私の体験と家族会活動

H16年9月家族会勉強会 講師 東京都精神障害者家族会連合会(東京つくし会)
            顧問 昭和大学付属烏山病院患者家族会(あかね会)
会長 高山秋雄さん

はじめに

 こんにちは。まず私の簡単な略歴からお話します。私は戦争中に弟とともに志願して海軍に入りました。終戦後、弟は会社勤めとして働きに出ました。10代の終わりごろですね。そして間もなく弟は発症しました。自殺を図ったのです。薬物を飲んだり、首を吊ろうとしたりしました。私は弟と2歳違いでしたから、私が20歳くらいでした。当時、そうした弟のことを何でこんなことをするのだろうと思っていました。それ以来私は親と共に弟を看てきました。

 当時(昭和20年代)は抗精神病薬もなく、治療は問診や作業療法が中心で、弟は電気ショック療法を何回もやりました。それからインシュリンショック療法、ロボトミー(前頭葉切除手術)などもやりました。当時多くはこうした治療でした。10代の終わりから65歳で亡くなるまで弟は病気と闘ってきました。そういう中で周りの家族も疲れてしまうんですね。

 私の父親の場合は弟の看病の疲労が重なって、自転車に乗っていた時トラックに跳ねられる事故に遭って、胸の骨がバラバラになり、頭も打ってしまったんです。それから父の言動がおかしくなってしまい、八王子の精神科病院に入院しました。

 当時、すでに母親が脳溢血で倒れてしまい姉が看病していましたが、更に姉は親の世話と弟の世話を続けるうちに疲れから、こんどは姉自身に妄想が出てきました。近所の人の悪口が聞こえると言い出しました。食事もとれず、痩せ細ってしまい、私は姉を騙して病院に入院させました。こうして私は三人を看ることになってしまいました。その時の大変さは言葉では言い表わせませんね。

 私は終戦後、大学に入って小学校の教員になっていました。私は自分たちが受けた戦時中の軍国主義教育を反省し、戦争ではなく平和を目指すべきだと思いながら子供たちに接し、教員を30何年か勤めてきました。3人の患者を土、日曜日毎に替わるがわる見舞に行くという生活がずっと続きましたが、今思うとよくできたな、という思いです。

家族会とのかかわり

 こうした経験の中で私なりに感じた精神障害者をもった家族の問題をまとめてみますと、まず「病気回復の難しさ」「偏見」「経済的困難」「社会復帰の難しさ」そして「将来の心配」ということが挙げられると思います。

 当時、私は病院に見舞に行っても他の家族とは病院内でお互いが話し合うこともなく、挨拶もそこそこと言った感じでした。こうした状況に疑問をもった私は主治医の竹村先生に相談して「家族会」を作ろうということになりました。それが昭和38年でした。最初は10人ほどの方が集まりました。

 ようやく家族会が歩き出した翌年に、アメリカ大使館でライシャワー大使が精神病の患者に襲われ、怪我を負うという事件が起きてしまいました。世間では「それ見たことか」「やっぱり精神病患者は危険だ」という風潮が高まり、「野放しにするな」という言葉が新聞などに見られるようになりました。当時は「精神障害者」ではなく「精神異常者」という言い方でした。

 そして「これら異常者は閉じ込めて置け」が一般の見方、教科書でも「精神病は遺伝する」「治らない」といった内容でした。家庭科の教科書では「優性保護法」から精神病患者は子孫を残さないようにする施策が紹介されていた時代です。もちろん現在はこれらの内容は変更されています。当時何もできないとされていた精神障害者も現在は有能な人を多く排出しています。私の弟も退院してからは家族会の会報づくりのワープロ作業をやってくれていました。

運動の広がり

 昭和40年には「精神衛生法」が改正されましたが、当時はライシャワー大使事件を受けて、精神病者の扱いには警察が深くかかわる案が検討されていました。精神病者のいる家庭には警察が時々訪問する、仕事場にも警察が巡回して事件が起きないように監視する、というものです。

 私たち家族会や心ある精神科医の人たちは反論しました。精神障害者を犯罪者扱いするな、病人なんだ、病人だから適切な手だてをすれば治る。治れば働くことができる人だから、その受け皿を作るべきだと言ってきました。こうした運動が実って、警察の極端な介入はなくなりました。

