「精神障害者が働くことの意味」

9月家族会勉強会 講師 社会福祉法人 かがやき会理事長 外口玉子先生
      〃  かがやき会麻の葉クラブ 小野寺麻紀さん

小野寺さん きょうは外口が少々遅れますので、それまで私たちが働く就労センター「街」についてのビデオをご覧いただきたいと思います。  

 新宿区下落合に就労センター「街」という精神障害者が働くことをテーマとした施設があります。こちらではパン焼きとか喫茶のサービスとか「街」の施設内の整備といった仕事をメンバーとなって行っています。この障害者福祉センターの売店にも「街」で焼いたパンが販売されています。

 社会福祉法人かがやき会は1985年くらいから精神障害者を対象に高田馬場で活動が始まりました。最初は自宅を解放して、病院から退院した人を住めるような場所を提供するという方がおりまして、その方を中心に有志の方が集まってさらに発展してきたものです。現在、かがやき会は福祉ホーム、作業所、生活支援センター、中高年の女性を対象とするグループホームといった活動と運営を行っています。そして2000年から就労センター「街」の運営も始まりました。去る5月24日には「街」の3周年の記念行事も行われました。ここではメンバーさんとスタッフが「働くこととは」というテーマについて考え直す機会となりました。ここにそれをまとめた冊子がありますので、後でご覧になってください。

 それで、その3周年に当たりまして、記念行事に参加していただいた方々に「街」がこれまで何を行ってきたか、これから何を目指すかといったことをビデオにまとめましたので、これからご覧ください。

(ビデオ放映)

会場からの質問 就労センターへは誰でも入所できるのですか?

小野寺さん 入所される方は色々な方がおります。現在別な作業所に通っていて、こちらに見学に来て入所したいという方も多くおりますが、「街」には定員というものがありまして、即入所というわけにはいきません。入所に当たってはまず面接を行います。ここでは、ご本人がこれまで関係してきた保健師さんや看護師さんなどと「街」のスタッフと面接を行い、ご本人がどのようなことをやってみたいのか、何を大事にしたいか、そのあたりの確認をしてから入所していただくようにしています。

質問 ビデオの中で見学者が出ていましたが「街」の見学はどうすればいいのですか?

小野寺さん 突然ではなく、まず電話でお問い合わせてください。来所に当たってはご本人さんだけでなく、関係してきた保健師さんなどと一緒にきていただきたほうがいいです。

質問 入所となったら主治医の診断書なども必要ですか?

 そうですね。入所時に医師の意見書が必要です。それでは、外口が参りましたのでお話の方を始めさせていただきます。

外口先生 きょうは皆さんとフリーディスカッションのような形でお話ができればと思いますが、それでは、そのきっかけとなるようなお話を5分ばかり行います。そのあとご質問やご意見を伺いたいと思います。

 まず、私は精神障害者が働くということは、急性期の症状が治まってきて、回復してきたので働き出す、ということではないと考えます。働くということは捉え方として広い意味があります。社会通念として働くということは報酬を得るとか、自分の生きがいとなる仕事を行うという考え方があります。

 しかし、私たちの「街」は部分的にいろんな自己発揮の場であり、生活のリズムのつかない人が、仕事という責任ある役割があることで朝の起床がきちんと行うようになる、そういう生活全体のメリハリをつけるために出向く場としての働く場であるとか、あるいは仲間と共同で作業をし、支えられることが、その人にとっての病気を克服していく上でいい体験となるとか、働くということには幅広い捉え方があります。一般社会でいう一人前で働くというイメージではなくて、働くということのなかに「加わる」という概念で考えたとき、その人にとってどういう助けとか、支えとか、体験になっているか、ということを私たちは重視します。ですから、こういう状態になったら働けるとか、こうやれば一般就労になるとか、段階的な方向ではなくて、働く場をどう使えるかが大事だと思います。 

 しかし、そこにはある程度の前提というものがあります。治療関係といいますか、自分が病気であるということを多少なりとも認めて、治療を受けていることを自分にとってそれは妥協点だと、その薬を飲むことでやりたかったことの一部を成し遂げるんだ、そうした折り合いをつけることができる人であることです。

 それは誰でも認め難いことですね。心の障害だと言われたら、自分の感じていることが「おかしい」と言われたら、人間は誰でも認め難いことです。感じ方が偏っているとか、過敏過ぎるとか、全て周りから否定されたら、では自分はどうすればいいのか、という凄く不安になります。ですから、そうした不安に対して、それをある程度認めても自分は生きていく価値があると、どこかで自分の自信を持たないと障害と認め難いものです。

