精神障害者の事件と法律

新宿区後援・1月新宿フレンズ講演会
講師 弁護士 長濱・水野・井上法律事務所 石橋有悟先生

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 私は刑事弁護を多く扱っています。その視点から以下3点についてお伝えできればと思います。
1)まずは弁護士の仕事について具体的なイメージを抱いていただきたい。そうすれば弁護士を円滑に使いこなせるようになるはずです。

2)次は会話の重要性について私の経験をお話ししたいと思います。

3)3点目は司法の現場に人間性を取り戻せ、という私のメッセージです。

【刑事事件の流れを知る】
 事件が起きると弁護士に対して弁護士会*あるいは法テラス*から出動要請がかかります。要請を受けた弁護士は警察署などに出向き、被疑者と色々話(接見)をします。勾留の後、起訴されれば刑事裁判となります。
 捜査の過程で障害が疑われる場合、精神鑑定が行われることがあります。鑑定の結果、障害が原因で事件について責任を取るのが相当でないとなれば、不起訴、措置入院などで事件が終わる場合があります。医療観察法に基づく「審判」の申立てがなされることもあります。弁護士が関わるのは、基本的には逮捕勾留され、その後起訴され刑事裁判となった場合、あるいは医療観察法に基づく審判が申し立てられた場合です。

弁護士の仕事】
 
弁護士の仕事は「言葉で人を説得する」ことです。我々は法廷に立って、裁判官や裁判員裁判では裁判員にも理解してもらわなければなりません。裁判になる前には、場合によっては検察官や警察官を説得し、示談にするために被害者を説得しなければなりません。説得的であるためには説得的なストーリーを語らなければならないのです。
 ストーリーを発見するためには「徹底して本人の話、あるいは関係者の話を聞く」ことです。単に聞くだけではなくて依頼者や家族の視点に立って、どういうものが見えてくるのか徹底的に聞くことが重要です。
 聴き取りが十分になされれば事件の個性が見えてきます。同じに見える事件でも、1つ1つ向き合うとその事件にしかない個性がある。それを見つけて伝えなければならない。
 ブレインストーミングと呼ぶ作業もよく行います。何人かで、証拠あるいは証言について「こうみるべきでは」「この解釈もあるのでは」と、自由に意見を出し合います。この作業は、自分のもっている先入観やバイアスに気づきをもたらすので非常に有効です。傾聴を尊重するオープンダイアローグ的な発想も重視しています。
 以上の作業には、当事者とその家族にも参加してもらいます。当事者や家族が別の内なる声に気付いてない場合もあり、ストーリーの発見だけでなく、更生という面でも効果的な印象です。

【対話の大切さ】
 
弁護士だからといって全てを理解しているわけではありません。むしろ家族の方が当事者と深く関わり合っていますし、思い入れも強いわけですから、弁護士に「実はこういうこともあって、こうも考えられる…」と話して頂きたいのです。家族の熱意によって弁護士も動かされます。煙たがられても、恐れずに話してください。
 事件を起こした家族ということで萎縮している場合も多いです。弁護士は怖いという印象もあるようです。でも弁護士はストーリーを発見するため、何が起きたのかを知りたがっているので、積極的に話をしていただきたいのです。
 関係者は実は話を聞いてもらいたいと思っている方が多いです。当事者も本当は話したいと思っていることが多い。本気で聞くという態度で接しますと、どんどん話が出て来ます。信頼関係も自然と生まれます。
 信頼関係が生まれると、それは裁判の場で言葉や行動として表れます。当事者と弁護士が一体であることに対してネガティブなことはなく、むしろ裁判全体に良い影響を与えると感じています。判決にも影響し、特に裁判員裁判では評価されますし、本人にとっても今後の生き方に良い方向で作用することが多々あります。