 そしてこの運動が、全家連が作られる大きなきっかけとなりました。その後3年たって東京の会が作られました。以来、精神保健法の改正や精神保健福祉法などの成立に寄与してきました。精神障害者も身体、知的障害者と同等の福祉を目指すことになりました。精神保健福祉手帳の配布、東京では都営交通のパスの利用といった成果を生んできました。

 一方、あかね会の内部でも活動に変化が起きてきました。家族会の役割として「語り合い」「学習」「社会的運動」を再確認しました。その中で最後の「社会的運動」を最も大切なこととしました。この社会的運動なくして精神障害者の生活の向上には結び付かないという確認でした。それは精神障害者のための施設の拡充、福祉手当の充実、偏見等の社会的理解の改善などを望んでいくということでした。

 今、あかね会ではちぐさ会という後援会を作って、このちぐさ会として作業所を作ったり、グループホームを作ったりしてきました。現在ちぐさ会では作業所を2カ所、グループホームを2カ所もっています。これらは現在法人化して、小規模授産施設となっています。病院の中には喫茶室、売店をもっています。世田谷区では当時6カ所の作業所ができましたが、その後22カ所に増えました。こうした精神障害者のための施設や制度の改善は家族の運動の成果だと思います。

運動の成果のいくつか

 お手元の資料「東京都家族会連合会(東京つくし会)の運動成果」を見て頂くと、昭和45年“都の精神衛生職親制度開始”“扶養年金制度に精神障害も入れる”・・・となっています。特に「扶養年金制度の精神障害者への適用」については身体、知的障害のみの適用となっていたことに対して、私たちが都に申し入れた際、担当者は「精神障害者は何も言ってこないから」と返答しました。

 身体、知的障害者の親たちはどんどん要求を言ってくるが、精神の人は何も言って来ないからだと言うのです。私たちは都の家族会連合会結成後間もない頃でしたが、この件について強く要望したところ「精神障害も入る」となったのです。ですから、私たちの要望は黙っていたら何も改善しないということです。

 平成6年でしたか、私が障害者団体の委員をやっていた時、東京都が障害者のニーズ調査を行い、これに沿って都の障害者関係予算の基をつくるということでした。その調査書を見ると精神障害が入っていないのです。私は「“精神”が入っていないのはおかしい」と並み居る他の障害者団体の委員の中で一人手を挙げて反論しました。すると担当者は「この調査は手帳を受けている人に限るもの」と回答しました。私が「それは納得できない。精神障害者は手帳がなくても福祉への要望はあるのだ」と反論を続けたため、その会議は流会になってしまいました。

 その後都の担当課長3名が私の所にきて、次の調査では「“精神”を入れる」と約束してその制度は実施されました。そして平成7年には精神障害者の手帳制度も発足しました。3年後、同じ会議がもたれ、私は出席しました。その調査書を見ると、またも精神が入っていません。私は再び抗議しました。すると担当者は「精神障害者は手帳の利用者が少ないから“精神”を外した」と答えました。ここでまた私が抗議したため会議は流会になってしまいました。

 そして、次の会議の時に、他の障害者団体の方々が精神の人だけを外さないよう要望書を作って都に提出してくれました。こうして東京都の障害者関係福祉対策予算の中に精神障害者も入るということが認められたという経緯がありました。ですから、何でも要望は言わないと通らないということですね。これからも絶えずこうした問題では目を凝らして見ていないと、いつかまた外されているということがありますから、皆さんも注目していてください。

 例えば障害者の医療費の問題がありますが、他の障害では全て無料ですが、精神の場合は入院しても18歳未満と高齢者には適用されていますが、それ以外の人の場合は適用されないということがあります。それから入院時の食事代もそうです。これも他の障害者の場合は無料です。福祉手当もそうです。このようにまだまだ精神の場合は他の障害と比べると劣っています。皆さんも単に自分のお子さんのことだけでなく、全体を見られるような視点が必要です。