 やはり私たちが当事者とつきあう中で、これだなと思うのは、治療を認め、それと折り合いをつけて、自分が当初描いた生き方よりはちょっと落として、不本意ながら妥協して、こうした生き方をしてみるかという折り合いがついた人、つけようとしている人です。

 それからもう一つは誰か一人でも「この人だったら自分を不利にしない」と思える人を持てるかどうかです。苦しい時にその苦しみをストレートに話せる人を身近に持っているか、あるいは私たちの支援センターのような場所で話せるかが決め手だと思います。

 それは、当事者は常に一定してそうした感覚が保てるかというと、そうではありません。絶えず揺れ動いています。一見、ご家族からみると毎日同じように見えるかも知れません。しかし、当事者の心の中はぐらぐら揺れ動いています。それはまた、相手に対しての感情の表現ができないことでもあります。

 よく私たちの家族会でお母さん方が言うのは何をしてあげても当人たちから「感謝がない」と言われますが、でも、ご本人の心の中は揺れ動いていて、感謝というよりは、この人がいなかったらどうにもならない、と感じています。でも、それを表現できないのです。私は時にはそんなご本人に向かって「それじゃ生きにくいわね。もうちょっと気持ちが伝わるように言ってよ」なんて言うこともあります。

 また、他人と行き会うと他人は自分をどう見ているかということに反応しています。だから、相手がちょっと語調がきつかったり、非難がましく聞こえたら、それはどう思うかではなく、すぐに反発となって「なんだそれは」となってきてしまう。それは受動性とでもいうのか、そういう面があります。一見攻撃的に見える人も最初は受動的です。そういう人と人との関係の持ち方の偏り方というのか、受け止め方みたいのがブレるというかズレますね。つまり、相手の眼差しに弱いのです。

 だから、「私たちはそんなつもりはない」って言いたくなってしまいます。すると、「そんな風に否定するのはズボシだからだ」と反発してきます。普通なら「どうして、そんな僻(ひがみ)みっぽくなるの!」と言いたくなりますよね。でもそんなことは言えないから、私は「え~~?、そうかな~?、そんな風に受け取られるのは悲しいな」というように、自分の気持ちを伝えるようにします。そのように受け取られたことは「辛い」とか「悲しい」とか「残念だな」とか。「私はどうなのか」を伝えます。そうしてご本人との気持ちのキャッチボールをします。

 それを逆に相手に対して「そんな受け取り方はダメよ」などと本人の言動を否定するような言い方はしません。1回でストライクを投げようとしてもダメです。何度かボールをやり取りして、最後に決め玉を送るというやり方です。ご本人たちは相手のストライクに圧倒されやすいのでしょうね。

 私の場合はもう長い付き合いで、そんな話になったら「そうかな~、そう思えないけどね~」、なんて答えると、スーっと去って行ってしまったりします。でも中には「しらばっくれるな!」なんて言う人もいますね。(笑い)あなた(小野寺)さんはよく言われていますね。若くて優しいから言いやすいのですよ。(笑い)

 でも、そうして何でも言える状況というのがいいですね。安心して言える相手がいるということです。その辺から自信が生まれて来て、やがては「責任者としてどう思うんですか!」なんていう発言も出るようになります。

 この間も同僚に対して「あのように何もしないで、ブラブラしている彼を注意しないのか」という人がいました。そんなことより「自分のことを考えろ!」と言いたくなりますが(爆笑)、そんなことは言えないから「うーん、そんな風に他人のことが気になってしまったら辛いね~」と言って、「ここはあなたが楽になるためにある場所なんだから、自分が楽になるように考えればいいのよ」と答えました。

 自分の感情を表現するのに言葉に出来なくて、他人を引き合いに出して、否定的に言って、自分の感情を伝えようとしていることがありますね。ちょうど玉突きビリヤードの球みたいに、一度別な球にぶつけて、本当の言いたいことを伝えるような。でも、その心理がよくわからないのです。ですから、私たちはできるだけそのような状況にならないように、ご本人がストレートに、直接私たちに何でも言える環境を用意しておくことだと思います。ゆがまないようにです。それにはスタッフが役割を持ち合うということです。そうした役割の違うスタッフがチームを組んで当たるようにしています。

 ここで言いたいのは人との関係の中で取り交わしていることが違って受け取られてしまうような人が、他人と組んでパンを焼いたり、お店に来た全く見ず知らずのお客さんにお茶を出す、そういうことはとても緊張することです。でも、これまで、何でも他からやってもらっていた人が、他人に役立って、商品を渡してお金をいただく。これは、関係が逆転するわけです。受動的であった生活からこんどは自らしてあげる生活に変わったわけです。

