母と共に歩いた道

新宿区後援事業 9月新宿フレンズ講演会
講師 漫画家 トーシツ研究家 中村ユキさん

<全文紹介>

【無知と悪化の25年】

 家族会では親の立場の話が多いですが、今日は子供の立場からの話をします。

 母の場合は、周りの無知のために病気を悪化させ、つらい25年を過ごしました。そして今は「幸せ」と言うまでになりました。その遠い道のりを描いた漫画が『わが家の母はビョーキです』です。

 母が統合失調症を発症したのは、私が4歳、母が27歳でした。家族3人で大阪に住んでいましたが、「隣の人が悪口を言っている」から始まり、「命令に従わなければ殺してやる」といった幻聴に従うようになりました。そして近所のお好み焼き屋さんに土足で飛び込むという事件を起こして、千葉の実家に戻りました。

 田舎は偏見が強い所でした。母は「キリスト様の小屋をみつけなさい」という声に、私をつれて町中を裸足で歩き回り、いっぺんに「あの親子はおかしい」と噂が広がってしまい、やがて入院することになりました。

【初めての入院と退院後】

 山奥の病院は貧弱な建物で、鉄格子のある病室に入れられた母が何かブツブツ言っていました。医者は「こいつを黙らせろ」と注射を打ち、母が気絶したのを覚えています。統合失調と診断されましたが、慢性疾患なのに、家族・本人に病気の説明も生活上の注意もありませんでした。

 少しして入院費が払えなくなって退院しました。変な行動を取らなくなったことから、周囲は治ったんだなと見なし、精神科に通院させませんでした。

 みんなは腫れ物に触る感じで、母と私が取り残されました。父の親戚からは「おかしくなった嫁とは別れろ」と離婚の話も出ました。しかし、母の実家の父はDV(Domestic Violence:家庭内暴力)があり、母は親の反対を押し切って結婚したこともあって、家に戻れなかったのです。

 しかし大量服薬して自殺未遂をおこし、とうとう母だけ実家へ戻されました。私が泣いたら困るからと寝ている間に母は連れ出されたのです。私は家族や親戚のみんなが母の悪口を言っていると、怒って家中のガラスを割ったり、ご飯を食べずにぬいぐるみで囲って閉じこもったりしました。

 そのため私は母方のDVのある祖父の家に預けられました。皆に暴力的だった祖父は、なぜか私にだけは暴力を振るいませんでした。私は母が大好きで、周りの人の対応が悲しかった。幼稚園時代の私の写真は、とても悲しい顔をしています。

【父との離婚で母子2人に】

 母はその頃、通院はするのですが、薬は呑みませんでした。5年ほどたって陽性症状がはっきり出て、「神の使いじゃ」と口走ったり、霊が憑いたような状態になったり、宗教学者のような言動もありました。

 その頃、私は10歳で、よく母に包丁で追い回されましたが霊障のせいと思い、母を嫌うことはありませんでした。ある夜、鼻に何か当たると思って目覚めたら、母が包丁を当てていたのです。その日から寝られなくなり、怖くて包丁を隠し、自分の部屋の扉にカチャと音がする鍵を取り付けて、いつでも逃げられるようにしていました。

 私が中学生になった頃、母の兄が入水自殺をしました。伯父は祖父に殴られて知的障害になり、お風呂屋さんをのぞくというので、母が前に入った病院に入院させられていたのです。刑務所みたいなひどい病院で、小学生のような伯父は本当に可哀想でした。伯父の葬儀の最中に、母は「お前を一緒に連れて行ってやる」という幻聴で大パニック、大混乱になりました。以来、親戚の葬祭には私しか呼ばれなくなりました。

 その後、父は事業に失敗しました。家には借金取りが押しかけ、ぐちゃぐちゃの生活になりました。「離婚は世間体が悪い」と気にしていた母ですが、私が「離婚して」と頼んだら、背中を押されたと感じたのでしょう。なんとか敷金が用意できてから、私が高校2年のときに離婚。2人だけの炬燵しかない生活がスタートしました。もともと父親不在のような家庭でしたが、父がいなくなってよかったと思いました。

