心理療法から診るひきこもり

7月勉強会より 講師 心理療法士 大賀達雄先生

 初めまして、大賀といいます。最初、ちょっと自己紹介をさせていただきます。私は、埼玉県にある済生会鴻巣病院というところで、臨床心理士という仕事をしています。実はそこで、主に〈精神疾患〉の人を対象に、家族教室というのをやっていまして、7年位になります。最近、新宿家族会の方に来てもらって、お話を聞く機会を作って貰ったんですが、たいへん好評でした。私たちは、第4土曜日に家族教室をやっていまして、1年間を前期と、後期に分けて5、6回位行っています。
 病院そのものは400床近くありまして、かなり大きいと思うのですが、済生会の中でも唯一精神科だけの病院なんですね。だから精神科しかありません。外来は内科もありますけども、ほとんど精神科だけの病院で、そこでは主に外来や、入院の患者さんの心理テストをしたり、あるいは、精神療法という形で個別に、また集団で治療を行っています。
 私は自宅は目黒なんですけど、障害者の人と繋がりを持ちたいということで、目黒で「目黒精神保健を考える会」という名前なんですが、学芸大学の駅の側にちょっと場所を借りまして、そこで、「クラブハウス・目黒」という名前をつけて、引きこもりの人を対象にしたり、あるいは、精神障害者、精神病の方たちを対象にした活動を少ししています。年に数回、精神保健関係のお話をしてくれる人を、これは、いろんな媒体を通して呼びかけて聞きに来てもらう、そういうような仕事をしています。  
 私たちの病院は、多分比較的いろんなことが自由にできる病院だと思います。東京都精神医学総合研究所の白石先生は私達の病院にボランテイアで、月に2回ぐらい来てるんですね。それは精神科医という形でなくて、先生の休みの時、主として土曜日に来ていただいて、閉鎖病棟がいくつかあるのですが、そこの患者さんがなかなか外に出ていけないというので、だったら自分が行ってあげましょうということで、そういう人たちを外に連れ出すとか、喫茶店に行くとか、将棋をしに行くとか、そういう活動を白石先生にお願いしています。
 それから、私は途上国の精神保健を支えるネットワークに関わっていますので、ちょっと、この説明をさせていただきたいと思います。主として、今関わっているのはカンボジアなんですが、そこでは、ずーっと長い間、虐殺があったり、内戦があったりして、精神科医療、そして、精神保健のいろんな活動がほとんどなくなっていた国なんですね。今、多少できてますが、私たちが最初(97年)に行ったときは、精神科医が全国で一人しかいなくて、外国のNGOが他の科のお医者さんを精神科医にするトレーニングしているような状況だったんです。経済的にも、もちろん貧困なので、そういう中である程度余裕ができないと、精神保健の政策というのを国が取り上げてこないんですね。カンボジアもそうですが、国として精神科医がほとんどいないという状況なので、そういう精神保健の政策というのは、なかなかできないんです。
 私ではないんですけども、たまたまそういう処に行ってみた所、やっぱり、精神保健の活動がなく、虐殺受けたり、長い間、内戦を受けたりしていて、そういう処ではウツ状態の人が多くて、診断したら、PTSDとか、そういうような診断名がつくような人たちが多いんですね。生活が苦しいから、そういう問題よりも、まず、どうやって生きていくかということが関心があるわけです。そういう国の精神保健は、外国のNGOとかで、日本では私たちのNGOだけではないかと思います。で、そういう所に着目して、今カンボジアにおいて、精神科の外来が全国に3ヶ所だけありまして、有名なアンコールワットの近くに、1ヶ所精神科の外来があって、そこの精神科の外来とタイアップしながら、5年間だけ、そこでプロジェクトを立ち上げて、精神科外来に通っている人たちのリハビリ施設を作っていきたいと思って活動しています。まだできていないんですが、現地に何人かのスタッフと、それから、カンボジアの大学の心理学科を卒業して、現地でNGOを作っている人たちと協力しながら、リハビリ施設を作ろうということで活動をしています。
 こういう途上国では、薬であるとか、いろんな生活必需品とか、お金を送ったりというような活動も一方では行われているんですが、私たちとしてはとにかく直接カンボジアにいる精神障害者に何かをするというのではなくて、カンボジアの現地でそういうことに携わろうとしている人たちに、私たちがもっている知識とか技術を伝達して、現地で医療関係者がそういう活動をしていくのを、側面からバックアップするというようなやり方で、今は5年間のプロジェクトとしてをやっているわけです。5年間たって私たちがいなくなった時に、また元の状態に戻ってしまうのでは困るので、そうならないように、間接的に教育するとか、建物を一緒に考えて建てるとかそういうような活動をしています。
 これは私たちが心理療法といっているものも、基本的には同じようなスタンスでやっていまして、例えば、患者さんに対しても、永遠に患者さんでいるわけではないので、患者さんが生活をしていく中で、あるいは又、心理的なストレスがあったときにうまく乗り切れることができるような側面から援助することを心理療法の第1の目的としているわけです。患者さん自身が自立できるような働きかけを援助するというのが、心理の仕事というように位置付けています。そういう観点から考えると、途上国支援やそういう精神科の臨床活動というのも、基本的にはスタンスはそんなに違わないし、そういう意味では抵抗なく途上国でもやれるし、それから、日本の精神病院でもやれるというように私自身は考えています。 

