あなたを見守りたい

もうすぐ朝の5時になろうというのにシオンが起きてこないので、ムウは師を起こすために部屋の扉をノックした。早朝のトレーニングのためにもうそろそろアイオロスが迎えに来るころだ。規則正しく生活しているシオンが寝坊することなどほとんどなく、珍しいことである。昨晩、遅くまで酒を飲んでいたわけでもない。
返事がないのでムウは扉を開けて部屋の中に入る。廊下の明かりが暗い部屋の中をほのかに照らすと、ムウは驚いた。モダンな家具で統一されていたはずの部屋が、シオンご愛用の華やかなロココ調の家具に入れ替わっているのである。昨日の夕方、服をしまいに部屋に入った時には、ムウの部屋とほとんど同じような家具であったのに、一晩で全てが入れ替わっているようだった。寝坊した原因はおそらくこれであろう。強大な超能力をもつシオンであっても全ての家具を入れ替えるとなると時間がかかるはずである。
「シオン様、おはようございます。朝の稽古はお休みですか?」
「ん……おはよう、ムウ」
師から明確な返事があったので、単なる寝坊と判断し、ムウは遮光の分厚いカーテンを念動力で開ける。するとガラス窓に人が張り付いているのを目撃してしまい、ムウは絶句した。ここは3階で窓の外にはベランダはない。
人影は一瞬でいなくなり、シオンが身を起して窓に顔を向けたときには、白み始めた空しか目に入らなかった。
「どうした、ムウよ?」
シオンは念動力で部屋の照明のスイッチを入れると、顔をひきつらせている弟子に尋ねる。
「カーテンを開けましたら、人影がありましたもので……、全く気が付きませんでした。恥ずかしい限りです」
人の気配に全く気付いていなかったことを恥じ、ムウは師に頭を下げる。シオンは人影の正体を知っていたので苦笑いを浮かべると、手を伸ばして弟子の頬を撫でる。
「あれは余のストーカーじゃ。気にするでない」
気にしろよとムウ心の中で師に突っ込みを入れ、慈悲深すぎる前教皇に呆れる。シオンは何か言いたげな弟子の頭を抱き寄せると、ベッドに引き寄せ背中を撫でた。
「案ずるでない、聖闘士に同じ技はニ度通用せぬ」
重なったシオンの胸板は以前より硬く、二の腕を撫でてみると立派な筋肉がついており、しっかり鍛えられているのがよくわかる。今でも人知を超えた強さを誇るというのに、これ以上朝から訓練を重ねてどうするというのか、ムウは呆れてついに口を開いた。
「シオン様はストーカーから身を守るために鍛えていらっしゃるのですか?……これ以上強くなってどうなさるおつもりで?」
「ふふふ、さてのぅ」
シオンは笑って答えをはぐらかし、弟子の顔から眼鏡をはずすと白い頬を両手ではさみ唇を重ねる。師に性的な興味を持てないムウは、これ以上は勘弁してもらおうと体を離そうとしたが、シオンの念動力で動く事が出来ず、テレパシーでやめて下さいと抗議する。
弟子の抗議を無視してムウが固く閉じた歯を舌でなめていると部屋の扉をノックする音が再び聞こえ、シオンは顔を離さざるを得なかった。
返事を待たずに扉を開けたのは、シオンを迎えに来たアイオロスだった。上半身裸のシオンの上に乗ったムウを見て、アイオロスは気不味そうな顔をする。
「あ、すみません。お取り込み中でしたか」
そう言ってアイオロスが扉を閉めようとすると、ムウは念動力を使ってそれをひきとめる。
「おはようございます、アイオロス。シオン様は元気が有り余っているご様子ですから、連れていって下さい」
事情を察するとアイオロスは苦笑いを浮かべて頷く。
「アイオロスよ、外にサガがおるぞ」
遥か年下の小僧に小言を言われる前にシオンは餌をなげる。
「え、本当ですか。ちょっと探してきますから、その間に着替えてください」
滅多に姿を見せないサガがすぐ近くにいると教えてもらい、アイオロスはそう言い残し、朝の訓練に誘おうと急いで探しにいく。
ムウは自分の体が解放された事に気付き、直ぐにベッドから降りて眼鏡を回収し、金の唐草模様で飾られた豪華なワードローブからシオンのトレーニングウェアー取り出した。猫足のソファーの上に服を畳み直して置くと、外にストーカーがいることを思い出し、ムウは念動力でカーテンを閉める。
洗面所からガウンをまとったシオンが顔を洗って出てくると、ムウは着替えを手伝う。シオンの背中からガウンを外すと、広い背中が筋肉で引き締まっているのを見て、ムウは思わず若々しく美しい背中を指でなでてしまった。
「ほう、余の体が気に入ったか?」
シオンはすこしいやらしく含んでそう言った。しかし、返ってきた答えは、相反するものだった。
「いえ、モフモフがないと少し寂しいですね」
師の背中はいつも長い豊かな髪で覆われていたので、ムウは懐かしんでそう言う。今のシオンは髪を短く切り、リアル18歳のころと同じ髪型をしているのだ。ND仕様の髪形は手間がかからず楽だし、童虎もアイオロスも短い方がいいと言っていたので、シオンは麻呂眉を寄せた。
「お前は長いほうがよいというのか?」
「すべては御心のままに」
うっかり口を開いてしまったためにめんどくさいことになりそうで、ムウはそう言ってごまかすとシオンにTシャツを手渡した。