 しかし、当てにならない父でも、家に戻ると空気が入れ替わる感じがあったのですが、これで私が母の全てを抱えることになったと感じました。ちょうど思春期で本当に苦しい日々でした。

【医療保護入院で社会福祉制度を知る】

 学校は母の具合で毎日は行けませんでしたが、何とか高校を卒業して就職しました。毎日勤務するようになって、「私は皆と違う」ことに、初めて気がつきました。皆は自分のしたいことをしているのに、私はお金のために働くだけで何も夢がない。それなら前から好きだった漫画を描く漫画家になりたいと考えました。

 母は大反対でしたが、私は仕事を辞めました。不安になった母は1週間後に大再発、普段は2、3日で治まるのですが、5日間包丁を振り回し続け、自殺未遂をしました。私も心が折れそうになり、包丁を突きつける母に「もう殺されてもいいや」と抵抗を止めたら、母は何もしなかったのです。

 母が精神科へ通院していた事は薄々気づいていました。再発した母を連れて初めて一緒に通院して知ったのは、母は病気の事を医師に何も話しておらず、ただ世間話をしていたのです。包丁のことはもちろん、病状も何1つ伝わっていませんでした。

 驚いた医師は、医療保護入院をさせました。いい病院で、母は3日でけろりと治りました。しかし、「1カ月は入院継続して様子を見ましょう」との医師の話で、ケースワーカーと面会して、私は初めて傷病手当金や高額療養費などの社会福祉制度があるのを知りました。

【措置入院で別人になった母】

 母が入院して、私はそれまで凄まじい暮らしをしていた事に、初めて気がつきました。「母が居なければ、こんなに落ち着いた良い暮らしができるのだ」と、つらい気持ちが湧いたのです。「母が戻ってこなければいいのに」と思いました。

 退院が決まったとき、母の姉が「事業を始めたばかりで、お母さんに手伝ってほしい」と言ってきました。「ちょっと預かってもらったらラクだな」と預けました。ところが伯母から毎日、電話があり「首を絞められた」「家中に新聞紙をちぎって撒いている、火をつけられたらどうしよう」と大騒ぎが始まって、その度に伯母は家から逃げ出してしまうのです。

 そして「措置入院*になった」と連絡がありました。なんで警察沙汰になったのかと恥ずかしかった。落ち着いた後で考えると、医療保護入院ができると伯母が知っていたら、危ない目にあわずに済んだのにという事でした。途中で医療保護に切り替わりましたが、入院は2年3ヵ月におよび、母はまるで別人になって退院してきました。

 15キロ体重が増え、穏やかですがボンヤリして廃人のようでした。医師からは、「薬はきちんと呑み続けること」「デイケアに出なさい」という話があっただけでしたが、その頃の私には「自分から聞く」という発想がありませんでした。

 何もできなくなった母に、私はイライラしました。母が寝ていれば根性が足りないと思い「どれだけ寝たらいいの、起きて歩いてみたら」と強制的な物言いになりました。症状が出ていなくても家族関係は悪化し、母に「死ね、死ね」といわれました。

 そのうち、母に私の声で悪口の幻聴が出始めたのです。そしてどんどん悪化していきました。この頃、私は母の振舞いが私への怨恨か幻聴か、見分けがつきませんでした。「殺されても仕方がないか」とも思っていました。

 病院の先生からは症状の説明も、良くなる可能性があるという話も聞いていなくて、現状維持か、落ちてゆくかだと思っていました。母の発症から25年、私の気持ちも次第にボロボロになっていきました。

*措置入院:精神疾患のために自傷他害するおそれが強いときに、患者および家族の意思に関わりなく入院させる事。指定医資格の医師二名の診断が一致したときに知事の権限で行い、拘束力が強い入院。

【転機-地域生活支援センターとの出会い】

 私は荒みきっていました。母が「地域生活支援センターに行きたい」と言ってきても、「どっちでもいい、勝手に行ってきな…」と思っていました。

 その頃、殺人事件が起きた時、家族会が「当事者の名前や病名を出さないように」と言うのを聞いて、私も「起こりそうなことだ」「隠さなきゃならないんだ」と思っていました。インターネットで呪いのような言葉を家族が書いている掲示板を読んでは、自分と同じだなと思っていました。