 前置きが長くなりましたが、「精神科から見た引きこもり」についてですが、いま、マスコミなんかではひきこもりの人が百万人もいるのではないかといわれていますけども、私自身は、病院でひきこもりの人と出会う機会はほとんどないんですよね。病院では家族の人に会って、相談を受けるのですが、ほとんど本人に会うということは少ないんです。                 
 私の経験では、ずーと引きこもってて、よくよく聞いたら、その人は強迫神経症じゃないかとか、不安神経症じゃないか、対人恐怖じゃないかというようなことで、何人かの人は家族の人とだけお話をしていて、しばらくして本人が来てくれるというようなことがありましたが、ほとんど家族の人との面接の方が多いというのが実情です。

◆ひきこもりの一番は何か
 ひきこもりに付いては、いろんな人がいろんな定義をして、社会的ひきこもりというようないいかたをしていますが、そこの定義をちょっと読みますと、何らかの外傷体験や挫折体験が原因で、対人関係や社会関係から引きこもっている非分裂病圏の人の生活状態をいいます。これに6ヶ月以上とか1年とか期間を限定している定義が多いと思うんですが、そこにありますように、非分裂病圏のひきこもりの人を対象に定義されていて、もちろん分裂病の人のひきこもり状態というのが当然あるわけなんですが、このようなことについて、少しお話したいと思います。
 ここに、病気の名前や診断名ではありませんと書いてありますが、今、世界的に診断的基準というのが、アメリカだと、DSMというのがあるんですが、WHO世界保健機構が作っている診断基準にICDというのがあるんですけど、そういうのには、ひきこもりという診断名というのは当然ないわけなんですね。だから、ひきこもりというのは状態像というか、現象というような理解が大事かなと思います。それで、具体的に家族と顔を合わせない人とか、家から1歩も外出しない人とか、外出はするけども人との接触が苦手な人とか、アルバイトをしていても対人関係がスムースにいかない人とか、となっていますが。そういうような、引きこもりの定義があって、あと、ひきこもりというようにひとくくりに考えてもその状態とか、どうしてそうなって、どんな経過をたどっているのかということは、その人さまざまであるというようなことが書いてあると思います。それであと、下の所にしばしば見られる生活傾向というのが7つ書いてありますけども、そういうように様々な状態があるわけなので、そういうような人たちが同じような生活傾向というのはありえないわけです。その中から、取り上げて比較的にこういうような生活傾向の人が多いということが書いてあるわけです。
 傷つきやすい自尊心とか、自己評価の低さ、自信がない、周囲の評価を過剰に気にする、それから、こうありたいという自己イメージと現実とのギャップが大きくて不全感が強い、自分のことを理解してくれない、受け入れてもらえないという体験に対して過敏になっている、完全主義、几帳面、こだわりが強い、それがすごく過剰に表現されているのが、○○神経症というような診断に繋がっていくのかもしれませんが、ここでは、性格傾向というので7つ取り上げています。