 「街」では緊張はするけども、そういう体験が味わえる場であるということができると思います。「働く」ということが、皆さんがお考えになっているような、こう、ちゃんと働いて報酬を得て、というのではないですね。人と人と共同して他の人に自分がやってあげられる、役立つ体験、そこから生まれる「自信」、そして、ひがみを持たないで済む生活を味わうことができる場であると言えます。

 私たちは何はともあれ「自分自身を認めている」わけです。しかし、メンバーさんには奥深いところで自分を認めがたいと感じている部分があります。「こんな自分じゃないんだ。ほんとはこういう自分なんだ」ということで現実を否定しているんです。だから自分を否定し、他人も否定してしまう。毎日の経験が積みあがらない。成長が止まってしまう、そういうことが言えると思います。

 自分とは違う人との関係を数多く持てる体験の場をどう提供するか、だと思います。ですから「街」は新しい体験、関係の持ち方、今までとは違った役割の持ち方、責任をもつということ、連帯感、そういうものを大事にします。まず、居心地のいいとろ、そして達成感が味わえるところ、人から認められる体験、自分にもやれるという自信。そういう好ましい体験を積み上げていく場所を提供している、と考えています。

 ですから、回復した人がバリバリ働いているという場所ではありません。また、しっかり働いて「自立」するとか、は考えないほうがいいと思います。

 そうは言っても、スタッフは毎日ハラハラドキドキ、メンバーさんのお客さんとの対応を見守っています。手元が震えてコーヒーカップをカチャカチャ鳴らして運んでいけば、そっと横から支えてあげたりします。あるいはお客さんが来ても、ただ立っている人には出迎えるように促したりもします。こうした時に助け方も色々あります。だから、失敗しても助けてくれる人がいる、安心して失敗できるという場、そして自分を最大限発揮できる場、ということができます。

 とは言っても、メンバーさんは色々苦難を持っていて、働くということは生易しいことではないと思います。1日2時間働いたらもう疲れ切ってしまいます。4時間働ける人はいませんね。週2回、2時間とか1日1時間3回とか、一般では考えられない時間割りで働いています。それは、メンバーさんの希望に合わせて時間割りを組みますから、何十種類の時間割りがあります。

 このスケジュール管理はスタッフにとっては非常に大変なことなのですが、私たちはご本人がそうした要求を出すということを評価しています。いやなことが言えることです。調子が悪いから「きょうは休みます」といえるとか。中には一度「休む」といえば、もう後がない、という意識でいた人も、翌日出てみたらスタッフから暖かく迎えられる体験をする。失敗を取り返せる場である、ということですね。メンバーさんには、これまで失敗は取り返せない人生であると思っていた人が多いです。小学生の頃は成績が良くて、親の期待があって、そうしたことがすべて挫折してしまって、自らを否定してしまったような人が多いです。ですから、どこかで失敗しても取り返せることができる、という体験をすることが重要です。

 さきほど見ていただいたビデオでは、みんなバリバリ働いて、意見を言えるような人が出ていましたが、それはビデオだからです。現実は画面に出られない人が大部分です。でも、そういう人たちも3年経つと確実に「あの人が」というほど働けるようになります。これはもう不思議というしかありませんね。

 「街」にも家族会があります。そこでお母さん方から出る言葉は「まあ、あの子が・・・!ウチでは何一つできない子が、喫茶店でお茶を運ぶなんて!」と感心しています。それは、内と外とのメリハリとでもいうのでしょうか。それは「街」の中でもあります。勤務中は黙って一生懸命働いていますが、休憩時間になると妄想がバーっと出て、大声を出したりしますが、勤務時間になって職場に入るとそれが治まってしまいます。ですから、そのセルフコントロールの力が生まれていることではないでしょうか。

 セルフコントロールができる。そして、それを認めてくれる人がいる。相手によって、自らの態度を使い分けができるようになります。それがますます自信につながっていく。そういう人と場を使い分けていくとか、セルフコントロールを身につけていく術を学んでいくのではないかと思います。

 よく「街」には小さいお子さんを連れたお母さんたちが寄ってくれます。そうした時、メンバーさんは小さいお子さんには優しく応対します。それはお子さんは自分たちを脅かさないという信頼感があるからでしょう。そして、ここはしっかりやろうという緊張も生まれると思います。これも、休憩時間と勤務中のメリハリをつけているのです。このような状態になってきますと、生活が文化的になるというか、気持ちにゆとりが生まれてきますね。休憩しても誰も咎(とが)めない。自分のペースで仕事ができるということですね。3年経つとそういう変化がでてきます。やっぱり積み重ねというのはすごいと思います。