 私の気持ちが少しずつ変わったのは、母が地域生活支援センターに行き始めて、笑顔が出てきたことです。今まで母は病院でもデイケアでも変わらなかったのです。その母が「友達ができたの。紹介するから支援センターに行こう」と言うので「ちょっと覗いてみようか」と行ってみました。

 私には不思議な事がいっぱいでした。地域生活支援センターでは「お母さんは回復できるのよ。あなたは何もしなくていいから必要な時だけ横に居てください」といわれました。事実、障害年金が認可されなかったときは申請をやり直してくれ、セカンドオピニオンも、転院も手伝ってくれたのです。相談だけでなく問題解決に動いてくれる人たちでした。

 そしてボンヤリしていた母に表情が出てきたのです。「回復できるんだ」と希望が生まれ、私は正しい知識を得るようになり、状況が良くなってきました。それまでは何か起きてから対処していましたが、「問題が起きる前に動こう」と考え直しました。

・地域生活支援センターとの出会いで得たもの 

1)理解ある仲間と居場所

2)相談できる安心感

3)正しい病気の知識

4)自立する元気

 そして仕事の同僚を家に招いたら、母が彼を気に入ったのがきっかけで結婚もでき、3人の暮らしが始まりました。

【失敗しながら学んだ再発予防】

 統合失調症は100人100色です。効く薬の種類・量、症状の出方・回復のスピード、原因となるストレス、発症時期、みな違いますから、対処も「わが家流」を見つけることだと思います。私は新宿フレンズの岡嵜会長に言われた事が心に残っています。

 「我々は病気のプロにならなくていい。家族は家族のプロになればいいのだ」。家族が医師に負けないのは、その人がどんな人かを知っている事です。

 夫を見ていて気づいたのは、他人に干渉し過ぎないことです。母が泣いていても、好きな携帯のカタログを見ていて気にしない。母がバスの時刻表を1日中見ているのに私がイライラしても、夫は「いいんじゃない、お母さんのやり方だから」。母がお皿を割っても、真っ先に言ったのは咎める言葉ではなく「ケガしなかった?」でした。

 夫と比べ、自分は高EE(Emotional Expression:感情表出)だと反省しました。心配をし過ぎる、批判や敵意を向けるなど家族が高EEの場合は、再発しやすいと言われています。

 母と主人の関係は『北風と太陽』のイソップ寓話みたいです。母が真夜中に「眠れないから散歩する」と言い出し、私は強く反対しました。夫も「こんな時間は危ないから」と止めましたが、母は強硬に行くと言って聞かない。夫が「わかった。それなら僕が一緒に行こう」と言ったところ、母は「一緒に行ってもらうのは悪いからやめるわ」と寝に行きました。なんと母自身に思いやりの気持ち、ゆとりが生まれたのです。

 よく「心の病気か、脳の病気か」と問われますが、再発のきっかけは、環境の変化、冠婚葬祭、人間関係のトラブル、家族の状況の変化と本人への対応、孤独や心配事で、心(感情)が揺れてスイッチが押されると、脳に刺激が行って、再発するのではないでしょうか。もちろん、薬を飲まない、睡眠不足、過労も関係します。

心穏やかな環境のために―再発予防のヒント

1)経済的問題を減らす(社会資源の活用)

2)家族で孤立しない(相談する場所を作る)

3)正しい病気の知識(家族教室などの活用)

4)どんなときに症状が出やすいかを知る(再発のサイン)

5)医師との関係を良好に(疑問をそのままにしない)

6)家庭円満のためのルール作り 

7)家族で情報交換(報告・連絡・相談)

8)後手より先手(問題が起きる前に予想して動く)