 それで、ひきこもりにいたる経過と心理状態ですが、きっかけは、先ほどの定義にありましたように、何らかの外傷体験とか挫折体験がきっかけになっているのはないかということが一番に書いてありました。そういうひきこもりという状態に前後して、いろんな神経症の症状、視線恐怖から強迫行動までありますけども、あるいは、身体的な症状がみられるということがあります。
 3番目にそれに伴って、不安感、緊張感やイライラ感が出ている。
 4番目にひきこもりですから、さっきの定義のところで、外出ができるとかアルバイトができるとかということなんですが、多くは、年齢が低ければ不登校だったり、年齢がもう少し高くなれば出社拒否になったり、そういう現象が起こっているということです。
 5番に、ひきこもるということでどうにかバランスが取れると、いくらか平行を取り戻せる、ということがあります。
 次は焦りとか罪悪感とか、絶望感だとか、孤独感だとかそれから、自分は異常な人間じゃないかと、普通のことができない人間じゃないかとかというように考えて、自分のことを追い詰めていっている人が多かったり、あるいは、家族とか友達と顔をあわせられない気持ちなんかも起こってくる。それで、家庭内暴力とか、物にあたったりとか、そういうように、気持ちの上で追い詰めれらた時に、現れてくるというようなことがあるわけなんですよね。
 これは一つひとつの心理状態なんですけども、内的なひきこもり、外的な引きこもりが繋がっているということがありますが、いわゆる社会的引きこもりという言葉から連想されることは、学校や会社に行かないで家に閉じこもっているというのが、社会的なひきこもりということに該当していくわけなんです。
 そうではなくて、例えば、アルバイトをしたり、外出をしたりという、そういう現象的に家に引きこもっていなくても、無理して学校に行ってたり、会社に行ってたりしてる人たちも社会生活を送っている人もいるわけです。それから今の若い人たちに多いといわれていますが、ほんとうの自分が傷つくのが怖くて、本心を外には出さず、表面的に周囲に合わせて付き合っていく、ですから、現象からに見れば家に閉じこもっているわけではないので、外的なひきこもりというのとはちょっと違うのですが、そういうタイプもあります。
 今、フリーターの人が多いと思うんですけども、大学卒業したり、高校卒業したりして、ある程度就職年齢に達しているのに就職はしたくないという人、又、フリーターの人たちも幅広くとってみると内的な引きこもりということに繋がっていくんではないかと思います。そういう意味では、引きこもりというのも幅が広い概念だし、どこで線を引くのかというのも、なかなか難しいのでないかと思います。