 私たちもメンバーさんに言います。私たちもどういう時、どういう手伝い方をしていいかわからないから、あなたたちから言ってくれないと手伝えないよ、と。このときこそ手伝ってというときは言ってくれないと手伝えないから。お互い、それは発見していこうということにしています。そういうあなたたちもパイオニアだし、私たちもあなたたちと一緒に学んでいかなければならないんだと言ってます。あるいは私たちを励まして欲しいといいます。何かができたとき、「できたよ」と励まして欲しいと伝えています。

 また、メンバーさん同士での助け合いという面もあります。ある人が妄想が出て、前の道端で空を見ながらぶつぶつ言っていることもあります。そんな時、同僚の方たちは、近所の人から自分たち全体がおかしな人だと見られてはまずいと思いますね。そこでご当人に、ただ中へ入れ、というのではなくて自分たちも道端に出て、その人の妄想に合わせて言葉をつないでしまうのです。すると、ご当人の妄想の言葉も普通の会話になって、近所の人たちは、何の疑問も持ちませんね。そんな風にお互いが助け合うということも出てきます。

 このように、「街」で働く人たちは全員がそれぞれ障害を持っていて、バリバリ働ける人ではありません。でもそういう人が積極的に、何か自己発揮しようと、努力する場面を時間と空間を区切って提供しているのが「街」であり、そういう条件が整ったときにあなたは発揮できるのね、というのを言語で確かめ合う相手となっている場です。

 それは身内とは違うところだと思います。身内はご本人が努力できたとしても「前はもっとできたのに」とか「いや、この歳だったら当たり前だ」「もっと何とかなる」というように期待をかけて見てしまい勝ちです。私たちはできたことを言語にして「こんなことができてすごいね」というように、相手が好ましい体験として積み上げていけるような声かけをする役目を担っていると思います。身内では言えないようなことでも私たちなら気恥かしくなく言えます。そして仲間同士で認め合う、これがさらにご本人たちには自信を植え付けられます。それはこうありたいと思う人と具体的に出会うということが、言葉よりもはるかに好ましい体験となるものです。仲間と出会うということが長く続けられる大きな要素にもなっています。

 前置きのつもりが長くなってしまいました。それでは皆さんからのご意見やご質問を受けながらお話を進めたいと思います。

質問1:私の息子ですが、「街」のような施設に通わせたいと思いますが、病院に相談しましたら、私が相談した施設とは別な施設を紹介されて、本人も行くことを断念してしまいました。入所に当たっては病院の紹介が必要なのでしょうか。

先生:病院の紹介が必ずしも必要というわけでもありません。また、病院は固定の紹介先を持っているわけでもありません。問題はご本人の状態とか、施設側の定員の問題とかがありますので、必ずしも希望通りの施設に入れるというわけではありません。入所に当たってはまず面接して、本人の意向を確かめます。つまり病院の紹介で入所が決まるということはありません。ただ、主治医は入退院に当たってはご本人の状態をよくわかっていますよね。従って、私たちも主治医のお話を聞いて判断するほうがより的確な判断ができますよね。治療者との合意は必要だと思います。ご本人が入所に当たってはどんなことを目的として入るのか、どんなことを理想としているのか、をお聞きします。ご家族が入所させたい、といってもご本人が自ら入所したいということが最低限の条件です。

 病院が決めるとか、どこかにいい施設がないか、ということではなくて、まずご本人自ら何かやってみたい、という希望を持たせることが先決です。

質問2 30歳代の男性ですが、親が60歳代で、本人は勤めることもできず、恋愛を諦めているわけでもないし、しかし、親がそういつまでも元気で見てくれる歳でもないわけです。そんな当事者にどんなケアをしてあげたらいいのか迷っています。

先生:まず、ご本人の居心地のいい場所を作ることですね。人って自分の基地を作って動きます。出向いていくというのは帰る場所があるということです。居心地のいい場所はその人らしさというものが出てくるものです。

 ただ、20代の人は違いますね。まだ、病気が安定していないと思います。だから、ご本人はまだ自分がどうしたいかを決めかねているのではないでしょうか。もし、ご本人がこれからどうしたらいいかを考えるようになったら保健所等で相談を受けることが一番でしょう。むしろ、お母さんが探してきて、ここがいいわよ、なんて言わないほうがいいです。お母さんのペースで進めない方がいいです。本人が自らこんな生活していたら体が鈍(なま)っちゃう、と気がつくまで待つことです。