【母の安定と家族で楽しく暮らすために】

 母をはじめ当事者の方は、集中力が続かないし疲れやすく、何かを選択するのも臨機応変も苦手な人が多いようです。そうしたことを補えるように、家族のルールを作りました。

・アイディア入れて家族のルール

 言葉に出して伝える:相手の気持ちを察するのが苦手になり、孤独感・不安感が強いので、お守りのように「愛しているよ」「大事に思っているよ」と繰り返す。

宣言ボード:私は仕事の〆切前は緊張していて、それは母のセイではないことを理解させるため、「〆切前イライラしてます」というボードを出しておく。

リビングルール:私は声をかけられると考えが飛んで仕事にならなくなるので「大事な事だけ声をかけてね」といったら、その後すぐに「今夜のご飯なに?」これは母の大事な事だった。それで「自室に居るときは声をかけないで。リビングに居るときならOK」と。ただし今はしていない。ルールも進化し変化する。

だれでもサンデー:母は良く寝るが、「怠け者と思われたらいや」と周りに気を使う。そこで疲れたら誰でも気にせずに寝るとしたら、母も安心して寝るようになった。

・医師との付き合い方

 「幻聴が出る」「眠れない」など母の病状を伝えるだけでは薬がどんどん増えてしまいます。母は薬が増えるのが嫌で、本当のことを言わなくなっていました。

原因に対処:「幻聴が出るので、よく眠るようにしています」「眠れないので昼間は体を動かすようにしています」など、その症状にどう対応しているか、日常生活で工夫していることを医師に伝えることで、薬に頼り過ぎない生活ができるようになった。

 薬は症状を抑えるだけの対処療法。どうして症状がでたのか、友達と喧嘩したなら仲直りするとか、原因に対処することで、沢山の薬を減らせる。薬を減らすときは、落ち着いた環境が大切。

連絡ノート:家族から見た本人の様子、質問、相談などを書いて、医師に見せる。記録にもなる。

チームでの援助:主治医、支援センターのスタッフさんやお仲間、そして私たち家族、こうしたチームで母を支えられるようになったら、とても良くなった。

当事者の友人:家族に言わないことも母は仲間では話すので、何か問題が起きたときは、私は支援センターのお仲間に話を聞くと、母の状態や原因などいろいろ分かり、母の体調が悪化したときに解決につながった。

 ある時、母が「あのスーパーはレジが怖い」と言ったのですが、私は母の性格かと思っていたら、他の当事者さんも「あそこのスーパーは怖い」という話をしたのです。何でもないことを当事者は難しく感じる事があるのです。当事者の話を聴くと、母だけなのか、当事者みなが困っている事なのかも分かります。

 大事なのは当事者の友達です。私は本当に辛い事が分ってあげられない。具合悪いときに、友達から「しばらくしたらよくなるよ」と電話をもらうとそれだけで良くなったりします。しんどい時に同じような人がそばにいてくれる、安心できる人がいる、ピアサポートですね。

【転院と精神科医療の問題点】

 以前に母が再発したのは、私が退職したセイと思っていましたが、最近になって母は別の理由を語り始めました。阪神大震災で乗っていた電車に電柱が倒れてきたこと、近所がガス爆発で燃えたこと、地震の後のビルの清掃の仕事が大変で疲れ果てたなどの出来事があったのです。

 今回の東日本大震災でも、地震の恐怖に加えて、計画停電でエレベーターが使えなくなって引きこもり、「こんなに大変なら死ぬ」と言い出しました。近所に支援センターがあるのにと思いましたが、長年、関西住まいだったので、思い切って引越しました。

 そこで病院選びが始まりました。私が今まで感じていた精神科医療の問題は、以下のようなことです。

・精神科医療に感じる問題

1)情報の格差。情報を教えてくれないと安心して医療を受けられない。

2)医療・福祉の専門家と、家族・当事者の連携が取れていない。

3)医療の格差。安心できる医療をみんなが受けられていない。

4)専門家や家族の勉強不足と、変わらない価値観。新しい精神病薬を使わない、治らないとか、医師にも偏見がある。

5)担当医がよく変わる。母の病院でも主治医は2年で変わり、その度に緊張して体調が悪化。またリスパダールの好きな医者もジプレキサの好きな医者もいて、変薬があって困った。