◆ひきこもりを巡るいくつかの不安
 例えばひきこもりを続けていると社会に出られなくなってしまうのではないかと、もともと対人関係がうまく取れない人が引きこもりになっているんではないか、といった不安があります。
 そうであれば、そういう人たちは、待っていてもよくならないのだから、人間関係をうまくできるような働きかけするとか、治療を受けるというようなことが必要ではないか。引きこもりの人が犯罪を犯しかねないんではないか、ひきこもりに対して社会の見方とか、考え方があるのではないかと思うんですね。
 登校拒否を巡って、たいへん年代が古いんですが、登校拒否は多分60年代くらいから始まったと思うのですが、ちょうど60年頃、日本で初めて登校拒否の論文を書いた人がいて、日本で「児童精神医学会」というのが作られたのが60年代の初期くらいなんですね。ちょっと脱線ですけども、その時は何が対象になっていたかといいますと、一方では登校拒否が対象になり、一方では自閉症という概念の人たちが対象になって、児童精神科医が扱う対象は自閉症か登校拒否かで分かれました。そのころから登校拒否が増え始めた時期なんですね。高岡健という岐阜大の精神科の先生は大体4期に分けて、最初の精神医学化というのは、登校拒否というのは精神医学の範疇で考えていったほうがいいのではないかということで、それは神経症の症状であるという考え方で、いろんな人たちが60年前半から、65、6年に論文を書いていたんですが、その人たちの観点というのはほとんどが精神医学の範疇で登校拒否を書いていこうというような考えで書かれていたと思います。
 その後、すべてが神経症ということで考えられなくなってきて、例えば、精神医学化と最初に考えたのは、神経症ですから、本人に問題があると考えたわけなんですけど、その次の段階では、本人に問題があるというよりも、家族であったり、あるいは学校であったり、そういう所に、問題があるわけだから、必ずしも、本人を神経症とくくって、問題にするだけではいけないんじゃないかという反省が生まれたのが70年頃からです。  
 それから次に高岡さんがいう偽精神医学化というのは、偽の精神医学化という意味なんですが、具体的には80年代くらいだったと思いますけど、戸塚ヨットスクールなど、あたかも医学的観点から脳の異変があって忍耐力が欠如していて、それで情緒障害をうんでいるという考え方を出してきている人たちがいます。そういう観点だけでは、治療も十分できないというところから、その後、反偽の精神医学化ということで、例えば家族会であるとか、当事者の人たちが、ほんとうはそうでないんだということを言いだして、そういう点に重きを置く考え方がその後生まれてきて、高岡さんは、こういう4つの観点を時代的に変化があるものと考えたんです。
 登校拒否はいろんな観点があって、極端には4つのレベルでいろんな日本にある治療法が分類できると考えていったほうがいいと思います。登校拒否だけではなく、本人や、家族や、あるいは、社会とか、学校とか、そういうようなところを問題にしていくという、そういうような観点が登校拒否についてもいわれていますし、ひきこもりについても、同じようにいわれているわけです。
 ひきこもりを精神医学では、どのように見ているかということですが、いろんな立場があるんで、その内の一つだけ取り上げたいと思います。
 まず分裂病質パーソナリティーをですけども、パーソナリティーというのは、分裂病の人の病前性格といわれていているんですが、これは、分裂病でも何でもないんです。内向的であったり自己愛的 自分がいろんな能力があって、いろんな賞賛があって当然と思ってたり、情緒的にちょっと欠けていたり、他人から孤立していたり、あるいは冷淡であったり、そういうような特徴が上げられるのが、分裂病質のパーソナリティーなんです。これがなんで引きこもりと関係しているのかといいますと、そういうような人たちは、他人と関わっていくとか、他人に愛着を示すとか、そういうような願望を、もってて当然なんですが、ただ、それを現実的に実現しようとすると、自分の自己愛的な欲求が関係している相手を傷つけてしまったり、相手を失ったりする、そういう葛藤があります。その欲求を実現しようとすると、それが、うまくいかなくなるんじゃないかという葛藤に悩まされるパーソナリティーの人たちがいて、それを守るために情緒的に引きこもるというのが分裂病質パーソナリティーから見たひきこもりということです。自分自身が傷つくのをを守るという意味のひきこもりといえます。
 そういう人たちの精神力動ということで、自己愛的、万能的な自分、賞賛を受けると思う、内的な世界を傷つかないように保護するためにひきこもっているんだと。精神医学、ことに精神分析からみるとそういう観点が上げられるんじゃないかと思うんです。ですから、いろんな人たちがひきこもりについては定義をしたり、こういう対策が必要なんではないかといってますけども、精神医学的にみると、そういう、自分の内的な世界が壊れないように、それで現実にさらさないで保護していくというのが引きこもりの精神的なメカニズムというように考えるのが、比較的な共通事項だと思います。
 
