブルをひろげたおばちゃんが売っているゴマパンであった。全部買っても20ユーロほどであろう。
アルデバランがポケットから小銭を出そうとすると、ムウがその手を止めた。
「自分で買います」
少し驚いた様子のアルデバランにムウは微笑んだ。
「物を買うときはお金を払うってことぐらい知ってますよ。シオン様がお小遣いをくれたのです」
あれほどムウが外出するのを嫌がっていたわりには優しい所もあるのだなと、アルデバランはシオンの意外な一面に驚いた。
が、何となく嫌な予感がした。ムウの師だけに、そのずれ方も桁外れであろう。いきなり古代の金貨を出される可能性がある。ギャグで済むものならいいが、偽札とかでてきたらそれこそ一大事だ。アルデバランは正直にムウに話した。
「済まないな、ムウ。教皇様から頂いたっていうのがどうも気になるんで、見せてもらえないか?」
「シオン様は使えるお金だって言ってましたよ」
「……まさか、金貨とかじゃないよな」
「ちゃんとお札ですよ、ほら」
手品のように念動力で黒い革の財布を取り出し、ムウはアルデバランに手渡した。
妙に膨らんだ財布にアルデバランはさらに嫌な予感を募らせる。財布の中を覗いてみると案の定新品の200ユーロ札がぎっしり詰まっており、当然小銭は入っていない。おそらく、シオンはユーロの下にセントという単位があることなど知らないのであろう。
「ムウ、こんな大きなお金出したら、おばちゃんが困るだろう」
「このお金は使えないのですか?」
「……いや、そういう意味じゃなくて……こういうものは小銭で買うものなんだぞ」
「そうなんですか、困りましたね……」
麻呂眉を寄せて自分を見上げる悩ましげなムウに、アルデバランはやっぱり店ごと全部買ってやりたい気になったが、20個も30個も買っても仕方ない。
「おばちゃん、これ一つちょうだい」
アルデバランの巨体を呆然と見上げていたおばちゃんは、巨人に流暢なギリシャ語で話し掛けられ更に驚いた。
「随分とギリシャ語が上手な外人さんだね。そんなに大きな体で1個で足りるのかい?」
「じゃあ二つ」
1ユーロコインをわたし、おばちゃんから輪の形をしたゴマパンを二つ貰うとアルデバランはそれをムウに手渡した。
パンを持ったままきょろきょろと周囲を見回すムウをアルデバランは不思議そうに観察する。
「アルデバラン、座る所ってないですかね?」
「座る所?」
「座らないと食べられないではありませんか」
「わははははは、ムウはかわいいなぁ」
シオンに歩きながら物を食べてはいけませんと躾られ、それをムウが忠実に守っているのだということはアルデバランにはすぐに解ったが、ムウは何故アルデバランに笑われたのかが解らず、目を瞬かせた。
「え、私なにかおかしなこといいましたか?」
「それは歩きながら食べてもいいんだぞ」
「だめです、シオンさまに怒られます」
「せっかく教皇様がいらっしゃらないんだから、気にすることないだろう」
「……アルデバラン、本気でそう思っているんですか?」
ムウの険しい表情にアルデバランは思わず周囲を見回した。しかし、シオンの気配はない。
「ムウ、それは気のしすぎだ」
ムウは首を横に振った。そしてムウの予想は見事にあたっていた。


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