 次に同じく東京都連の運動成果として昭和47年に都立世田谷リハビリテーションセンター開設ということがあります。これは現在の中部総合精神保健福祉センターですが、開所式の時私も呼ばれて行きました。そこで所長の蜂矢先生が挨拶で、「これは東京つくし会の要請により造られた施設です」と述べられました。この開設もそれまで毎年毎年要望書を提出し、ようやく実現したものでした。

 それから昭和48年の東京つくし会への助成開始、そして昭和53年救急医療体制の推進、昭和56年共同作業所への助成開始では当時450万円(Aランク)を実現しました。平成5年に至ると1200万円です。これは国レベルからみると大変高額な助成金です。

 平成4年、グループホーム制度開始、平成9年都の地域生活支援センター制度開始、平成12年都営交通乗車証発行、平成13年小規模授産施設として、これまでの共同作業所を制度化出来るようになりました。これらの制度は楽々出るようになったわけではありません。

 例えば交通乗車証発行では要望書を出しても何度も却下されてしまったのです。平成10年には新宿駅前で我々30人ほどがタスキをかけて、道行く人たちに訴え掛けました。都議会へも傍聴に入って、アピールしました。このように、制度を獲得するのに黙って頂いたものは一つもありません。

 ただ残念なのは、交通乗車証発行では都営はできましたが、民営の交通機関はまだできていません。他の障害は割引きになっています。でも精神の場合は駄目なんですね。昨日もそんなことで会議を持ちましたが、都内に13の民間交通会社がありますが、これが一斉に実現すれば嬉しいことですが、それが無理なら1社づつでも認めていってもらおうという作戦も考えています。

 次の資料にあるグラフは都内の精神障害者共同作業所設置状況ですが、昭和51年に小平市に小平あさやけ第2作業所ができたのが最初でした。それから昭和56年に都の助成が始まった頃で7ヶ所です。それ以降、急速に増えていく様子がわかりますね。3年後の昭和59年宇都宮病院事件がおきた年で20ヶ所、昭和63年精神保健法施行の年は70ヶ所、それから年毎に増えて、平成7年には205ヶ所となっています。

 更に運動を進めていく中で、家族自身に具体的な変化が見られてきました。その一つとして個人的な面では、偏見とか患者に対する見方、社会の視点に変化が出てきました。それは家族会に入って運動を進めていくうちに個人個人が知らないうちに強くなっていったということがあります。偏見、偏見と言いますが、我々自身が偏見を持っていたのではないかという反省もあります。例えば、自分の家で精神の病の人が出ると「治らない」とか「これは遺伝じゃないか」とか、これは偏見ですね。こうしたことが家族会に参加する中で変わってきたということです。顔が明るくなってくるんですね。

 そして地域の中では行政との関連とか他団体との提携といったことで、世田谷区などではこれまで我々が行政にお伺いをたてに行くことばかりでしたが、最近では行政の方から来られることもあります。このように行政との関係が変わってきました。他にも何か決め事を諮る場合も、行政からアンケートのような形式にして問いただしてくれます。それにこちらからの要望を書き込むということが多くなりました。東京都の場合も要望をどんどん出していったことで、予算も増えてきました。国の場合は法改正の問題とか「分裂病」から「統合失調症」への名称変更ということなど、これらも全家連はじめ、都道府県連、地方家族会などが要望を出してようやく実現したことですね。

 

運動を振り返って

 さて、話題を変えて、これまでの家族会運動を振り返ってみますと・・・私たちの家族会・あかね会は病院の中で一部屋を持たせて頂いています。そこでこの家族会の部屋に何人くらいの人が訪れるのか調べたことがありました。そうしましたら、年間ですが、患者さんが約1000人くらい、ご家族が500~600人といった数字でした。ですから毎日のように患者さんやご家族の相談を受けています。

 例えば昨日の話ですが、20歳前後の女性がタオルで顔を包むようにして泣き顔で入ってきました。家族会の役員の人が「どうしたの?」と聞いてみると、その女性は家族会が関与する売店の販売係で働いていた患者さんだったんです。最初は短時間労働だったんですが、慣れてきてだんだん時間が伸びてきたようです。つまり、仕事がきついということらしいです。