◆ひきこもりをめぐる話題
 芹沢俊介さんという人と、「ため塾」を主宰している工藤さんと、「ニュースタート」を主宰している二神さんという人の考え方を紹介したいと思います。
 芹沢さんは評論家ですが、最近『引きこもるという情熱』という本を書いています。臨床的な実践はないんですが、いろんな実践報告とか、引きこもり関係の本を読んで、自分だったらこういうふうに考えるというのを打ち出しています。ひきこもりには、正しいひきこもりの仕方と、そのプロセスがあるんだというのを芹沢さんがいってて、さっき、登校拒否のところで上げた、高岡先生は、「芹沢さんの考え方は基本的に正しいのではないか」と、それを臨床的な立場で支持している人もいるということで、それなりに説得力がある考え方なので、少しだけ紹介したいと思います。
 正しい引きこもりの仕方があるという前提なんですが、引きこもりには、現在の社会的な背景があると。これはいろんな人が今の世の中は引きこもりが強要されやすい社会的背景があるということですが、芹沢さんは3つ上げています。 
 一つは、人は人、自分は自分という、分離とか、孤立の感覚が今の時代ははっきりしている。それは引きこもりの人だけではない。例えば人と人の関係よりは、個人と物との関係、ウオークマンでも、携帯電話でも、まあ、何でもいいのですが、自分が持っている物との関係が自分を確認できる。心理学的用語でいえば、アイデンティーティーを保証してくれるもので、そういう引きこもりにならないような人も物との関係で自分を確かめているというのがあるんですが、ひきこもりの人は、携帯電話でも、ウオークマンでも、MDであるとか社会の中で提供される物を使って、自分らしさをつくることができなかった人たちがどうも引きこもるんじゃないかということを一つあげているところなんですね。
 2番目は、これもいろんな人がいると思いますが、今は学歴の社会で、教育年齢が昔に比べれば伸びてきている。それで、できるだけいい教育を受けて、いい学校に行くという、そういう所に関心が集中していて、その中で、自分のために何かするという時間が充分に持てない状況になってて、学校に入るために勉強しなきゃいけない、塾に行かなきゃいけないというようにつながっているので、ドンドン自分自身が無力化して、昔だったらもっとあっただろう子供自身の社会的な能力、要するに社会的な能力というのは人とコミニュケーションをする能力だと思うんですけど、そういうようなものが弱められているんじゃないか、それも、引きこもりの人だけの特徴的というのではなく、今の時代がそういう時代なのではないかというのが2番目の背景なんですね。。
 3番目の背景としては、青年期と成人期の境界がなくなって、以前にも、モラトリアムという言葉があったと思いますが、高校、大学を卒業しても、自分が何を選んでいいかよく分からなくて、モラトリアムというのは猶予する期間なんですけども、大学がその猶予期間にあたっていたり、卒業後であったりさまざまだと思うんですが、20代くらいまで、30代近くまで、モラトリアム期間が延長してきて、そういう考え方があって、成人期を迎えていくんですが、それがさらに、最近では青年期と成人期の区別が20歳なのか30歳なのか、それよりももっと上なのか、そういう区別がはっきりしていません。

 さっきフリーターのことちょっといいましたけど、フリーターもひきこもりもそういう社会的なモラトリアムという猶予期間ということだから、そのあとに、モラトリアムがなくなって、決断したり、選択したりすることが前提にしているんですけども、モラトリアムという期間が、今は、青年期と、成人期の区別がなくなっているんのではないかといわれています。、そういう中で、フリーターもひきこもりも社会全体では、そういういわれ方はしないけども、個人的なモラトリアムの作りかたとして理解することができるのではないかと、そういうようなことが社会的心理学の背景としてあげているわけなんですね。さっきもちょっと触れましたけど、会社に行ってもひきこもり状態があるわけですが、学校に行ってても、外出をしてても引きこもりの状態があるとするのなら、ひきこもりは幅が広いわけで、何で人がひきこもりをしなくちゃいけないかということを、芹沢さんは二つあるといってます。
 一つはさっきの精神医学的なひきこもりとも繋がっていて、一人になりたい時になれなかった状況が続いたり、これ以上そういう場にいたら自分が傷ついたり、自分が自分でなくなってしまうという状況が生まれてくる。そういうとき、人は引きこもってしまうんじゃないかと。学校も職場も、なかなかそういう自由を許してくれるような場所ではないので、そこから退却していくという引きこもりが生まれくるんじゃないかというのが一つと、もう一つは、今のことと関係してくるんだけど、自分らしさを保証できるような場が、今は、比較的作りにくい。そういうようなことが、うまくできない人たちは、職場から、学校から、場合によっては、家族からひきこもっていくと。

