障害者自立支援法を判りやすく理解する

11月定例会 家族会勉強会 講師 社会福祉法人きょうされん・常務理事  藤井克徳さん

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【はじめに】

 障害者自立支援法は国会でも改めて見直されていますが、今の臨時国会では野党と与党の見解がずれて持ち越され、来年1月からの通常国会でまた審議になるでしょう。

本論に入る前に、今度の法律の名称とも関係する「障害」「自立」という言葉にこだわって、この法律のどこに問題があるか、どこを直せばいいか、手直しを加える場合に地域の当事者、ご家族、支援者がどんな運動をするとよいかをお話しようと思います。

【「障害」を見直す】

 「障害」ってなんでしょう。今から20年前には個人の持っている能力だけにスポットが当てられていました。

例えば、両眼で0.1以下だと視覚障害です。私は全く見えませんから、全盲という状態です。視力が弱いこと、視野が狭いことを「障害」と言っていました。知的障害でいうと知能検査を受けてIQが80以下。もっぱら個々人の能力の欠損した部分を「障害」と呼んでいました。

「障害」は、統合失調症にある幻聴とか、目が見えない、車椅子に乗っているとか、個人の状態・能力の欠落ももちろんあるのですが、それ以上に環境との関係で重くもなれば軽くもなる。「環境との相互作用」といいます。

【「自立」とは】

 辞書や障害者自立支援法でいう「自立」は、一般仕様でないと「自立」でない感じを与えま す。頑張れ、頑張れという自立であって、本当にその人らしさを大切にする視点が入っているのか疑問です。働かないと駄目ではなくて、もっと深い「自立」の捉え方があっていいと思います。そういう面で障害や自立を捉えて、この法律を見直してもいいのではないか。福田総理も自民党総裁選挙の真っ最中に公約として自立支援法を抜本的に見直しますと約束したのですから、是非そういう方向で動いてほしいと思います。

【障害者自立支援法制定の経過】

 この問題がはじめて新聞等で取り上げられたのは2004年1月8日でした。どの新聞も一面で「介護保険と障害保険福祉政策を統合という方針を厚労省は固めた」と一斉に報じました。障害関係者は、介護保険にはたくさん問題があるので統合はごめんだという意見が多かったです。

厚労省に説明を求めたところ、統合すると介護保険等の財源がたっぷりあって使えるが、統合しなかったら税金で障害者福祉予算を組まないといけないとのこと。だが税金は大赤字。結果的に私たちは厚労省のヒアリング、つまり意見を正式に聞く場において「統合を目的にすると困る」と伝えました。

【障害者自立支援法制定の背景】

 2つの理由があります。1つは国の財政が悪化する中で、福祉というより、公費抑制のための障害者財政政策であったこと。もう1つは、国民、ことに障害者やその家族からの大反対を回避するために、この機会に遅れた所を引き上げたいということ。精神障害者政策が他障害よりも遅れていたので3障害統合という形でやってみよう、バラバラだった施設体系をまとめて6つに再編する、市町村の実施責任をはっきりさせる。

もともと今回の3障害統合も羊羹の大きさを変えないという前提があったので、薄まるのは宿命で、統合して進んでいる身体障害のほうにレベルが合わせるのかと思ったら、遅れている精神障害に身体障害をあわせてもらうという変な統合になりました。スタッフの人件費などが、遅れている方に合わせられて大騒ぎになっています。統合には違いないが、やり方が違うと後で気づいた。背景は公費抑制という大目的と、遅れているところをホンの少しばかり引き上げることだったのです。
【経過と内容の問題点】

経過と内容の問題を区分けすると、経過の問題は・・・
1.結論が早すぎた。踏むべき手順を踏まずにひたすら拙速。障害者政策の論議においての拙速が意味するものは当事者の参画が減るということ。

2.基礎データがない中での机上のプランだった。障害者にどういうニーズがあるのか、各地の状況などを知るという努力をしなかった。

3.審議会が形だけ、人選もおかしい。

つまり、どれをとってもプロセス面で問題がありました。

(1)応益負担の問題

(2)障害の特徴と責任論の問題

障害をどう見るかということが問われ始めています。障害の特徴は次の5つです。

(1) 障害は避けようにも避けられない(不可避性)

(2)障害は知っていてなったわけではない(不可知性)

(3)元には戻れない(不可逆性)

(4)障害は若くしてなる(弱齢性)

(5)誰でもなる可能性がある(普遍性)

