私はこうして立ち直った「この世に生まれてこなければよかった」

新宿家族会9月勉強会より 東京ドロップインセンター理事長 沢田儀雄さん

 私の生い立ちを振りかえると、6歳まで、どこで生まれて、どこで育ったのか一切不明です。「生まれて来なければよかった」と思うことがありました。
 20歳のとき50年配の精神障害者との出会いがあって、これがその後の私の人生にとって決定的なことでした。その人がいうには、「オレたちはキチガイではない。狂っているのは社会であって、法律が狂っているのだ」ということです。また、「精神病院には絶対行くな」「精神病について勉強するな。なんの役にも立たない」ともいいました。そして、そんなことを勉強するよりも社会学とか哲学を勉強しろというのです。

 私は当時20歳で、頭が柔らかだったからこうした話が何の抵抗もなくスース―と入ったんです。ですから、この当時私は精神病院とかには行かず、精神病としての治療は受けておりません。私の治療というと断食療法でした。最初は何度か失敗を繰り返しましたが、そのあと成功しました。この方法は全身の大掃除ともいうべきもので、細胞が入れ替わるものでした。これでものすごく頭が軽くなって、世の中はこんなにも朗らかなものかと思いました。精神障害者の方で、この治療法でよくなった人を数人知っています。ただ、この治療法はいい指導者のもとで行わないと危険が伴います。

 私はもともと人前で一言もしゃべれない人間だったのです。それでも、大人にはしゃべれないが子供相手ならなんとかしゃべれるかな、と思って始めたのが紙芝居でした。これをやっているうちに大人相手でもしゃべれるようになったのです。こうしたことが私の治療法といえば治療法です。
 そして先輩が社会学や哲学を学べというので日本学術会議の学習会にも参加しました。ここは日本の最高の学者が集まるところで、私は社会学、遺伝学などの学問を本格的に学ぶことができました。その中で、精神障害は遺伝もあり得るということでした。

 遺伝を認めるならば、じゃ、どうするのか。それは二つの方法がある。一つは環境を変えることによって人間というのは変わるということ。もう一つは本人の努力も大事だということです。この二つのことをクリアすれば100%とはいえませんが、相当の確率で回復するというのです。私はこのことを学術会議で学びました。

 私は29歳で東京に出てきました。東京に出てきましたら田舎とは環境がガラリと変わりました。そのことは私が本格的に自立したことも意味していました。だから、逆に東京に住む精神障害の方が田舎に移るとケロッと治っちゃうケースもあります。新宿区内のある女性が葛飾の方に職場を変えたら、全く正常な人になって、いまも立派に勤めています。環境を変えるのは精神障害の治療にはとてもいいことです。それもチョロッと変えるのじゃなくて大胆に変えるのがいい。

 私は精神障害だけじゃなくてあらゆる障害者運動に関わってきました。40年も前のことですが、ある新聞記者が私に精神障害について取材に来ました。その記者はその後、あの記事はボツになっちゃったと謝りにきました。当時は精神障害なんて偏見に凝り固まっている状態だったから仕方なかったと思っています。また当時、目黒区の小児科・久保正夫先生と植木等さんの父親、そして私の3人は小児マヒの生ワクチンをソ連(ロシア)から輸入して全国の保健所を通じて配布することもやりました。

 次に高田馬場駅で目の不自由な上野さんという方の転落事故があって、上野裁判闘争をやりました。これを契機に全国の行政は点字ブロックを採用するようになったのです。上野さんはいま、精神障害者運動のために私たちの活動を応援してくれています。そのほか水俣病闘争、薬害エイズの運動もやってきました。そして今も続けています。この間多くの人間関係ができました。こうした障害者運動においては、いかに人のつながりを作ることが大切かということを強調したいと思います。

 ところが1975年ですから今から約25年前、私は山の頂上から突き落とされ、谷底に落ちていくような、あるいは大海原の真中でポツンとおいてけぼりになったような幻覚に襲われました。それから嫌いなヘビの大群の中へ突き落とされて、ヘビが体中にまつわりつくような幻覚です。それが3年も続きました。

 ついに私も精神科に行きました。以来、服薬をするようになり今も飲んでいます。その後、医者から温泉治療がいいといわれ、知人の紹介で水上温泉で住み込みの形で長期療養ができました。それでわかったことは温泉治療は最低1ヶ月以上逗留しないと効果が出ないということです。

 また、医者は北国へ旅をした方がいいというので、私は日本を飛び出して3回もソ連まで行ってしまいました。1週間シベリア鉄道に乗って、毎日毎日雪と枯れた白樺林を眺めていました。恐らく普通の人なら飽きて飽きて仕方ないものだと思いますが、私は全くそれがありませんでした。その変わらぬ風景を見ていると精神が落ち着いていくのがわかりました。医者の指導は当たっていたのです。

 1993年、全国精神障害者団体連合会が結成されました。この年は世界精神保健連盟1993年世界会議が幕張メッセで開かれた年でもあります。また、この年の12月3日障害者基本法が施行され、ここで精神病者も障害者であると初めて認められたのです。明治33年3月10日に精神病者看護法が制定されて以来100年が経っています。この間の精神病者は犯罪者扱いされ多くの犠牲が強いられてきたことを忘れていけないと思います。そして今年、精神保健福祉法が改正されました。でも、これは部分修正です。私たちから見ると欠格条項が約100項目あります。まだまだ不充分な法律だと思っています。

 最後になりますが、その後「新宿あけぼの会」を発足させました。名付け親はここいる新宿家族会・斎藤元会長です。だれでも入会できる当事者の会ということでしたが、ところが、この新宿区には東京女子医科大病院、国立国際医療センター、それから東京医科歯科大病院とかあって、ここには精神科があり、クリニックもいっぱいあります。すると、新宿区内には東京23区はじめ、近県からも患者さんが通ってきています。それで、その人たちが「新宿」と名前がついていると、新宿区以外の人は入りにくいという声が出てきました。それで「東京ドロップインセンター・新宿あけぼの会」という、ちょっと長いですがこの名前に変えました。9月からは、ここの障害者福祉センターで集まっています。

 以上で私の生い立ちと自立に至った経過の話を終わります。何か皆さんにお役に立てられればうれしいです。(拍手)

編集後記

キンモクセイの香りが時折よぎっていく。齢を重ね、風景や周囲の人物がいかに変わっても、この香りばかりはいつの時代も変わらない。世の中が目まぐるしく変化する中で、この香りは唯一私に残された縦糸のように感じられる。

 8月の月例会が、フリートークであったことから、9月号は休刊とさせていただいた。一ヶ月休むと立ち上がりが鈍い。4ページの構成もその悪弊か。

 今月の沢田さんの講演は、やはり当事者の地についた言葉として、貴重であった。当事者は、我々家族とはある部分で対峙する。そしてややもすれば、家族が当事者=患者を指導する、あるいは労るような感覚を持つケースが多い。
 しかし、こと沢田さんに限って言えば、我々家族が指導を受け、労っていただいたような雰囲気である。さらに、個々の患者さんに対して、我々親が思い過ごしていたことや、余計な世話をしていたことも朧気ながら認識できた。

 中嶋さん(今月の言葉)の文章にもあったが、当事者の自立とは、「全ての人の一生は、消費者として権利の確立した人生だ。教えられたり、教えたり、選んだり、選ばれたりする権利があること」だと言い切っている。これは家族にとって大きなヒントである。