 ではどこに引きこもっていくのかといいますと、社会から、家族からひきこもって自分の部屋にひきこもっているわけですけども、芹沢さんはそこで引きこもりの人も、内心では、こうしなければいけないとか、そういう社会的な規範であるとか、社会的な価値観であるとか、そういう教育とかしつけの中で共有してきているわけで、社会的な自己からもひきこもっていかないと、ほんとうのひきこもっているということにはならないと考えるわけですね。ですから、自分の中にある社会的な価値観から、さらに自由になる、そういうような場所に引きこもってしまう、そういうのを自己領域と彼は呼んでいるわけなんです。
 プロセスがあるというように書いてあるんですが、引きこもり始める往路と、引きこもりに入っていく時期と、自己領域に滞在する、うまく引きこもれているそういう潜在期があって、それから引きこもりから離脱していくそういう帰路があると、それはもちろん個人個人によって違うが、中には2ヶ月の人もいるだろうし、10年の人もいる、そういうプロセスをたどっていかないと、途中で社会と関わらせようとしてもうまくいかないのではないかと。芹沢さんは臨床家じゃないからそれは理念として、そういうような考え方をしているわけなんです。
 ですから自己領域と考えると、社会的な規範とか社会的な価値から離れて、本来の自分自身にまで入りこんでひきこもっていく、そういうのが必要だと、「往路と潜在期と帰路」と分けた意味合いなんですね。ですから、彼が関わる時のポイントというかは、どういうふうに関わったらいいのか考えるときのヒントとしては、一つは、ひきこもっている人がそのひきこもりのプロセスが、今どこにいるのか知る必要があるのではないかと思います。ひきこもり初めなのか、それとも充分引きこもっている時期なのか、あるいは、ひきこもりから抜け出そうとしている時期なのか、そういうようなことを知ることが大事だし、2番目にはそれぞれのプロセスにおける引きこもり状態の中で、どのように家族とか、周りの人と関係をもっているのかということを知る必要があると思います。
 3番目にはそういうようなプロセスを、引きこもっている本人がどのように思っていて、どうしたいと考えているのかというのを知らないと、仕事をさせないといけないと思って、むやみにアルバイトを見つけてきて、それに誘ってもうまくいかないんじゃないかということをいってます。
 それで、芹沢さんが比較的評価している人が、「ため塾」の工藤さんという人と、ニュースタートの彼と、その二人は基本的には考え方は同じで、引きこもりをなるたけ長くさせないで、とにかく引き出してしまおうと、芹沢さんの言葉によれば、「引きこもり引き出し人」というのが、工藤さんと、二神さんだそうです。
 それで、工藤さんはこういうような比喩をいっているんですけども、鍵をかけてかくれんぼしているうちに、自分では鍵に手が届かなくなった状態がひきこもりで、それを、誰かが外から鍵を壊して引っ張り出すしかないと。それで、引っ張り出してもらったら、外である程度いろんな活動ができるような保証を与えられる場を作ってあげて、そこで経験を積んで社会に出ていけるようにしていくしかないだろうというのが工藤さんの考えかただし、ため塾がやっていることはそういうことではないかと思います。
 それから、ニュースタートの二神さんも、ほぼ同じような考え方で、あまり長いこと引きこもらせておくのはよくないということで、二神さんは大事なことは三つあるといってます。
 一つは家族と離れること。工藤さんのところも、家族と離れてため塾というところで寝泊りをして共同生活するわけですけども、ニュースタートもそうで、家族と離れること、同世代の仲間を作ること、人間としての労働と学びにつくこと。要するに工藤さんも二神さんも家族と離れて、同世代の人と共同生活するなり、関係を作って労働したり、仕事をしたりすることが大事なことだと考えているわけです。二神さんはそれをするのに、3つの方法があるといってるんですね。一つは、「若者の訪問部隊」というのをその引きこもりの人に対して作っていて、「メンタルお兄さん、お姉さん」といってるらしいんですけども、「メンタルフレンド」というやり方をとっているところもありますけども、メンタルフレンドではないんだと。とにかく、そういう人たちが、引きこもりの人のところに行って、ひきこもりの内的な心の問題には介入していかないんだと、介入していかないのが大事なんだと言っているんですね。深入りしないということで、メンタルフレンドと言う言葉を使っていないんですけど、介入していくとそこでいろんな葛藤が生まれたり、転移が生まれたりして厄介なことになってしまうんで、そうでなくて、もっと表面的にあっさりしていくということが大事だということです。