6)手のかかる患者の受け入れ拒否がある。

7)入院は3ヵ月で転院を迫られる。

8)重度で引きこもりの患者の放置。「病院に連れて来てください」といわれても、通えない人には治療への道がない。

・漫画に描けなかった事

 母に聞いた精神科病院の問題は、漫画にも描けなかったことがあります。母が入院した最初の病院の酷さです。母はしばらく全くそのことを話しませんでした。風呂の時間は決められていて笛を吹かれ出なくてはならなかったこと、電気ショックが体罰としてあったこと、知的障害者を殴るなど看護師の暴力、おばあさんが食事に遅れてきたら、混ぜ込んで食べさせた等々。母は思い出すのも嫌で、言うのも怖くて仕方がなかったのです。

 三つ目の病院もひどくて、体罰で水も飲ませてもらえない。作業療法と称して病院のシーツ換えやオムツの交換をさせられた。患者の性格まで荒んでしまい、退院しそうな患者さんを皆でいじめて再発させたりもしたそうです。

 私は、ここまでひどい病院は今はないだろうと思っていました。しかし精神科看護師の団体で話をした時や地方での講演会での交流の際に、「こんな地獄のような病院はないですね」と聞いたら、「いや…」と言われました。きれいになった病院でも、「裸で並ばされて風呂に入る」とか「食事が餌のよう」とか「この地域でお勧めできる病院はあまりない」とも言われました。看護師さんに自分が入院したい病院はあるかとアンケートをとったら、「国外」!という人がいました。「自分のいる病院だけは入院したくない」そんな答えもありました。ショックでした。
  良い病院を選ばないと、回復は出来ないと思います。「それは昔の事だ」と言いますが、環境の悪い病院が今もあることを知ってほしい。病院の二極化が進んでいます。良い医療を提供する病院か、外見がきれいでも、「良い医療のためがんばろう」という人は仕事をなくされてしまう病院か、見定めなくてはなりません。

【理想的な病院と母の回復】

 今まで家族もそんな病院に当事者を押し込めて、眼をつぶってきた事があります。そんなひどい病院だったら母を入れなかったのに…と思うほどでした。

 しかし良い病院はとても効果的です。こんどこそ失敗しない、良い病院を探そうと、大阪に引越しして家族会に聞きました。「良い病院は?」と聞くと、人によってそれぞれ違いますが、悪い病院は一致する事が多いのです。

 引越した地域は病院が多いところですが、病院名を挙げて地元の家族会に聞いたら、「う~ん」と言われました。「薬漬けなんだよね」「経営者が変ったんですよ」と。

 結局、地元にはなくて、紹介された病院は1時間半もかかるところ。「薬の調整がとてもうまい」と言われ、決心をして行きました。

・病院のチェックポイント

1)スタッフの対応が良い。

2)外来のリピーターが多い。いつも同じ顔ぶれかを見る。

3)患者・家族の評判はどうか。

4)信頼できる医師がいるか。これは少し時間がかかるかもしれない。

5)スタッフの連携があって、チーム医療をしているか。

6)最低限の薬物療法か。

7)通院患者さん全体の様子。入院患者さんは重い人もいるという感じだが、通院患者さんは安定して普通の生活を送っているはず。それなのに生気がなく皆ボンヤリと同じ顔なのは、薬が多すぎるなどの問題を感じる。

・初診で当事者の話をゆっくり聞く

 紹介された病院に行ったら、初診に4時間かかりました。まず、脳の器質性の病気を画像で検査、体の健診、ケースワーカーが今までの様子と社会施設の利用状況を尋ねました。そして医師が口の重い母に話しかけました。家族がついていくと、家族の説明だけ聞いて、当事者にはあまり話しかけない医師が多いのですが、反対です。

 なるべく少量の薬で、安定させようとしている病院だと分かりました。当事者と家族に教育熱心で家族教室もあり、情報を与えてくれるのです。「必要な時はいつでも、精神保健福祉士を呼びます。」とのこと。スタッフの誰に声をかけても対応してもらえます。病気などの説明も文書で渡してくれるので、話だけでは緊張して聞くので覚えていない。あとで読む事が出来るので助かりました。病院のルールを当事者と家族に渡して、入院費の制度も説明してくれました。