ご家族はここで間違っちゃう。だから、私たちのような第三者的立場の役割があるのです。

 ご本人は心ではあせっています。だから、お母さんから今度はここ、次ぎはこっちと言われたら、ご本人はさらに状態を悪化させます。辛いでしょうけど、お母さんはひたすら待つことです。干渉がましさがご本人の行動を抑えてしまいますし、一番再発しやすくします。

質問3:私は都外に住んでいますが、都外の者でも「街」に入所できるでしょうか。

先生:都外は無理ですね。貴方の県でも生活支援センターはありますよ。県の精神保健福祉センターがありますから、そこで聞いてみてください。

質問4:息子はインターネットを見ていると「仕事がきつい」とか「会社辞めたい」という投書があるが、自分はそんなのは最初から行かない。いい職場があれば働きに行きたい。だから仕事を探してくれ、といいます。どんなもんでしょうか?

先生:息子さんの気持ちがわかりますね。日本は働き蜂になるか、引きこもっているか、二極化されています。日本には様々なスタイルで働く場がなさ過ぎます。息子さんのような方が自然で、何でもいい、という人は却って危ないです。これだけはできるとか、という人は続きます。何でもできます、といって来て、1日か2日で消えて行く人は多いですね。一番望ましいのは、将来の目標があって、それを達成するためにとりあえずいまはこれをやる、という人が続きます。

 当事者との対話の中で、その表現の動機づけを見ることは大切です。どうしてそういういい方をするんだろう。そこに関心を持つことです。「何でもやりたい」と言ったら、「お母さんはのんびりがいいと思うわ」と言ってあげると、本人は「ホッ」とする場合があって、言葉のキャッチボールができるようになります。    

(途中ですが紙面の都合で終ります)

勉強会講演記録CDの2枚目が完成しました。
フレンズ編集室では講師の先生方の講演記録を生の声で聞いていただこうと、CD制作を行っていきます。
まず第1弾として、9月勉強会で講演していだいた曽根晴雄さんです。詳細

タイトル『ちょっと私の話を聞いてください』  
 =聞けば見えてくる・精神分裂病当事者が語る患者の本音=

 家族は患者本人の気持ちを知っているようで理解できていません。二十数年間この病気と戦って来た曽根さんが、自らの体験をもとに訴える精神病者の苦悩、怒り、病気のこと、希望、それはすべての精神の病いに侵された人たちの声を代弁しています。
 また、当事者仲間の先輩として語る内容は、回復しつつある皆さんのお子さんが聞いても大いに励まされます。
 そして誰よりも聞いてもらいたいのは、分裂病を全く知らない人たちです。”もしあなたのお子さんが病気になったら”という目的の他に、各地で取りざたされる障害者の事件の度に生まれる誤解や偏見を防ぐためにです。一般の方に呼びかけてください。

第2弾は
「心の病を克服 そして ホームヘルプ事業へ」 
大石洋一さんです。詳細

収録分数;61分 CDラジカセ、パソコン、カーステレオ等で聞けます。
価格;各¥1,200(送料共、2枚同時申込の場合2,270円)
   申し込みはフレンズ事務局へ E-mailでお申し込みください。frenz@big.or.jp
発売:平成14年1月
企画・制作 新宿フレンズ編集室
(新宿家族会創立30周年記念事業)

編集後記

 外口先生のお名前は以前よりお伺いしていたが、直接身近にお会いしたのは今回が始めてであった。女性に「豪放磊落」という言葉で表現したら失礼なのだろうか。しかし、その言葉がぴったりの方であると感じた。明瞭な声で、歯切れいい言葉を使い、細かい部分にこだわりのない割りきりの良さ。

 だが、これだけだと単なる「大雑把」になってしまう。違う。精神障害者の深層心理の部分には細心の神経を使っている。いや、よく読み取っている。それは、ある種心理ゲームを聞くような痛快さがあった。

 そして、それは毎日私自身体験している当事者との対応を見事に言い当てている。つまり、当事者の言葉はそのまま鵜呑みにできない怖さがあることは私もいやと言うほど味わっている。彼の言葉の裏の裏を2回も3回もひっくり返して受け取る。それはもう完全に深層心理ゲームだ。

 先日、ずっと引きこもっている息子が「働いてみたいがどんな仕事がいいか」と聞いてきた。ゲーム開始である。皆さんの場合、どんな答えを彼に差し出すだろうか。私は「無理するな」と一蹴した。それはこれまで何十回と彼のカードに敗れた父親の切り札であった。父は勝った、が、彼の口元が微かに笑っていることも見逃さなかった。