 2番目はため塾と一緒ですけども、若者達が寝泊りできる場所を作っていくというのが2番目で、3番目が仕事とか、労働とかということで、「福祉コンビ二」というのを作って、そこで、いろんな仕事をする経験を積ませていく、そういうような観点で、半年とか1年間は見守っていてもいいけど、それ以上は働きかけて、そういう所で共同生活するなり、労働の第1歩とかそういう経験をしてもらおうということです。
 ひきこもりの人を対象にしたフリースペースをやっていまして、家に閉じこもっている人はなかなか出て来れませんけど、ここまで出て来れる人を対象に毎週水曜日の午後の時間帯に、4、5人くらい集まってきて、最近はスポーツとか、パソコンとか、いろんなことを、その時その時の要望でやっています。
 それでやっぱり病院ではなかなかひきこもりの人と、かりに来たとしても、私は治療者で、引きこもりの人は患者さんという関係でしか話ができないので、そういう意味では限界があると思います。
 こういう場では、私は昼間仕事してるんで、フリースペースには出ておりませんけども、彼らと話しをすると、その時は、私がそういうところで働いているのを知っているんですが、もっと違った関わり方ができてきて、そういう中で彼らと話をしてみると、さっき自己愛的と書いてありましたが、彼ら自身も仕事をしたいとか、又、いろんなとこに行きたいという希望がたくさんあるんですね。彼らもなかなかハードルが高いというか、何でもいいから仕事をするということにならないわけで、彼らなりにこれくらいのところでやらなければ納得できないというのがあるらしくて、やっぱりそれをどういうふうに自分の中で納得していくかが、一つの課題なのではないかと彼らは言っています。
 もう一つ、なかなか、人間関係がうまくいかないわけで、さっき、二上さんのところでちょっと触れましたけども、メンタルの部分でどうしても、人と会うと関わりができてしまうので、メンタルの部分でいろんな問題がフリースペースのような場だと、男の人が比較的ひきこもっていて、手伝ってくれてるのは大体同世代の女性が多いです。そこの場を離れて広がっていくことがなかなかできにくい、そういうような人間関係的というか、いろんなことを相手に期待しすぎてしてしまうので、そこで手伝ってくれている人たちも、なかなかそこまでは付き合いきれないと、そういうような所がフリースペースなんかで私が体験したり話しを聞いたりしている中では二つくらい特徴的なことがあるのではないかと思っています。
 芹沢さんに関しては、12月の7日、ちょっと先なんですが、目黒にお呼びして、ひきこもりの講演会をやろうと思っています。まだ場所は決まっていないんですけども、もし、よろしければいらしてください。
 きょうは精神病領域以外のところでの引きこもりについてお話しましたが、精神病領域の患者さんの場合はご本人が引きこもっていますから、ご家族と面接をするしかありません。もしご本人が来られたときは引きこもりから立ち直りつつあることになりますから、そこでは私が面接をして、医師の方へ回すという流れで治療が進められます。
 やはり分裂病圏での引きこもりでは、病院も往診が困難な状況にありますから、家族としては地域の保健所にお願いして、そこのワーカーさんや保健婦がお宅に訪問して、何回か面接を行ってから、分裂病と判断されれば、保健所が入院のためにつなぐということが行われています。これにはうまく行く場合とそうでない場合があります。
 そうのような場合というのは急性期にあることが多いので、医師が、つまり薬物療法が先攻されるということで、我々の臨床心理の出番はなくなります。そうした時に心理テストや面接を行うことで、かえって症状を悪化させてしまうというこがあります。一部にはこうした状況でも体勢を整えて精神療法として面接を行って、治療に入るという病院もあるようですが、私の病院では行っていません。
 というのは、特に分裂病圏にある人は、こうした面接や、私たちの専門領域であるロールシャッハテストという、左右対象の図を見せて、その反応からその人の人格や情緒面の不安定度などを判断するものですが、これなどもテストをしたということでかえって症状を悪化させるということがあります。
 しかし、心理の分野では二通りの段階のようなものがあって、一つは表面的な問題について診断を行う場合と、よりその人の内面的な部分にまで突っ込んで診断するものがあります。前者の場合は、毎日の生活の現実的な部分でのお話で、例えば一日の過ごし方とか、どんなことが生活しずらさになっているとかですね。で、それをどう解決していくのか、という具体的な問題についての面接となります。
 安定期に入ってからは、私と看護婦とが家庭訪問をして、面接を行い、通院等外出へ導くということを行う場合があります。しかし、ここでも分裂病圏の場合内面的なところでなく、表面的な部分で面接を行います。
(紙面の都合で質問は割愛させていただきます)