 「入院環境を知りたい」といったら、急性期病棟まで見学できました。家族は患者の部屋で過ごせて、お風呂も一定の時間の中で自由に入れます。病棟内に電話もあって通信の自由がありました。初めに誓約書を書きますが、「不満があったら、公に言っていいですよ」と電話番号を渡されました。これほどオープンな病院は初めてでした。

 後日、私が母を見舞ったとき、担当看護師は休みの日でした。しかし置手紙で母の様子を伝えてくれたのです。

 母は副作用のムズムズや口渇が15年以上続いていましたが、一週間で治りました。リスパダール(抗精神病薬)も最高時は12?でしたが6?になり、もっと減薬中です。あとはロヒプノール(睡眠薬)、便秘薬、副作用止め1錠だけですんでいます。

 今では新聞を読んでいます。手が震えて字も書けなかったのに、編み物も始めて一週間でマフラーをきれいに編み上げました。入院は4週間の予定でしたが、母が「当事者会で薬や副作用、社会資源、今後の事を勉強してから退院する」と言い出しました。「これから学びたいものがある」と意欲を出すとは、思ってもいませんでした。日常生活も普通に笑って過ごせるようになったのです。

 副作用は辛いものです。それが病院を変わるだけでこんなに良くなった。入院・通院はどんな病院かを知っている事が大切だと思います。皆さんも情報公開がしっかりしている病院に行き着いてほしいと思います。主治医とトコトン話す事も大事ですが、何回話してもだめなら、セカンドオピニオンも、新たに病院を探すのもいいかもしれません。私たちがよい病院を選んでいくのだと、意識を変えていくことが大切だと思います。
                                   -了-

(質疑応答省略)   

平成17年4月からの新宿家族会ホームページ「勉強会」の表示形式について

 新宿家族会では4月から「勉強会」ホームページの表示について、概略掲載とすることになりました。そして、「フレンズ」(新宿家族会会報紙)ではいままで同様、あるいはより内容を充実させて発行することにしました。これまで同様に勉強会抄録をお読みくださる方は、賛助会員になっていただけますと「フレンズ」紙面版が送られますので、そちらでお読みできます。
どうぞ、この機会に是非賛助会員になっていただけますよう、お願い申し上げます。

賛助会員になる方法    

新宿家族会へのお誘い 
 新宿家族会では毎月第2土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは勉強会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。
入会方法 

編集後記

 いま、フト思い出す。中村さんが初めて新宿フレンズに来た時のことを。周りのお母さん方とは一味違ったというか、ジーパンをはいてサングラスをかけ、機関銃のようなおしゃべりマシンといった感じだった。(ひそかにうるさいヤツが来たなと思った)しかし、その話を聞いていると「なるほど」と思う内容であった。

 家族会の盲点を突いていたともいえる。原理原則を述べていた。(これは只者ではないな)確かに帰る時までマンガ家であることを言わなかったが、帰りがけ「私、マンガ書いていています」と。さらに驚いたのは「統合失調症」のマンガを書きます、というではないか。

 一週間後、明治大学で催されたシンポジウムに参加したとき、そこに中村さんがいた。懇親会にも参加され、そこで渡されたのが二百ページに及ぶマンガのラフ原稿である。校正の依頼だった。(これはホンモノだと思った)

 そして、マンガを読んだ時の感想は校正よりも泣けた。笑いを取るべきマンガなのに、確かに基本は笑いであるが、その笑いと涙とが複雑に交錯して、もう、どう表現していいか。

 時代の移り変わりの中で、様々な逸材が出てくる。三十代でこのような書籍を著わし、精神保健福祉のあるべき道を主張するということなのであろう。中村さんのマンガは、マンガを通してまだまだ一年生の患者と家族のために知識を広めたい思いで書いているのだ。そう、中村さんは三十年の母親との生活の中で築きあげた経験の持ち主なのだ。(師と仰ぐべき存在なのだ)マンガの途中途中に書かれている参考記事はその経験を無駄にしたくない思いからだ。

 中村さんと同年代の健常の娘を持つ親として、娘に生き方を学ばせたい思いである。