アテネの休日

聖域
教皇の間の通用口の階段ですれ違う者は首を傾げつつも、スーツを着た男がシオンであると気付かなかった。
「ふっ、余の変装は完璧じゃ」
変装の成果を試すためにわざわざ階段を下りていったシオンは唇を吊り上げ不敵に笑った。
いつも仮面で顔を隠しているから気がつかないというより、あの特徴的な髪型が違うことと、やはり決めては麻呂であろうとアイオロスは思った。
シオンに腕を捕まれ条件反射で振り払おうとした瞬間、アイオロスの目の中に街の景色が飛び込んできた。いきなりシオンの瞬間移動でアテネ市内に飛ばされたのである。
アイオロスは文句をいおうと手を振り払って横にいるシオンの方を向くと、見たことのない顔をしたシオンに思わず口を噤んでしまった。眉毛があるというのもそうではあったが、眼下に広がるアテネ市内を見下ろすシオンの瞳は、いつもの聖域を睥睨する支配者の目ではなく、極普通の人間らしいどこか寂しげなものだった。
「……随分とアテネも変わってしまったのだな」
シオンの知っているアテネをアイオロスは知らなかったが、コンクリートの建物で埋め尽くされ、排気ガスが充満した街でなかったことは確かであろう。シオンの呟きは風にかきけされ耳に届かなかったことにして、あらためてアイオロスは文句を言った。
「教皇、一体何考えてるんですか、いきなりテレポートして人に見つかったらどうするつもりなんですか、え?あんたは馬鹿ですか!?」
「無礼者、誰に口をきいておる。見つかってはおらぬではないか」
「大体ここはどこなんですか?!」
「アテナ神殿じゃ」
「え?」
アイオロスは振り返ると、後ろに巨大な柱があることに気付き呆然とした。アテネ市内を見下ろせる場所にあるアテナ神殿といえば、あそこしかない。
一人で勝手に神殿の壁沿いに歩いていくシオンのあとを慌てて追いかけると、目の前に現れたパルテノン神殿にアイオロスは頬を引きつらせた。パルテノン神殿の隣にあるエレクティオン神殿の裏に瞬間移動してきたのである。シオンは侵入禁止のロープをまたいで観光ルートへ出ると、突然立ち止まった。
「……アイオロスや、今日は祭りでもあるのかのぅ?」
シオンに問われアイオロスは周囲を見回した。世界屈指の観光都市であるアテネ、しかも一番の見所のパルテノン神殿には季節を問わず観光客であふれている。アイオロスもここへ来るのははじめてであったが、その混雑振りにシオンほどではないが驚いた。
「いや、祭りじゃないと思いますけど……すごいですね。みんなアテナ神殿を見にきてるんだと思いますよ。写真撮ってるし」
「……こんな廃墟を撮って何が楽しいのかのぅ……」
「廃墟だからいいんじゃないですか?」
「……わからぬ」
「私もわかりません」
長さは違えど、人生のほとんどを聖域で過ごしてきた二人には、いまさらギリシャ神殿を見ても何の感動もなかった。むしろ、観光客の多さに感動したほどだ。
アイオロスはふと気になり口にした。
「教皇が若かったときもここは廃墟だったんですか?」
「……こんなに酷くはなかった筈じゃがのぅ」
「え、じゃあ女神像があったりして、聖闘士が守ってたりしたんですか?」
「それはない。……ところで、アイオロス。余を教皇と呼ぶな。怪しまれるではないか」
シオンに指摘されアイオロスは慌てて周囲を見回したが、皆神殿に夢中で二人の怪しげな会話に気付いた者はいそうになかった。数人の若い女の観光客が、進入禁止区域から現れた不届き者の美丈夫二人に熱い視線を送っていたが、外人なのかギリシャ語の会話はわかっていないようである。
「じゃあ、何て呼べばいいんですか?……シオン?」
いつも”教皇”と呼ぶ人間から突然名前で呼ばれシオンは頬を引きつらせた。自分で命令しておきながら、なんとも理不尽な男である。
「……自分で考えろ。いくぞ、余はお前と観光しにきたのではない」
「あ、待ってくださいシオン〜〜〜」
アイオロスは嫌がらせにシオンを名前で呼んでみたが、シオンは振り返りもせず人ごみの中へ突き進んでいった。

「すごい人ですね、今日はお祭りでもあるのですか?」
シオンと同じ事を口にしたとは知らず、ムウもまた押し寄せる観光客を見て呆然とした。
パルテノン神殿へ向かう観光ルートの入り口にある駐車場には、何十台もの観光バスが止まり、観光客がぞろぞろと降りてくるのだ。
ムウとアルデバランが歩いていた道は、その駐車場の方まで続いており、ムウは突然の人ごみに仰天したのだった。
「ああ、ここからパルテノン神殿に行くことができるからな」
「……すごいですね……」
「まぁ、私たちには関係ないからな。行こう」
210cmの巨体は流石に珍しいらしく、観光客の視線がアルデバランに集中したが、観光客だけにすぐに神殿へと視線が戻る。立ち尽くしているムウの腕を掴み、アルデバランは巨体で人ごみを押しのけさっさと先へすすんだ。
駐車場から離れると、突然人気がなくなり緑に囲まれた静かな小道となった。
「アルデバラン、どこへ行くんですか?」
「座る場所だろ」
「はい、そうです」
「公園にベンチがある」
アルデバランが指差した方に目をやると小高い丘への細い道があった。
ムウはアルデバランより先にその道へとすすむ。松の木に囲まれた薄暗い道をのぼりきると、整備された丘の上に到着し、ムウは紫の瞳を輝かせた。左手にはアクロポリスが一望でき、右手にはアテネ市内を見下ろすことができる。ムウはもちろんアクロポリスに背を向け、四角い建物が所狭しと並んだアテネ市内に釘漬けになっていた。
「すごいです、ずっと向こうまで街が続いてます……」
ギリシャの首都ではあるが世界の大都市と比べたらアテネは決して大きな街ではない。もしニューヨークにムウを連れていたら腰をぬかしてしまうんじゃないだろうかと考え、アルデバランは思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます、アルデバラン。こんなにすごいものを見ることができて、幸せです」
いつまでもアテネを見つめ続けるムウを、アルデバランは何も言わずに見守っていた。


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