テープ原稿作成 石田澄江(北区・豊島) 

勉強会講演記録CDの2枚目が完成しました。
フレンズ編集室では講師の先生方の講演記録を生の声で聞いていただこうと、CD制作を行っていきます。
まず第1弾として、9月勉強会で講演していだいた曽根晴雄さんです。詳細

タイトル『ちょっと私の話を聞いてください』  
 =聞けば見えてくる・精神分裂病当事者が語る患者の本音=

 家族は患者本人の気持ちを知っているようで理解できていません。二十数年間この病気と戦って来た曽根さんが、自らの体験をもとに訴える精神病者の苦悩、怒り、病気のこと、希望、それはすべての精神の病いに侵された人たちの声を代弁しています。
 また、当事者仲間の先輩として語る内容は、回復しつつある皆さんのお子さんが聞いても大いに励まされます。
 そして誰よりも聞いてもらいたいのは、分裂病を全く知らない人たちです。”もしあなたのお子さんが病気になったら”という目的の他に、各地で取りざたされる障害者の事件の度に生まれる誤解や偏見を防ぐためにです。一般の方に呼びかけてください。

第2弾は
「心の病を克服 そして ホームヘルプ事業へ」 
大石洋一さんです。詳細

収録分数;61分 CDラジカセ、パソコン、カーステレオ等で聞けます。
価格;各¥1,200(送料共、2枚同時申込の場合2,270円)
   申し込みはフレンズ事務局へ E-mailでお申し込みください。frenz@big.or.jp
発売:平成14年1月
企画・制作 新宿フレンズ編集室
(新宿家族会創立30周年記念事業)

編集後記

 新宿区精神保健福祉連絡協議会の要綱が策定、施行されたのが平成四年。それからちょうど十年後、具体的な委員会がこの七月にスタートした。
 これに伴い協議会に「精神障害者ホームヘルプに関すること」の専門部会が設けられ、これもさる八月初旬にホームヘルプサービス検討委員会がもたれた。

 他の障害者ホームヘルプサービスの実施状況を聞くにつけ、精神障害者のホームヘルプサービスも待ち望んでいたことである。
 しかし、精神障害者が望むサービスとは何か、については漠然としたところがあった。というか、精神障害者の症状が百人百色と言われるように、サービスへの期待も様々といったところではないだろうか。

 区が提起したサービスメニューは家事に関すること(調理、買物、洗濯、掃除等)と相談及び調整に関すること(生活、身上、介護等)となっており、それは他の障害者へのサービスとほとんど変わりがない。そうした中で、家族会での要望を聞くと圧倒的に多いのが「話し相手になってほしい」といった心理的・精神的援助である。

 これは当然といえば当然である。精神障害の場合、身体的には問題がないといっても差し支えない状況で、その名の通り「精神」的な障害なのである。
 精神障害の場合、単に医学的な症状を治めるだけでなく、「生きがい」「充実感」「満足感」といった精神的な健康を高めることによって、回復があるとされる。

 協議会の目的が「地域ケアの充実及び区民の心の健康づくり」であれば、この辺に一考を期待したいものである。             嵜