朝から晩まで人の出入りが激しい白羊宮を一人で支えていると体が持たないので、ムウは健康のために貴鬼と時間をずらして生活することにした。ムウは朝の4時に起きて夜の9時には就寝し、貴鬼は朝の10時に起きて深夜の2時ごろ就寝する。シオンはいい顔をしなかったが、疲れきった弟子たちに訴えられて認めざるを得なかったのだ。
ムウはシオンを白羊宮から送り出すと、師の部屋のベッドメイキングを済まし、洗面所を綺麗に掃除して厨房へ行った。冷蔵庫に見覚えのない紙が貼ってあることに気がつき、遅番の弟子からの連絡事項だろうかとムウはその紙を念動力で手元に瞬間移動させる。しかし紙に書かれた文字は貴鬼のものではなく、シオンの美しい筆跡で「シオン様の食事に鉄分とカルシウムが足りない」と書かれていた。
すぐにムウはそれがシオンからのメッセージではなくストーカーからだと気が付き、紙を握りつぶしてゴミ箱に捨てた。13年もバレずに教皇の真似をしていただけあり、シオンの筆跡が自分のものになってしまっているのであろう。流石は当時15歳でシオンの真似が完璧にできた病的なストーカーである。
野菜と穀類中心の食事をしているシオンに鉄分やカルシウムが足りないのは仕方のないことではあるが、粗食でも200年以上自力で健康に生きてきたのだから問題ないのだ。
開き直ったストーカーは性質が悪いと思い、ムウはゴミ箱から捨てた紙を戻すと、鉄分たっぷりの食事を作ってやろうと冷蔵を開けた。
7時になると孫弟子が起きてきて、ムウは長い髪を梳かしてやった。羅喜の癖毛は柔らかく、シオンの髪質に近い。
いつも物静かなムウから何だか少し異なる気配を感じ、羅喜は髪を結ってもらううと師の師に顔を向けた。
「ムウ様、どうしたの?」
「お前の髪はシオン様と同じでモフモフだと思っただけですよ」
羅喜はポニーテールに手を伸ばし、自分の髪を触る。確かにムウの言うとおりモフモフだ。ジャミールにいるときはあまり髪を洗わなかったが、聖域に来てからはシャンプーで毎日綺麗に洗っているので、癖毛で膨らんでいるのだ。
「私、ムウさまみたいなサラサラな髪がよかったな」
貴鬼がムウの綺麗な髪が好きだと言っていた事を思い出し、羅喜は師の師の薄紫の髪を羨ましがる。ムウは静かに笑うと羅喜のポニーテールを優しくなでた。
「私はモフモフの方が好きですけどね。人は自分の持っていないものが好きなのです」
羅喜はムウにそう教えてもらっても、では貴鬼はどうなのかと合点がいかず首をかしげる。
「貴鬼さまはムウさまの髪が好きなんだって」
「ふふ……あの子の髪は中途半端な癖毛ですからね、私みたいにわかりやすいのがいいのでしょう」
ムウは静かに笑い、孫弟子にブラシを返却する。ようやく納得した羅喜は頷くと、ムウに髪を結ってもらった礼を述べて、ブラシをソファーの上に置いたカバンの中へとしまった。