 お客さんが沢山くると圧倒されてしまうとか、患者さんでお客の人もいて、そういう人が返品したり、品物を取り替えたりしてレジの計算が間に合わないとかで参っちゃったようです。売店を辞めたい、というようなことを言い出していました。役員さんが「それは責任者に言ったほうがいいよ」とか「もっと気楽に」とかいろいろ話しかけていました。その女性は頷きながら一旦売店に戻ったようですが、また家族会の部屋に入ってきました。でもこんどは明るい顔でした。そして言われたように責任者の人に言ったそうです。

 私たちでしたら最初から責任者に言って、なんとか軽い仕事に回してくれないか、とか言いますが、患者さんはそういうところが言えないし、神経が細かいんですね。ですから、こうしたときに家族会が関わる売店ですから責任者も理解して対応します。これが一般のコンビニなんかに勤めたりしますと、「遅い」とか「暗い」とか、あるいは「万引きがある」と自分が疑われたりします。こんなこと言われたらたちまち再発しますね。そういうところも家族会の運営というのは患者さんのリハビリの場として役立っていると思います。患者さんというのは神経が細い、正直、嘘がつけない、はっきりものが言えない、まじめ、という特徴があります。こうしたことをよく理解することが家族は必要ですね。

心がまえ

 また、「家族の方は長期戦を覚悟すること」ですね。そして「開き直り」が必要です。親とか家族が神経を尖らせてしまうと親が参ってしまいます。私は身内から3人の精神の患者が出て今度は自分かな、4人目は自分か、と思ったことがありました。自分が自殺するか、そんなことを真剣に考えたこともありました。でも、姉は父と母の看病の人生で、52歳で亡くなりました。そんな人生もあるわけですが、これでいいとは言えませんよね。私が苦しい時から立ち直って、いま3人の身内の患者は亡くなりましたが、こうして家族会運動だけは続けているというのは姉の人生とか、弟の人生の身代わりとなって頑張ってやっていこうという気持ちがあるからですね。

 それから、「当事者の結婚」という問題がありますが、弟が50歳を過ぎてから主治医の紹介で結婚話を進めました。相手の女性も当事者でしたが40代で、結婚するとき、女性のサポータとなっていたクッキングハウスの松浦さんと相談しました。当初は1週間で別れても仕方がないじゃないかということで、とにかく結婚という体験が重要だろうと考えました。

 しかし、弟たち夫婦は弟が亡くなるまでの10年間結婚生活は続きました。弟が具合悪くなると奥さんが見舞いに行ったり、奥さんが悪くなると弟が診たりして、お互いが助け合ってうまくやってくれました。ですから私の負担が随分軽くなりました。結婚すれば必ず良くなるわけではありませんが、二人の生活が随分変わってくるなと。そしてうまくもっていくと回復に近づくこともできるんだなということがわかりました。

 そして工夫したことがあります。それは毎日二人が一緒にいることは止めよう、ということです。やはり毎日顔を合わせていると疲れるということがありますから、そうしました。1週間のうち3日間くらいは一緒に生活する。あとは奥さんの実家が近くの練馬でしたから実家で過ごす、というやり方でした。しかし、一緒にいるときはお互いが話し相手になったり、食器を二人で洗うなど助け合いの場ができて良かったのだと思います。子供については年齢も高いことがありますし、生まないことにしました。育児はできてもその後教育という問題が出てきたときに対応が難しいだろうと考えたからです。若い人の場合はまた違うでしょうが、弟の場合は年齢が高いということだからです。

 ところで私自身の結婚を振り返りますと、30歳の頃女性を紹介してくれた方もいました。でも、3人の患者を抱えているとそんなことを切り出したらまず無理だろうと、当時はそう考えて丁重に断っていました。そんなとき、自分も何か打ち込めるものを持とうと思って短歌の会に入りました。その会の中で短歌を通して共通話題が生まれて、私はある女性と話すようになり、後に結婚に至ったということです。