【責任能力が問題になる場合】
 何らかの障害がある人がトラブルを起こして起訴されたとします。検察官が普通に責任を問えると考えても、弁護人は「これは病気・障害に基づいて犯した犯罪だから責任能力はありません。この人にこの事件の責任を追及するのは正義ではない」と主張します。責任能力が落ちている状態を心神喪失または心神耗弱と言います。心身喪失の定義は「精神の障害のためにして良いことと悪いことの区別がつけられない、あるいはその区別に従って自分をコントロールできないこと」。心神耗弱は「これらの能力が著しく低下していて、全く責任を取れない訳ではないが限定されている」となります。
 家族からの質問に「病気のために罪を犯したのだから責任がないと、本当に言って良いのだろうか」とありました。実際は病気が原因でも社会の目が気になって、「自分には責任がありません」と大っぴらに言うことに抵抗を感じてしまうのでしょう。
 しかし刑事事件で責任を問われるのは、その人が自分の行動を悪いと分かっていながらやった場合です。もし悪いと分かっていなかったのであれば、責任は問えません。病気が原因であれば、弁護士は「こういう理由があるから責任は問えない」と堂々と主張します。
 裁判員や裁判官の目にはどう映るのか。悪いとされていることをやって、「自分は病気だから責任はない」と言い放ったら、反感が生じるのではないか。
 では、その責任能力はどうやって判断されるのか。まず重大事件で障害が疑われる場合、検察官は必ず鑑定を行います。警察署に勾留された状態で医師が面会を何回か行って診断したり、病院に2~3か月入院して鑑定を行うこともあります。
 医師が判断するための基礎データとしては、警察や検察段階で取られた調書が使われます。もちろんその調書は、警察や検察の視点で書かれたものなので、弁護人側からも本人や家族から話を聞いて、それを医師に提供することがあります。それらの情報をベースに、医師は責任能力の有無に関する意見を出すわけです。
 その際どういった点が重視されるのか。大きく言えば裁判で重視されるのは、被告人の病状(精神障害の種類と程度)、精神病の発症前の被告人の性格の犯罪傾向と、犯行との関連性の有無・程度です。被告人の病状、つまりこの人は知的障害があるとか、統合失調症だといったことは医師が判断します。しかし統合失調症イコール責任能力が無いという話ではありません。勘違いされがちですが、統合失調症であっても、その事件との関係で大きな原因となっていなければ責任は依然問われます。医師は病気と病状だけでなく性格、事件前後の被告人の様子を検討します。その上でこの人は病気であって、実際に事件を起こす前、事件の最中にこういう発言をし、事件後にこうした行動を取っていた、だからこの事件は病気に基づいて起こした、心神耗弱、あるいは喪失と判断を示すわけです。

【障害と事件】

 統合失調症:大きな事件が起きると犯人は頭が病気だ、そして頭の病気イコール統合失調症といった捉え方がされがちです。しかし私の体験ではむしろ統合失調症の数はそれほど多くはありません。というのは統合失調症の方ですと家族や周りの人も病気の認識があり、医療や福祉を受けて治まっている方が多いからです。事件になったとしても医療観察法に基づく審判が申し立てられたり、措置入院となることが多いので、微妙なケースでないと刑事事件にならない印象です。

覚醒剤・病的酩酊:アルコールを飲み過ぎて人格が変わって事件を起こしてしまう病的酩酊、覚醒剤をずっと打ち続けて幻聴や幻覚が起きて事件を起こす覚醒剤精神病のケースがあります。統合失調症と同じような症状なので医療では障害とされています。同じ障害であれば責任能力を問うべきではないというのは理屈ですが、司法はあくまで社会科学です。覚醒剤や病的酩酊では、心神喪失や心神耗弱はなかなか認められず完全責任能力が認められてしまうことが多いです。深酒や覚醒剤を自分でやって病気になって責任がないとは言わせない、という発想が根本にあるのでしょう。

軽度知的障害:気づかれにくいのが軽度知的障害です。知的障害者は自分が分からないことを隠そうとする傾向があります。プライドがあって、幼稚園や小学校の頃から周りについて行けないことを気付かれまいとして、分かったふりをすることに長けています。
 問題は大きな事件の場合には鑑定がなされるのですが、窃盗とか小さな事件や喧嘩などの場合には鑑定は行われません。「無口だ」「ちょっと変わっている」という形で処理されてしまいます。

発達障害:発達障害(アスペルガー、巻き込み型強迫性障害等)も、気づかれないことが多いです。私が担当した放火事件がありました。被告人は引きこもりで、家の中にあるストーブの向きに彼は細かい拘りがありました。家族は、この拘りに対し小うるさいことを言うと感じており、あまり相手にしません。ストーブの向きが思い通りにならない被告人は、たまらなくなって自宅に火をつけたのです。始めは「この子は働きもせずに引きこもり、しかも家では威張って、ストーブの向きなどどうでも良いことで怒って家に火を点けた。我がまま」というレッテルを貼られていました。しかし本人と会って話を聞くと拘りがすごく強い。「強迫性障害かな」と思い「扉が閉まっているか、部屋の電気を消したか、そういうことが気になったりしますか」と聞くと、「実は何度も繰り返して確認行動を取る」という。これによって被告人の強迫性障害が明らかとなったというケースがあります。

