「偏 見」

1月家族会勉強会 

講師 国際ハンセン病患者・回復者協議会
                             ジャパン コーディネーター 森元美代治さんPhoto

 平成16年の新年にあたり、新宿家族会では私たちの日常の中で、絶えず心の奥にある「偏見」という大きな問題について考えてみようと、先ごろハンセン病予防法撤廃から、さらに国家賠償訴訟の勝利にまで至った経緯の中で常に先頭に立って活動された、国際ハンセン病患者・回復者協議会 ジャパン コーディネーターを努める森元美代治さんをお招きして、お話を伺いました。

 そのご体験は余りにも悲しく、そしていかに苦渋の中にあっても、常に自分を見失うことなく、自らを信じ、両親、兄弟(家族)を信じて勝ち取った誇りある人生でした。

 私たちが抱える問題「偏見」において、森元さんは、ハンセン病の世界と精神障害の世界は全く同じ状況にあると述べられています。いま、私たちがなすべきことは何か。何に思いやるべきか。家族とは何か。多くの示唆を与えてくれました。

 事務局では、この素晴らしい講演を生の声でお聞きいただこうと、当事者講演シリーズ第3弾・「日本人の良心」・森元美代治さんの証言 と題してCD化し、頒布いたすこととしました。よって、今回の「講演抄録」はCDに入らなかった部分をまとめております。

司会
 森元美代治さんは1938年、鹿児島県奄美大島喜界島生まれ、中学3年のときハンセン病と診断されました。地元の療養所で治療ののち、大学進学を目指して東京都東村山市にある多摩全生園(ぜんしょうえん)に入園しました。

 治療の甲斐あって退園し、慶應義塾大学法学部に入学。そして卒業後は金融機関に就職しましたが、まもなく再発し、退職を余儀なくして、再び全生園に入園しました。入園中は弁護士になろうと独学で司法試験受験を目指しましたが、無念にも薬の副作用で視力を奪われ断念。その後、美恵子さんと出合って結婚、現在は全生園を退園して、奥さんとの仲むつまじい生活を送っています。

 森元さんは一貫してハンセン病患者の人権回復を訴え、ハンセン病国家賠償請求訴訟原告団のまとめ役として活動。2001年熊本地裁判決を政府が控訴を断念して、責任を認めさせた勝訴は森元さんの大きな誇りです。それでは、森元さん、お願いします。

森元さん
 こんにちは。私は、今ご紹介にあずかりましたようにハンセン病と診断されて以来、病気と闘ってきました。それは、半分は死んだ人生と言っても過言ではない人生を送ってきました。

 私は慶應義塾大学を卒業してある信用金庫に入社しまして、今問題になっている不良債権に代表される融資の部門を任されました。金融の裏の世界を知り、社会を知る勉強になりました。私は頑張りました。

 あるとき、上司である課長が「森元、お前も早く結婚して家庭を持て!」と言ってくました。しかし、私はハンセン病であることを隠していましたから、そう簡単に踏み切れなかったんです。課長の取引先のお嬢さんとの見合いの話が出ましたが、それには当然「履歴書」を交わす必要があります。そこに慶応義塾大法学部は言えても、私は奄美大島の小島・喜界島の貧農の四男坊として生まれて、中学は奄美大島のハンセン病療養所の中にある分校、といっても正規の先生もいない寺子屋のようなところで毎日を過ごしていたわけです。

 ちょっと話が飛びますが、そんな中で「らい予防法改正運動」という動きが昭和28年に起きまして、それは私の先輩たちのことですが、東村山の全生園から大変な思いして霞ヶ関の国会と当時の厚生省まで歩いて陳情と座り込みを行なっている記録もありますが、結果として明治42年の「予防法」はなんら変えることができませんでしたが、勝ち取ったものもありました。その一つは青少年のハンセン病患者に、高等教育によって社会復帰の道を開こう、というものでした。もう一つは「らい菌」を研究する研究所を造るということでした。そして、長島愛生園(岡山県・ハンセン病療養所)に高校を新設するということになりました。

 これと同時に奄美大島が日本に復帰することになりました。これで、私はあきらめていた高校進学の受験資格が得られたのです。これにはびっくりしました。私は勉強しました。先ほど言った寺子屋のような中学生活で、ハンセン病の治療を受けながら、毎晩2時、3時まで受験雑誌と入試問題集を使って独学しました。この独学が今の私の基礎学力になっていると思っています。