 結婚に当たって、私と後に妻となる女性は弟の病院・烏山病院へ行き、主治医、そして弟の四人で話し合いました。主治医の竹村先生は好きな者同士で一緒になるべきである。身内に精神病の患者がいれば、生まれてくる子供も病者になる可能性があるのではないかという心配がありますが、これについて先生は医学の進歩のことを言われました。かつては薬もなかった時代から、毎年のように新しい薬が開発されて、これから10年後、20年後になったらもっといい薬が出てきたり、医療技術が開発されるというのです。だから明るい展望をもって、悪いことばかりを想像して躊躇しているよりも、将来に希望をもって結婚した方がいいのじゃないかという意見でした。そして子供は少なくして丁寧に育てればいいのじゃないかということを言ってくれました。

 こうした話を聞いて彼女は山梨の実家に帰って、家族に相談しました。そしたら相手の男性(つまり私)が問題なければそれでいいんじゃないかということで私たちは結婚しました。当時彼女は20歳代でしたが今60歳代になっています。結婚当時、彼女の生活には病気との関係は全くなかったのですが、その後、私との生活の中で病気との関わりが出てきたわけです。そうした中で家族会に顔を出したり、グループホームの手伝いをしたり、いまでも施設で料理を作ってあげたりしています。

 妻はこの活動の中で精神障害者の心のきれいなことや優しさなどを知ったと言います。そして、いまは趣味や運動など数種類の会やクラブに入って生活をエンジョイしています。こうなると、身内に患者がいたことはマイナスではなく、貴重な体験として捉え、また私どもの二人の子供も結婚しましたが、精神障害との出会いから、弱者への思いやりと苦境にも負けないという精神力のようなものも培われたのではないかと評価しています。ですから、皆さんも長期戦覚悟で気長にやっていってもらいたいと思います。

 次にみんなの幸せのためにということですが、よく、この子のためなら全財産を投げ打ってもいい。人生の全てをこの子の為に尽くすという人がいます。これは良くありませんね。親が楽しみもなくして、ただただ子供のためにとしていたら、暗くなってしまって患者さんにも良くありません。逆に親が楽しそうにいたら、患者さんも明るくなれます。

 以前、クッキングハウスのメンバー(患者さん)4人をあかね会に呼んで話を聞いたことがありました。そしたら4人とも、「手助けが必要なときだけ手を貸してくれればいい。いちいち、ああだこうだ言われると、できることもできなくなる」というのです。そして4人とも将来的には家庭を持ちたいというのです。患者さんは患者さんなりに将来のことを考えているわけですから、親がいつまでも一人で頑張っていると却って患者さんの伸びる力を損ねてしまうことです。

 私はあかね会会長として41年になりますが、運営は一人でも多くの人の意見を聞いて、「これはこの人にお願いする」「ここは改める」とかします。「これは病院に申し込もう」とか、「ここは役所に行って要求する」ということは私に任せてほしい、そういう意味でやらなければならないことはキチンとやる。ただ仲間内とは柔らかく、みんなの意見を聞きながらやっていくとことにしています。そんなことで私はもう会長を降りたいのですが、なかなか降ろしてもらえずに今日まで来てしまいました。

終わりに

 最後に一言だけ言わせてもらえば、これまでいろんなことがありましたが、人生で悔いが残らないように、やるだけのことはやる、ということを信念にしています。私は70歳を過ぎて、80、90歳といった年齢になっても勉強を一生懸命やらなければならないと思っています。家族会活動もお金にならないとか、名誉にもならないといったことが決していやだというふうには感じないんです。ある人は「好きでやっているんじゃないか」と言ったりしますが、それも一つの人生だと思えば、みんなが喜ぶ方向へ持っていくという意味では私自身の生きがいとしてあったのではないでしょうか。

 きょう皆さんとお会いし、お話ができたというのは、私の中でも大きな位置付けとなったのではないしょうか。今日、私の家族もニコニコしながら生活していますし、家族会の部屋でも笑い声が絶えない、という状況があります。是非みなさんも沈んだりしないで笑いを多くして元気にやっていってください。それでは前半の私のお話はひとまず終わりとします。ありがとうございました。(拍手)

(紙面の都合でこのあとの質疑応答は省略させていただきました)