【司法に人間性を取り戻す】
 司法の場においても対話、コミュニケーションが重要であることを話してきました。
 実際の裁判の場ではどうなのか。残念ながら話をしても裁判所はなかなか聞いてくれません。官僚主義的なマニュアル化・システム化した事件処理が合理的と考えているようです。例えば覚醒剤自己使用の罪が10件あれば10件同じ、尿から覚せい剤を使ったという証拠も出ているし、無駄に時間をかけることはないという発想です。
 これは非常に危険だと思います。マニュアル化、システム化した事件処理には個性は必要ありません。個性が必要とされないので、裁判の主役であるはずの被告人の話を聞く必要もなくなってきます。人が物のように処理されて刑が執行される。そうなると更生という意味でも誰も気持ちが入っていかない。多くの弁護士は、初めは何とかしようという気持ちで動くのですが、裁判所のあまりに機械的、不感症な処理に諦めてしまう。裁判所に面倒がられても嫌だし、どうせ言っても仕方がない。機械的な処理になびいてしまうのです。
 人の声に耳を傾けない機械的処理をすることは冤罪にも繋がっていきます。日本の刑事裁判の起訴後有罪率は99.9%です。「日本の司法制度が非常に優れているから」という人がいますが、決してそうではない。本当は聞かれるべき声が圧殺されている。これが99.9%の数字の実態だと感じています。
 裁判官を巻き込んでの対話の実現のためには、弁護士だけではなくて、みんなが「機械的な処理ではなくて、被告人の話にも耳を傾けてほしい」という思いで、裁判に真剣に挑む必要があります。「もう駄目だろう」とか、あるいは「これを言ったらみんなから非難されるかもしれない」という恐怖を乗り越えなければなりません。そして機械的な処理が日常となっている司法に、人間性を取り戻さなければならないと強く思っています。
 この問題は司法という場に限られません。例えば医療の世界でも、患者を病院運営の観点からどう合理的に治療をするかが優先されて、本来の主役が置き去りにされていないか、そういった問題は、社会の色んな所にあると思うので、私たち1人1人が声を挙げていくことが、非常に重要だと感じています。
                                             ~了~

*弁護士会 弁護士は必ず所属。原則各地方裁判所に1つの弁護士会がある(北海道4、東京都3、各府県に1)

*法テラス 日本司法支援センター(国によって設立され、法律相談を無料で受ける相談窓口)

 https://www.houterasu.or.jp 0570-078374 

*早稲田すぱいく(社会福祉士・PSWの会)

office@waseda-spike.jp 03-6907-0511

*下総精神医療センター(薬物乱用等反復する行動に対する専門医療の科がある)

https://shimofusa.hosp.go.jp 043-291-1221

*運転について(元住吉こころみクリニック) 

https://cocoromi-cl.jp/knowledge/other/drive/regal/

平成17年4月からの新宿家族会ホームページ「勉強会」の表示形式について

 新宿家族会では4月から「勉強会」ホームページの表示について、概略掲載とすることになりました。そして、「フレンズ」(新宿家族会会報紙)ではいままで同様、あるいはより内容を充実させて発行することにしました。これまで同様に勉強会抄録をお読みくださる方は、賛助会員になっていただけますと「フレンズ」紙面版が送られますので、そちらでお読みできます。
どうぞ、この機会に是非賛助会員になっていただけますよう、お願い申し上げます。

賛助会員になる方法    

新宿家族会へのお誘い 
 新宿家族会では毎月第2土曜日、12時半から新宿区立障害者福祉センターに集まって、お互いの情報交換や、外部からの情報交換を行い、2時からは勉強会で講師の先生をお招きして家族が精神障害の医学的知識や社会福祉制度を学び、患者さんの将来に向けて学習しています。
入会方法 

編集後記

 新型コロナウイルスの勢いが止まらない。患者は世界で三万人以上。死者六百三十四人(2/現在)。これで終わりではない。まだまだ増える可能性がある。菌そのものは直径100nm(ナノメートル)であるが、形が王冠に似ていることからCorona(王冠)の名がついた。一部の報道では一般の人はあまり感染しない。高齢者や病弱の人が感染しやすく重症化するという。我々が抱える子たちはどうなのであろうか。

 さて、今月の講演者・石橋有悟先生から「精神障害者の事件と法律」というタイトルでお話を頂いた。当初、相模原市津久井やまゆり園事件など、精神と関係する事件が頻発しており、その辺についてお聞きすると言う発想であった。しかし、石橋先生からはその辺については触れられず、もっと根本的な裁判の問題に徹底していただいた。

 特に弁護士という職業について、その人間性のある仕事として強調された。それは、昨年本紙12月号で話題としたオープンダイアローグに繋がる話である。先生は依頼者との信頼関係を築く。対話の過程で人が自分自身で解決方法を見つけて立ち直っていく姿に、人間は凄いなと感動すると述べている。

 そして、今の裁判の実態について、マニュアル化、システム化した官僚主義的な事件処理に苦情を訴えている。人が物のように処理され刑が執行される。そんな日本の裁判に先生は疑問を投げかける。

 精神の世界で犯罪が起き、裁判となり、それがマニュアルに則って裁かれる。恐ろしいことではないか。息子を持つ親として感じる。