 最近、中学校や高校で講演を頼まれることがありますが、そこで私が話すのは「君たちがほんとうに勉強する気があれば、先生なんか必要ないんだよ」って言います。私は高校に行きたい一心でした。病気のために仲間はずれにされ、村の人にバカにされたことをバネにして学問を積んで、見返してやりたいという気持ちがありました。「やる気さえあれば、神様はちゃんと与えてくれんだ。君たちは恵まれ過ぎている」というんですよ。

 私は一期生で合格することができましたが、中には3回、4回と挑戦して合格する人もいまして、みんな向学心があったのです。 

 そこで、皆さんに是非一度来ていただきたいのは東京・東村山に「多摩全生園ハンセン病資料館」というのがあります。そこに行きますと、日本のハンセン病の歴史が詰まっています。私はそこで語り部になっています。

 ここに私は「高校コーナー」というのを作りました。それは、資料館全体が暗い話題とか資料ばかりなんです。アウシュビッツと同じなんです。でも、この「高校コーナー」だけは明るい話題として飾りたかったんです。つまり高校の卒業写真だとか、愛生園(岡山県邑久町にある長島愛生園ハンセン病療養所)で行なった機械体操、トランポリンだとかね。

 私たちはこの愛生園に高校ができたおかげで大学にも行けましたし、中にドクターになった人もいました。ですから、この高校が私の「希望」そのものでした。ところが、今から約20年前、この高校は閉校になりました。そして、卒業生307名に寄付を募って、記念碑を建てました。そのタイトルは「希望」としました。

 しかし、その後らい予防法撤廃や国家賠償法訴訟裁判を続けているうちに、思い出が凝縮されたこの記念碑や高校に対する見方が変ってきました。それは、考えれば考えるほど、こうしたハンセン病に関する遺物や歴史は、つまり「負の遺産」だったことに気がついたのです。

 ハンセン病は昭和30年代に国際的には開放医療でした。隔離は必要ない病気だとされていたのです。ところが、なぜ日本だけは1948年隔離法を作って、そのまま1996年まで続いてきたのか、ということです。これが果たして「希望」と言えるものだったろうか。私は裁判闘争を続けていく中で真実が見えてきたような気がしてきました。

 (ここで話を戻して)つまり、結婚話の時の履歴書の書けない辛さ、かといって嘘の履歴書なんて書けない。加えて、決定的な問題が起きました。それは1970年にハンセン病が再発したのです。全生園に再入園しなければならない。私はもう病気を隠すことができなくなりました。そして、会社にはっきりと病気のことを明かし、退職しました。つまり、カミングアウト(自己開示)したのです。

 その結果はどうなったか・・・。

(以降のお話はCDの中で語られています)

フレンズ・当事者の講演記録CD・第3弾

  CD「日本人の良心」
    
森元美代治さんの証言

 ハンセン病体験者から学ぶ「偏見」問題。周囲はおろか家族からも「死んでくれたらいい」と言われながらも生き抜いた、その生きる原点は何なのか?涙ながらに語る森元さんの言葉は私たちに「人の良心」を教えてくれているようです。

頒価 ¥1,000 (送料¥200別)

申込 フレンズ編集室
シルバーリボン

編集後記

 とにかく森元さんの講演は感動の3時間であった。「らい菌」に取り付かれたばかりに、運命の女神は過酷な人生を森元さんに強いた。そんな森元さんは1996年カミングアウトし、本を出版、それが『証言 日本人の過ち』である。そのあと『証言 自分が変わる 社会を変える』を出した。それは患者さん自身が変わらなければいけない。隠さないことだと。それがない限りハンセン病問題は解決しないと言い切った。 

 そして、なんとしても家族との絆を回復したい。家族も頑張って欲しい。さらに、自らの病気をさらけ出しても付き合ってくれる社会になって欲しい、という願いを込めてこの本を出版したそうだ。

 ハンセン病の問題はこれまでは「しょうがない」「仕様がない」で片付けてしまった。森元さんはこれに疑問を持った。「仕様がある」と諦めなかった。それで本を出し、ハンセン病問題を広く社会に訴えた。見事にらい予防法撤廃、国家賠償法訴訟で勝利を収めた。 

 気がつけば、3時間に及ぶ偏見・差別という闘争的話題の中で、森元さんは誰一人として憎んでいないのだ。「青酸カリを飲んで死んでくれ」という実兄さえ許している。否、そのお兄さんを労わっているのである。森元さんのお話は、いま日本人が忘れかけている「良心」を思い起こさせてくれた。CDタイトル「日本人の良心」はそんなところから自然に浮かんだ。偏見問題の核心とは意外とその辺にあるのかも知れない。