(3)成果主義の問題

 ある事業体(グループホームなど)に障害を持った人が来た日だけ支払う。これを成果主義といいます。しかし障害を持った人の支援やケアはそんなに単純でしょうか。無断欠勤したら家庭訪問や電話をしてみようとか、場合によっては勤務時間外にスタッフが働くこともある。24時間生活丸ごと応援するのですから、支援の質からして来た日時を切り刻んで、定員を増やして埋めればいいものではないわけです。

(4)訓練主義の問題

 個別給付には二つの体系があり、ひとつは介護給付といってヘルパーさんなどの支援、もうひとつは訓練等給付といって、どんどん這い上がっていく仕組みにお金をつけましょうというものです。教育を受ける若いときや発病直後ならいいでしょうけれど、もう安定した状況にある方からすると、介護という受身のケアか、這い上がるところの支援か、という2体系は、ゆっくりやっていくという選択肢がないわけですから辛いです。訓練支援は、いかにも投じたお金の見返りを期待する考え方です。

【今後の見通し】

 結局無理がたたって問題が起こっています。まず当事者側から見ると利用を我慢したり、利用中断があります。障害を持った多くの人たちは、年金と作業所の工賃、平均8~9万円での暮らしが平均的です。収入に対して作業所の利用料1万数千円が新たに加わります。収入の15%の支出で、生活の質が下がってしまう。苦しいながらも通い続けるしかない辛さがある。毎月25万貰っている一般の人にとっての15%、4万円が急に減ったら苦しいとお分かりでしょう。

 精神障害者問題は制度的にも国民の意識としてもレベルアップを図る必要があると思います。自立支援法問題もとことん頑張って、近い将来、この問題で訴訟も起こる予定ですので、広く運動をしていきたい。それから市民に分かり易くという広報面では、実在の共同作業所を描いた漫画『どんぐりの家』(山本おさむ著・小学館)も一般市民に向けたメッセージです。また来年2月19日には、東京マリオンで、和歌山市の「麦の郷」を舞台にしたジェームス三木さんの脚本で映画「ふるさとをください」が放映されます。これは市民が大反対した作業所作りが、メンバーの力強さによって市民も変わっていくという事実に基づいたお話です。こういうものにも関心を持っていただければと思います。

【最後に】

 いつも自分に言い聞かせているのは、「変えてはいけないこと」と「変えなくてはならないこと」があるということです。自立支援法の問題は、障害はその人の責任ではないという「変えてはいけないこと」まで変えてしまい、「変えなくてはならないこと」を変えなかったから問題なのです。最後に、過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられます。

平成17年4月からの新宿家族会ホームページ「勉強会」の表示形式について

 新宿家族会では4月から「勉強会」ホームページの表示について、概略掲載とすることになりました。そして、「フレンズ」(新宿家族会会報紙)ではいままで同様、あるいはより内容を充実させて発行することにしました。これまで同様に勉強会抄録をお読みくださる方は、賛助会員になっていただけますと「フレンズ」紙面版が送られますので、そちらでお読みできます。
どうぞ、この機会に是非賛助会員になっていただけますよう、お願い申し上げます。

賛助会員になる方法

新宿家族会へのお誘い 
 新宿家族会では毎月第2土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは勉強会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。
入会方法 

編集後記

  今号は普段の4ページの増補版となった。藤井さんから伺った障害者自立支援法の問題点は、これがわが愛する日本の行政か、と耳を疑るほどの内容だった。

 これまで何度か自立支援法説明会に出席したが、やたらパワーポイントや分厚いコピーを見せられ、なんとも後味の悪い思いをした。しかし、今回は視力障害の藤井さんのこと、コピー1枚使わず、黒板に一字も書かれない。それでいて約3時間、我々精神障害者家族の関心をグイグイ引き付けた。

 それは、藤井さんの語られる言葉に数多くの気になる言葉があるからだろう。「羊羹一本論」、本体を変えずに三障害で予算を奪い合う。これが美しい日本か、と情けなくなる。「障害自己責任論」、こんな考えを聞くと日本の国の程度が知れる。むしろ自らが恥ずかしくなる。特に精神障害の場合、100人に一人の割合で何時の時代でも発症すると教えられた。どこに患者や家族の責任があるというのか。

 「官僚の介護保険統合の火種を残したい気持ち」、こんな一官僚の面子で全国の何百万人いる障害者が苦しんでいる。

 藤井さんご自身は「変えてはいけないこと」と「変えなくてはならないこと」を見極めることを自らに言い聞かせているという。そして最後に「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という。

 私も絶えず「変えられる」という言葉に夢を託している。如何なる苦境もいつか状況を変えて、幸せな人生を歩みたいと願っている。生きている限り人は「変える」努力をする必要があろう。それが人生ではないか。