小さな幽霊(その1)

 

・・・・・教皇の間から泣き声が聞こえる。

 教皇の間に幽霊が出るという噂は、瞬く間に広がった。女神のお膝元である神聖な教皇の間に、本来幽霊など出るはずもないのだが、噂がまことしやかに囁かれるほど、先のサガの乱で流れた血の量は多かった。

 噂の真相を確かめるべく、幽霊に心当たりのある二人が名乗り出た。黄金聖闘士のアイオリアとミロである。二人は同時にこう言ったらしい。

「俺に会いに来たに違いない!泣くなら俺のところで泣け!」

 アイオロスの幽霊が弟に会いに来たというのはともかく、カミュの幽霊がミロに会いに来たというのは、本人の思い違いも甚だしかったが、教皇の間で責務を果たす者たちにとって、黄金聖闘士が見回りに来てくれる事は大変心強かった。

 幽霊でもいいからもう一度会いたい、そんな彼らの思いが通じたのか、見回りをはじめてから1時間もしないうちに望む者は現れた。

 小さな足音が聞こえた。たよりなさげな足音は、まるで誰かを探しているように感じられた。そしてそれが子供のものであると気付いたのはアイオリアが先であった。時間は夜中の1時をまわっている。

「こんな時間に何をしている!」

 人気のない教皇の間にアイオリアの精悍な声が響く。獅子の声にかき消されたかのごとく、足音は消えた。

「馬鹿野郎!大声出すから逃げられちまったじゃねぇか!!」

 アイオリアの頭をはたいて叱咤するミロの声は小さかった。

「す、すまん・・・・つい。」

「幽霊だか子供だか知らんが、このミロ様から逃げられると思ったら大間違いだ。」

 頬を引きつらせ、ミロは足早に消えた気配を追う。例え何であろうと侵入者であることには変わりない。黄金聖闘士たちの目を盗んで十二宮を突破し、教皇の間に忍び込むなど、考えられないことだが、絶対はありえないことを、彼らは身をもって知っていた。

 教皇の間は彼らが想像するよりもはるかに広かった。長年聖域に住んではいたが、教皇の間に呼ばれるのは年に数回あるかないかで、しかも謁見の祭壇以外に入ったことなどほとんどない。迷子にならず侵入者を追跡できたのは、ひとえに研ぎ澄まされた勘のおかげであった。

「おそらく、ここだ。」

 アイオリアがそう指差す方向に、ミロは頷いた。普通の人間とは異なり、勘は信用に値する。唐草のレリーフが刻まれた扉の奥に侵入者はいるはずだ。

「アイオリア、ドア開けな。俺が捕獲してやる。」

 扉の前で、獲物を追い詰めた蠍は小さく唇を吊り上げた。

「おいおい、相手は子供だぞ。」

 子供を相手に本気になるミロをアイオリアは理解できなかった。しかし、ミロの瞳はすでに危険な色へと変わっている。

「俺たちの目を盗んで侵入する子供が普通だと思うか?。やらなきゃこっちがやられるぜ。」

「だがな、子供相手に黄金聖闘士が二人係とはどうかと思うのだが。」

「うるせえ、ゴチャゴチャ言わずに、さっさと開けやがれ。」

 ここまで闘志が燃え上がっては、もはや止めることは不可能と、アイオリアは小さくため息をついた。そして

「殺すなよ。」

 と、念を押し、ドアノブに手をかけ一気に引き開く。カギがかかっていなかったせいか、ドアは音を立てずに開き、そしてミロが勢いよくなだれ込んだ。

 だが、そこに人影は見えなかった。ミロの目に飛び込んできたのは、今にも降ってきそうな程、積み上げられた本の山であった。見えないからといって気を抜くほど、甘くはない。姿を消すことなど決して難しいことではないのだから。
 アイオリアは手にした燭台をかざし、かび臭い部屋の中を二人は見回した。おそらく書庫であろう部屋は、何処を見ても本しかない。研ぎ澄まされたミロの神経が、目に見えぬものを見つけたのか、アイオリアに指示を出す。

 ミロの指差す方向にアイオリアは燭台を向けた。

 蝋燭の炎に映し出されたのは、またしても本であった。しかし、ミロは一歩踏み出し声をあげた。

「姿を見せな!。ブッ殺されたくなかったらなぁ!!」

 二人は見た。星明りのような弱い光に包まれ現れた、小さな人影を。ミロは自分の言葉と裏腹に、凝縮した小宇宙を一気に解き放つ。蠍の爪は姿の見えない敵をも仕留めることができる。だが、ミロが獲たのは虚空であった。瞬時に反撃に備えて身を構えるが、敵の気配も殺意も何もかんじられない。

「チッ、消えやがったか。」

 獲物を取り逃がしたことに、ミロは悪態をついた。緊張を解き、肩を軽くすくめて振り返ると、口を開けたまま固まっているアイオリアがいた。

「おい、どうしたんだ?」

 ミロに鍛えあげられた肩を叩かれても、アイオリアはミロではないものを見ていた。

「・・・・あれだ。」

 アイオリアの声に、ミロは慌てて振りかえった。そして二人は同じものを見た。いや、見てしまった。


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