今月も感想文募集

「精神保健と福祉へのまなざし」篠田重孝・遺稿集

を読んでの感想文を募集しています。

 8月拡大家族懇談会の席で参加者全員にお贈りした「篠田重孝・遺稿集」を読まれた方は是非、感想文を書いて事務局までお送りください。また、当日欠席された会員の方が近くにおりましたらお貸してあげてください。
また、欠席された方で読みたい方は事務局にお問合せください。


遺稿集について詳しくは下記・・・

かながわボランティアセンター
〒221-0835 横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2  
TEL 045-312-1121(代)
FAX 045-312-6307
Eメール kvc@jinsyakyo.or.jp

 までお問合せください。

【その後の投稿より】

篠田重孝先生 遺稿集を読了して        K.H

 読み了えて全体を通して感銘を受けたことは、精神障害(者)の問題に対し、極めて真摯に真正面から取り組み、障害者の立場に立ってというか、障害者やその家族と同じ目線で愛情深く見つめていたということである。

 分裂病(統合失調症)は適切な治療とケアがあれば、基本的には治る病気であるという信念、その疾患を持つものを精神障害者として捉えるのではなく、生活障害者として見るべきだという視点がベースになっていると思うが、その所信とされるところは、この障害にかかわる者(障害者本人と特にその家族)にとって、非常に心強く、明日への希望を抱かせるものである。

 私が抱える障害者は発症してから数ヶ月足らずの治療で治癒(とされたが、その後再発したことからすれば寛解というべきであったろう)し、その後約二年間は、素人目には発症前と全く変らぬ生活を送った中で突然再発して、以後長期入院を強いられ、而して退院後既に十年の余を文字どおり“生活障害者”として日々を送っているが、一旦治癒とされてから再発に至るまでの間について、この病気に対する認識・知識の欠如と、そこから来るケアの失敗があったことを悔いて止まないものがあり、若しもその当時篠田先生のような医師ないしはその謦咳に接していたならばという読後感が強かった。

 ただ、障害者と四六時中身近に接し、苦痛が多かった頃を想い起こすと、先生の考えは或いはケースによっては少し現実を離れた理想論のように思わざるを得ないところもあり、それは当事者を医師という立場の差から来るものもあろうが、先生の熱き想いには開眼させられるところが多かった。

 今後精神科医や障害者のケアにかかわる人達がみな同じような思いで接してくれるような時代が早く来ることを望みたいものである。

フレンズ・当事者の講演記録CDシリーズ 

 新宿家族会へのお誘い 
 新宿家族会では毎月第3土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは学集会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。

会費 3,000円(6ヶ月) また、学習会が終わったあと、有志の方は近くのお店で交流を深め、語り合いの場を設けています。誰でも、何時からでも入会できます。事務局 電話03-3987-9788まで

編集後記

 隣の芝は青く見える、という諺がある。自らに与えられた運命に対して、他人の方が恵まれていると思う心理である。精神障害の家族でいえば、親たちが自分の辛さこそ最悪だと思って、普段平静な顔をしている他人の境遇に羨望をもつ心理である。そんな気持で高山さんのお話を聞いた。弟さんの発症から、父親が心労で交通事故、そして発症。それはお姉さんの発症を導き、不幸が不幸を生んで、一家の中で三人の看護を余儀なくされた高山さんである。

 たった一人の患者でも一般は絶望的になり、悲嘆にくれてしまう。それに比べ、三十代で家族会を組織し、自らの問題のほかに、家族と言われる人たちの幸せと権利のために、四十年以上に亘って活動された高山さんの苦労と努力は如何ばかりだろうか。

 いま、直接の患者さんが目の前から消えて、開放されたはずの高山さんであるが、なお、東京つくし会顧問として、また、あかね会会長として活動を続けられている。

 権利要求や制度改革のためには一歩も譲らない頑固な精神力の一方で、今回の当新宿家族会勉強会でのお話が終わったあと、暗中模索状態にいるお母さんのために、二人だけでお話しましょう、と遅くまで残って相談にのってくれた優しさも持ち合わせている。先日、お会いしたら、そのお母さんとは今も電話で相談相手になってくれているという。ほんとに頭が下がる想いである。自分よりも不幸な人はいないと、隣の芝ばかりを羨望のまなざしで見ていた自らを恥じると同時に、これからはお互いが幸せになるために何をするか考える必要を感じた。