ムウは羅喜と一緒に朝食をとりおえると、白羊宮の入り口からパライストラの校門の前まで孫弟子を瞬間移動で送り届け、すぐに厨房に戻ってシオンのために特別な食事を用意した。
朝から夕飯と見紛うばかりの食事を出されたシオンは目を瞬かせ、そしてムウからクシャクシャになった紙を手渡され、不機嫌に麻呂眉をよせる。自分の筆跡と似ているが書いた覚えはないので、サガが書いたものであることに間違いない。
シオンはアイオロスにレバニラ炒めの皿を渡し、続いてメッセージも渡す。早朝サガを見つける事が出来なかったアイオロスは、シオンが嘘をついたと非難したことを謝罪した。
「申し訳ございませんでした。しかし、これはシオン様の体を心配してのことですから、シオン様が食べないと……」
アイオロスは苦笑いを浮かべながらそう言い、サガのメッセージを向かいに座った童虎に渡す。ムウが堂々とシオンに嫌がらせをするはずもなく、童虎は紙に書かれた文字を見ると立派な眉を吊り上げ、紙を丸めてポイと投げ捨てる。
ムウは椅子に座ったシオンを見下ろし、無言でストーカーをなんとかしろと目で訴えた。
「いちいちかまうな。放っておけばよい」
シオンは答え、海老団子が沢山入ったスープを口にする。
朝から険悪な雰囲気で、いつも通り朝食を食べに来たアルデバランはムウにどういうことかと目で尋ねる。ムウは念動力で童虎が丸めて床に捨てた紙をアルデバランの膝の上に瞬間移動させ、厨房に戻った。
童虎がこの上なく不機嫌な顔をしてシオンと一緒に教皇の間に行ったので、白羊宮で中華料理のコック見習いをさせられていた玄武は師を見送ると思わず安堵の息をついてしまった。八つ当たりされてはたまったものではないからだ。
玄武はムウに童虎が不機嫌な理由を教えてもらい、絶句した。まさか元黄金聖闘士にまでストーカーがいるとは夢にも思わない。しかもストーキングしている相手は前教皇だ。
「老師がいなくてもシオン様は殺されないと思うけどなぁ。むしろサガの身のほうが心配だ」
ご老体のシオンはあっさりサガに殺されてしまったが、どう考えても今現在の若い肉体を誇るシオンにサガが勝てるはずもなく、返り討ちにされそうでアイオロスは心配する。童虎も一切容赦しないだろう。
アルデバランに教皇の間に行ったらどうかと促され、アイオロスは頷いた。
「堂々と前教皇に勝負を挑めばいいものを……卑怯者め」
玄武が侮蔑をこめてそういうと、アイオロスは誤解をといておくことにした。
「そうではないのだ。サガは……シオン様を見守っていると心が落ち着くらしいのだ。心の病気だから、そっとしておいてやってくれ」
そうやって甘やかすからつけあがるのだとムウは思ったが、アイオロスが悲しげな顔をしているので黙っている。
これから白羊宮に清掃職員が入るので、未だに寝ている貴鬼を放置して、ムウは玄武と夕飯の買い物に行くことにした。

 

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